第二部第一章:法の届かない場所
第二部:幼い依頼人編
第一章:法の届かない場所
1
山下はじめは、都内の安アパートで履歴書をシュレッダーにかけていた。
ロースクールを卒業し、司法試験にも合格した。しかし、彼が抱いていた「正義の味方」という青臭い理想は、就職活動という現実の前に脆くも崩れ去った。大手法律事務所の面接では、彼の生真面目すぎる性格が「融通が利かない」と一蹴され、気づけば同期たちがスーツで闊歩する中、彼は一人、コンビニの弁当を啜る日々を送っていた。
「はじめ、あんた何やってんのよ」
電話の主は、姉の直子だった。彼女は地元で保育士として働いており、はじめの不器用な生き方を昔から心配していた。
「司法試験に受かったからって、弁護士バッジを待ってるだけで人生終わらせるつもり? 現場を知らない法律家なんて、ただの六法全書の付録よ」
姉が紹介してきたのは、街の外れにある児童福祉施設「さくら児童センター」の臨時職員の口だった。かつて「ラジオ体操事件」で子供たちが消えたあの街から数駅しか離れていない、古い平屋の施設だ。
「法律の知識があるなら、子供たちを守るために使いなさいよ。今、そこ人手が足りなくて困ってるんだから」
はじめは溜息をつき、数日後には古びたセンターの門を叩いていた。
2
「ここはね、山下君。法律が一番嫌う『グレーゾーン』の吹き溜まりなのよ」
施設長のベテラン女性、佐藤は、はじめを案内しながら事務的に言った。
施設内には、騒がしく走り回る子供たちもいれば、部屋の隅で膝を抱えて動かない子供もいる。はじめが法律事務所で見てきた整然とした書類の世界とは、正反対の混沌がそこにはあった。
そこで、はじめは一人の少女に出会う。
名前は、キム・ソヨン(金ソヨン)。韓国人の母と日本人の父を持つ、小学3年生の女の子だ。
彼女はいつも、真夏だというのに長袖のシャツをぴっちりと着込み、図書室の隅でボロボロの絵本を読んでいた。
「ソヨンちゃん、こんにちは。今日からここで働く山下です」
はじめが努めて明るく声をかけると、ソヨンは一瞬だけ顔を上げた。その瞳には、子供らしい輝きはなく、ただ深い、底知れない「諦め」のような色が宿っていた。
彼女は何も答えず、ただ持っていた絵本のページをめくった。その時、長袖の隙間から、はじめの目は見てしまった。
細い手首に刻まれた、新しい火傷の跡を。
3
「佐藤施設長、ソヨンちゃんの腕を見ましたか。あれは明らかに異常です」
その日の夕方、はじめは佐藤に詰め寄った。法律家としての本能が、これは看過できない「事件」だと告げていた。
しかし、佐藤の反応は鈍かった。
「……山下君。私たちも分かっているわ。でもね、彼女の父親は地域の有力者で、警察や役所にも顔が利くの。前回の家庭訪問でも、彼女は『自分で転んでアイロンに触った』と証言したわ。本人が認めない限り、私たちにできるのは『見守り』だけなのよ」
「見守る? 死ぬまで待つということですか?」
はじめの声が荒くなる。かつてこの街で起きた、あの「ラジオ体操事件」。あの時も、大人たちは子供たちの小さなSOSを見逃していたのではないか。
佐藤は悲しげに目を伏せた。
「ここは法律事務所じゃない。警察官が踏み込むには、もっと決定的な『血』が必要なの。それがこの国の、この現場の現実よ」
4
その日の帰り際、はじめは図書室に忘れ物をしたことに気づき、引き返した。
人気のない図書室で、ソヨンが一人で机に向かっていた。
彼女ははじめに気づくと、小さな声で、しかしはっきりとこう言った。
「お兄さん、弁護士になる勉強をしてるんでしょ?」
はじめは驚いて足を止めた。
「……どうしてそれを?」
「お姉さん(直子)が言ってた。悪い人をやっつけるための本を、たくさん読んでるって」
ソヨンは、自分の細い腕をさすりながら、はじめをじっと見つめた。
「ねえ。……どうして、人を叩いちゃいけないっていう法律があるのに、お父さんは捕まらないの? 法律は、子供の味方じゃないの?」
その問いは、はじめが司法試験のために暗記してきた数千の条文よりも重く、鋭く、彼の胸を刺した。
はじめはソヨンの前に膝をつき、彼女の目線に合わせて静かに言った。
「……味方にするんだよ。君を苦しめるものから守るために、法律を、僕が武器に変えてみせる」
ソヨンは小さく頷き、一通の汚れた手紙を、はじめの手に握らせた。
「これ、読んで。……私が消えちゃう前に」
手紙には、子供の字で、家の中で行われている「儀式」の内容が記されていた。そしてその末尾には、第一部の事件を彷彿とさせる、戦慄の一行が書き添えられていた。
『お父さんは、あの井戸から聞こえる声に従っているだけだって言うの。』
山下はじめの、本当の意味での「闘い」が、ここから始まる。




