深淵からの返信
二〇XX年、秋。
かつて「ラジオ体操事件」として街を震撼させたあの古井戸は、今や葛の蔓に厚く覆われ、石の縁さえ埋もれていた。
再捜査チームの若手刑事、佐伯は、特殊カメラを装着したワイヤーをゆっくりと暗闇へ降ろしていた。十五年前の捜索では「底に異常なし」と結論づけられた場所だ。しかし昨今の地殻変動により、底の岩盤にわずかな陥没が生じ、それまで隠されていた隙間が露出したという報告があった。
「……石じゃない、人工物です」
佐伯の声に、背後で見守っていた定年間近のベテラン刑事、松井が身を乗り出した。松井は十五年前、この場所で織田太郎の出席カードを拾い上げ、少年たちの「不在」を最初に確認した捜査員だった。
「引き上げろ。慎重にな」
泥にまみれた塊が地上へ出た。ビニール袋に幾重にも包まれ、ガムテープで密閉された、一冊のノートだった。
警察署の鑑識課で包みが開封された。外側のビニールは茶色く変色していたが、中身は驚くほど無傷だった。
「……織田太郎のノートです」
表紙には、少し背伸びをした硬い筆致でこう記されていた。
『自由研究:僕たちがどこへ行くかについて』
松井は震える手でページをめくった。
【手記・抜粋】
八月一日
井戸の中に降りたら、そこはもう夜だった。
太一の時計は「6:15」から動かない。でも空には大きな月が出てる。
大人も塾も宿題もない。和夫が逃がしてあげたはずのセミが、僕たちの肩に止まったまま離れない。なんでだろう。
日付わからない
お腹が空かない。喉も乾かない。
太一が「時計が壊れた」と言って泣いた。康成が笑って言った。「時間がなくなったから、時計もいらなくなったんだよ。便利だね」
康成はずっと本を読んでる。でもページをめくるたびにお話が変わるらしくて、今日は「僕たちの名前」が出てくる話になったって言ってた。
不思議なんだけど、お父さんの顔がもう思い出せない。最初からいなかったみたいな気がする。
日付わからない
和夫の虫かごから、見たことない色の蝶が出てきた。羽に、大我の家の住所が書いてあった。
大我は空に浮かんでる時計塔に向かって、ずっとボールを投げてる。投げるたびに、あいつの体が少しずつ透けてくる。
僕も、そろそろ言葉を思い出せなくなりそうな気がする。
だから最後に一つだけ決めた。もし「次の誰か」がここに来るなら、僕たちが持ってきたものを、あっち側の縁に置いていこう。
忘れてほしい。でも、ここにいることだけは知ってほしい。
さようなら。
僕たちはあの時計塔に登ります。そこが、本当の夏休みの終わりだそうです。
松井は読み終え、しばらく動けなかった。
最後のページに、走り書きが一行あった。
『追伸:松井さんへ。カードを拾ってくれてありがとう。』
全身が冷えた。
十五年前、現場でノートは見つかっていない。それ以上に、あの日現場にいた若手捜査員の名前を、井戸に消えた子供たちが知るはずがない。松井は当時、まだ新人だった。担当捜査員として発表されたこともない。
知られるはずが、ない。
「松井さん」
佐伯の声が上ずっていた。
「モニター、見てください」
カメラは、ノートが置かれていた場所のさらに奥を映していた。陥没した岩盤の隙間。泥の表面に、白く浮かんでいるものがある。
子供の手形だ。
ゆっくりと、まるで今押されたように、輪郭が滲んで広がっていく。
松井は声を出せなかった。
どこからともなく、ラジオ体操のメロディが聞こえ始めた。十五年前の夏に、この街に流れていたものと同じ旋律。音の出所が、わからなかった。




