朝の影、白日の沈黙
二〇XX年八月一日。その朝の光は、まだ斜めだった。
午前六時、デジタル時計が「6:00」を刻むと同時に、織田太郎は目を開けた。昨夜、書斎のドア越しに聞こえた父親の声が、耳の奥にまだ貼りついている。
太郎に失敗は許されない。それが織田家の跡取りとしての義務だ。
太郎は首に下げた出席カードを指でなぞった。タコ糸を丁寧に通したのは母だ。彼にはそれが、首輪に見えた。
「行ってきます」
誰もいないリビングへ向けて、言い捨てた。
一本道で合流した田中大我は、青いアディダスのキャップを深く被り、不自然なほど肩を強張らせていた。
「大我、肩——」
「平気」
大我は逃げ出すように走り始めた。エースと呼ばれ続けた利き肩は、すでに悲鳴を上げている。父に告げれば待っているのは「根性が足りない」という名の指導だ。だから彼はただ、走り続けた。
その後ろを、徳田和夫が大きな虫かごを抱えて歩いてくる。
「見て、今日のは大きいんだ」
虫かごの中でアブラゼミが羽を震わせていた。和夫の家には会話がなかった。両親は視線すら合わせない。見てほしい、認めてほしい。虫かごを差し出すたびに、彼はその言葉を飲み込んだ。
宮内太一は何度も、父から持たされた重厚なダイバーズウォッチを覗き込んでいた。共働きの両親は時間に厳しく、一分の遅刻が玄関の閉め出しを意味した。太一にとって時計は、常に自分を追い立てる時限爆弾だった。
最後尾には、大村康成が文庫本を広げたまま現れた。
「……おはよう。キリが良くなるところまで読みたかった」
眼鏡の奥の目は、いつも少し冷めていた。
五人が揃ったとき、そこには本来もう一人いるはずだった。佐々木健だ。
「健、お前、帰った方がいいぞ」
太郎が静かに言った。健は腹痛を口実にしようとしていたが、それより先に言葉が出た。五人の瞳に、何か見てはいけないものを感じたからだ。笑っている。なのに、その目が笑っていなかった。
「うん……。ごめん、俺、帰るわ」
「じゃあな。明日、スタンプ見せろよ」
太郎がカードをひらひらと振った。健が振り返ったとき、五人はすでに角を曲がっていた。それが、この世界で見た親友たちの最後の背中だった。
午前六時十五分。
五人が辿り着いたのは、公園ではなかった。近道の藪を抜けた先、「幽霊屋敷」と呼ばれる廃屋の裏に、古い井戸がある。
井戸の縁には、古びたラジオが置かれていた。ノイズの向こうから、声が漏れる。言葉ではなく、ただの気配として。
太郎は、首から出席カードを引きちぎった。
大我は、キャップを脱いだ。
和夫は、虫かごの蓋を静かに開けた。セミが飛び立つ気配はなかった。
康成は、読みかけの文庫本を置いた。
太一だけが少し迷った。それから彼は、腕のダイバーズウォッチを外し、暗闇へ向かって投げた。
小さな水音が響き、消えた。
六時三十分。公園でラジオ体操の音楽が鳴り出したとき、井戸の周辺には人影がなかった。五人の少年たちの私物だけが、奇妙なほど整然と、石の縁に並んでいた。
大規模な捜索が始まったのは、その数時間後だ。
現場に入った捜査員は、遺留品の前で長い時間、動けなかった。土汚れ一つない出席カード。蓋の開いた空の虫かご。争った形跡も、引きずられた跡も、何もない。
夕暮れ時、街には大人たちの声が響いた。名前を呼ぶ声は、叫びに近かった。
しかし健だけは知っている。
翌朝、枕元に一枚の白いカードが置かれていたことを。太郎の筆跡で、一行だけ書いてあった。
『こっちは、すごく自由だ。健も、いつかおいで。』
こうして、この街の歴史の中で最も静かな未解決事件――『ラジオ体操事件』の幕が上がった。




