第二章:深淵からの返信
第二章:深淵からの返信
1
20XX年、秋。かつて「ラジオ体操事件」として街を震撼させたあの古井戸は、今や生い茂る葛の蔓に覆われ、石の縁さえ見えないほどに埋もれていた。
再捜査チームの若手刑事、佐伯は、特殊高感度カメラを装着したワイヤーをゆっくりと井戸の底へ降ろしていた。15年前の捜索では「何もなかった」と結論づけられた場所だ。しかし、昨今の異常な地殻変動により、井戸の底がわずかに陥没し、それまで隠されていた「隙間」が露出したという報告があった。
モニター越しに見えるのは、泥と湿り気にまみれた漆黒の世界だ。
「……ん? 何か映りました。石じゃない。人工物です」
佐伯の声に、背後で見守っていた定年間近のベテラン刑事、松井が身を乗り出した。松井は、15年前に現場で太郎のカードを拾い上げた、あの日の捜査員の一人だった。
「引き上げろ。慎重にな」
慎重にクレーンが作動し、泥にまみれた「塊」が地上へと生還した。
それは、ビニール袋に幾重にも包まれ、ガムテープで執拗なまでに密閉された、一冊の古いノートだった。
2
警察署の鑑識課。異様な緊張感の中で、ノートの包みが開封された。
外側のビニールは劣化し、茶色く変色していたが、中身は驚くほど無傷だった。
「……これは、織田太郎のノートです」
鑑識官の声が震えた。
表紙には、小学5年生らしい、少し背伸びをした硬い筆致で**『自由研究:僕たちがどこへ行くかについて』**と記されていた。
松井は震える手でページをめくった。そこには、あの日、公園へ向かったはずの少年たちの「その後」が、恐ろしいほどの克明さで綴られていた。
【手記の内容:抜粋】
8月1日(1日目?)
井戸の中に降りたら、そこはもう夜だった。
大我の時計は、さっきからずっと「6:15」のまま動かない。でも、空には大きな月が出ている。
ここには大人もいないし、宿題もない。和夫が捕まえたセミが、逃げてもいないのに鳴き止まない。
僕たちは、ようやく「誰にも見つからない基地」を見つけたんだ。
日付不明
お腹が空かない。喉も乾かない。
太一が「時計が壊れた」と言って泣き出した。でも、康成が言ったんだ。「時間がなくなったから、時計もいらなくなったんだよ」って。
康成は、持ってきた本をもう100回も読んだらしい。でも、ページをめくるたびに、書いてあるお話が変わるんだって笑っている。
不思議なことに、誰も家に帰りたいと言い出さない。あんなに厳しかったお父さんの顔も、お母さんの声も、もう思い出せないんだ。
日付不明(たぶん、ずっと後)
和夫の虫かごから、見たこともない色の蝶が出てきた。
大我は、ずっと遠くにある「時計塔」に向かってボールを投げ続けている。
僕も、この手記を書くのをやめようと思う。言葉も、もうすぐ思い出せなくなる気がする。
最後に一つだけ決めた。
もし、この世界に「次の誰か」が来るなら、僕たちが持っていたものを、あっち側に置いていこう。
僕たちのことを忘れてほしい。でも、僕たちがここにいることだけは、誰かに知ってほしい。
さようなら。
僕たちは、今からあの時計塔に登ります。
そこが、本当の「夏休みの終わり」だそうです。
3
松井は手記を読み終え、言葉を失った。
ノートの最後のページには、走り書きでこう付け加えられていた。
『追伸:松井さんへ。あの日、僕のカードを拾ってくれてありがとう。』
松井の背筋に氷水のような戦慄が走った。
15年前、現場でノートなど見つからなかった。それ以上に、あの日現場にいた捜査員の名前を、子供たちが知るはずがなかったのだ。
佐伯がモニターを指差して叫んだ。
「松井さん、見てください! 井戸の底、まだ何かあります!」
カメラが映し出したのは、ノートが置かれていた場所のさらに奥。
泥の中から、**「今朝発行されたばかりの新聞」と、「まだ温かさすら残っていそうな、誰かが飲みかけのペットボトル」**が半分埋もれた状態で映し出されていた。
15年前の世界と、今の世界。
そして、少年たちがいる「あちら側」の世界。
古井戸という名の特異点は、今この瞬間も、誰かを「夏休みの終わり」へと誘い続けている。
「……彼らは、まだそこにいる」
松井の呟きに応えるように、どこか遠くで、15年前の夏に流行ったラジオ体操のメロディが、ノイズ混じりに響き始めた。




