第一章:朝の影、白日の沈黙
第一章:朝の影、白日の沈黙
1
20XX年8月1日。その朝、街はあまりに白く、そして静かだった。
午前6時。アスファルトが熱を持つ前の、わずかに湿った空気。セミの声はすでに狂ったように鳴り響いているが、それがかえって耳の奥に異様な静寂を突きつけてくる。
織田太郎は、枕元のデジタル時計が「6:00」を刻むのと同時に目を開けた。寝起きの頭に浮かんだのは、昨日の放課後の約束だ。
「明日、ラジオ体操が終わったら、そのまま『裏の山』の奥まで行こうぜ。絶対に誰にも見つかってない秘密の基地を作るんだ」
リーダー格である太郎の提案に、他の4人は目を輝かせて頷いた。
太郎はキッチンへ行き、まだ眠っている両親を起こさないよう、慎重に冷蔵庫から麦茶を出して飲み干した。首には、母が紐を通した「ラジオ体操出席カード」をぶら下げる。
「行ってきます」
誰もいないリビングに小さな声を残し、太郎はサンダルを履いて玄関を出た。
2
公園へと続く一本道。そこには、すでにいつもの面々が集まっていた。
一番に待っていたのは、徳田和夫だった。彼は自分よりも大きな虫かごを大事そうに抱え、道端の生垣を覗き込んでいる。おとなしい彼は、いつもこの虫かごの中に自分の居場所を探しているようだった。
「和夫、早いな」
「あ、太郎君。……見て、今日のは大きいんだ」
和夫が指差した先には、朝露に濡れた大きなアブラゼミがいた。
そこへ、騒がしい足音とともに田中大我と宮内太一がやってきた。
大我は青いアディダスのキャップを逆さに被り、アスファルトの上で無駄にステップを踏んでいる。少年野球のエースである彼は、じっとしていることができない。
一方の太一は、少し窮屈そうなTシャツの袖をまくり上げ、何度も左手の手首を顔に近づけていた。
「見ろよ太郎、これ。親父が昨日くれたんだ」
太一が見せびらかしたのは、重厚なダイバーズウォッチだった。小学5年生の細い手首には明らかに不釣り合いだったが、そのデジタル数字の刻みが、彼らにとっては特別な「大人の時間」を共有している証のように思えた。
「あと一人、康成は?」
大我が周囲を見渡すと、少し遅れて大村康成が角から現れた。
彼は片手に文庫本を持ち、歩きながらもページをめくっている。ポケットは読みかけの本の重みで歪んでいた。
「……おはよう。ごめん、キリが良くなるところまで読みたかったんだ」
康成は眼鏡のブリッジを押し上げながら、少し申し訳なさそうに笑った。
これで5人が揃った。
織田太郎、田中大我、徳田和夫、宮内太一、大村康成。
同じクラスの、いつもの5人組。彼らにとって、この夏休みは何十年も続く人生の一部ではなく、永遠に終わらない「今」そのものだった。
「よし、行こうぜ。公園まで競争だ!」
大我が声を上げ、走り出す。
「ずるいぞ、大我!」
太郎たちがそれに続く。
5人の影が、朝日に引き延ばされ、白い道の上を躍った。それが、この街の人々が目にした、彼らの最後の生きた姿となった。
3
公園までは、大人の足で7分。子供が駆け足で行けば5分もかからない距離だ。
道中には、古い民家と、手入れの行き届かない空き地が点在している。
公園の手前100メートルほどの場所に、地元で「幽霊屋敷」と呼ばれている古い廃屋があった。その庭の隅には、今は使われていない古い石造りの井戸がある。
いつもなら、彼らはその場所を気味悪がって素通りするはずだった。
しかし、この日の朝、何かが違っていた。
先頭を走っていた大我が、急に足を止めた。
「……おい、あれ何だ?」
大我が指差したのは、井戸の縁に置かれた一台の古いラジオだった。
そこから流れていたのは、ラジオ体操の音楽ではなかった。
ノイズの混じった、低く、湿った、女の笑い声のような音。あるいは、古い機械が軋む音。
「誰かのいたずらだろ。行こうぜ、遅れちゃうよ」
康成が不安そうに言う。
だが、リーダーの太郎は、何かに吸い寄せられるように井戸へと歩み寄った。
「待てよ、中から音がする」
5人は顔を見合わせ、恐る恐る井戸の縁を覗き込んだ。
深い、深い闇。
夏の強い日差しが、その穴の中だけは届かない。冷たい風が、下から吹き上がってくる。
「……おい、誰かいるのか?」
太一が声を上げた。その瞬間、彼の左手の手首で、デジタル時計の電子音が「ピピッ」と無機質に鳴った。
午前6時15分。
本来なら、公園でラジオ体操の第一声が響き渡る時刻だ。
その音を合図にするかのように、井戸の底から「音」が消えた。
セミの声も、風の音も、遠くを走る車のエンジン音も。
世界から、色彩と音が奪われ、ただ真っ白な光だけが5人を包み込んだ。
4
午前6時30分。
公園では、近所の老人たちや子供たちがラジオ体操を終え、首に下げたカードにスタンプをもらっていた。
「織田君たち、今日は来てないわね」
近所の主婦が、少し不思議そうに呟いた。
いつも一番乗りで騒いでいる5人が、一人も姿を見せないのは珍しいことだった。
午前8時。
朝食の時間を過ぎても帰宅しない息子を心配し、織田太郎の母親が近所に電話をかけた。
そこで、他の4人の家庭でも、子供たちが帰っていないことが判明する。
午前10時。
警察への通報。当初は「道草でもしているのだろう」という楽観的な空気が漂っていた。
しかし、正午を過ぎ、最高気温が35度を超えても、5人の行方は杳として知れなかった。
午後2時。
大規模な捜索が始まった。
そして、あの古い廃屋の井戸の近くで、最初の遺留品が発見される。
地面に、不自然なほど丁寧に並べられた、織田太郎のスタンプカード。
その横には、徳田和夫の空の虫かご。
虫かごの蓋は開いており、和夫が捕まえたはずのアブラゼミは、すでに死んでいた。まるで数年も放置されたかのように、干からびて。
しかし、周囲の土には、争った形跡も、5人以外の足跡も残されていなかった。
5人の子供は、まるで煙のように、この世界から蒸発してしまったのだ。
夕暮れ時。
街には、彼らの名前を呼ぶ大人たちの声が虚しく響き渡る。
茜色の空を背景に、あの井戸だけが、口を開けたまま沈黙を守っていた。
こうして、昭和から平成へと続くこの街の歴史の中で、最も忌まわしく、最も「美しい」とさえ言われる未解決事件――『ラジオ体操事件』の幕が上がった。




