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歪の檻に囚われた、彼女の末路  作者: 天代智
歪な再会
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真 side 4



 こんなに泣いたのはいつぶりだろう。


 生まれた時から私は医師になるよう、厳格な祖母に育てられてきた。嫁入りした母は祖母の熱心な教育に耐え切れず、私が小学校へ入る前に家を出て行った。母のこともそれなりに好いてはいたが、出て行かれたからといって恋しいと思うことはなかった。思う暇がなかった。


 幼い頃は泣いてばかりで、母の代わりともなった厳しい祖母のことが苦手だった。意見をすることは逆らうことと同義で、求められる返事は「はい」以外、認められなかった。そんな家庭環境で育ったせいか、いつからか私も祖父や父のような医師になるのだと志した。それしか道がなかった。


 次第に私という人格が形成されていき、ただ感情のままに泣くことは減っていった。


 傍から見れば、私は感情を持ち合わせない冷たい人間に映ったことだろう。曲がったことが嫌いで、いつも正しさばかりを追っていたからか、周りから疎まれた時もあった。若い頃の話だ。勉強はできても、頭が固かった。すべてが白と黒だけの世界のように感じていた。


 そんなモノクロの世界に色を差したのが美香だった。私のような人間を前にしても物怖じすることなく、微笑みかけてくれる女性はかつて見たことがなかった。


 中高と一貫して男子校で、そもそも女性と接する機会が少なかったせいかもしれない。大学受験前には家政婦を雇われたが、その女性は仕事だけはこなすものの、消極的で常に自信がないような人だった。


 だからこそ美香のように聡明でありつつも、感情豊かで、話していて楽しいと思う女性の登場は衝撃的であり、新鮮だった。


 美香は若くも、聖母のような包容力を持った人だった。


 後に、美香を失った私は、しばらくは抜け殻のようだった。どのように過ごしていたのかは覚えていない。祖父母はすでに亡くなっていて、父や周りの人間たちに多大な迷惑をかけたと思う。それでもなんとか自身を奮い立たせて、私は医師として病院に復帰した。


 失った人はもう、戻ってこない。残酷だが、受け入れるしかなかった。


 だが、心の底ではずっと、美香に会いたかった。一目だけでいい。彼女に会いたかった。


 それが今、こんな形で叶うとは……。


「生きて……生きていて、くれたんだな。美香」


「真、さん?」


 喜びを噛みしめつつ、私は一層強く美香を抱いた。


 一方、腕の中の美香は息を詰まらせ、もぞもぞと身じろいだ。


「あの……痛い、わ」


「す、すまないっ」


 苦しそうに身体を捩る美香を目にして、私は慌てて腕を解いた。抱擁など久々にしたものだから、加減ができなかった。


 腕を痛めていないだろうかと心配して、美香の左手を握りながら顔を覗きこむ。彼女は細い二の腕を右手で擦りながら、困惑した表情で辺りを見渡していた。無理もない。目覚めたらこんな暗闇の中に放られていたんだ。それで平然としていられるやつなどいやしない。


 やはり美香は聡明だ。そして強い。この状況で悲鳴の一つもあげずに事態を見極めようとする様は、感心せざるを得ない。まったく、十二年前の記憶の中の彼女とちっとも変わらないな。


 ……うん? 変わら、ない? それは少し、いやかなりおかしくないか? 美香は二〇一〇年の五月二十四日に私の前から忽然と姿を消した。それから十二年だぞ。二年じゃない。十二年だ。


 美香がどんなに美しいとはいえ、若さだけはどうにもならない。それなのに、目の前の美香は私よりも一回りは若い。当時の美香の年齢が二十九歳。彼女が生きていてそのまま時が経ったのだとすれば、今は四十一歳だ。


 四十代ともなると、女性はそれ相応の美しさを纏うようになり、大人の女性としての品格が備わる。代わりに、肌のハリはなくなり、ところどころに皺ができ、髪も柔く細くなる。うんと若々しい人といえど、その若さを十二年も持ち越せるわけがない。


 ここが暗いせいで、そう見えるだけ……か? いや、今握っている彼女の手は、この目で見なくとも瑞々しさがあることがわかる。顔は化粧で、身なりは服装で誤魔化すことができても、手の甲にはその人が生きた年数が刻まれやすい。


 何より、こんな劣悪な環境下で十二年も監禁されていたのであれば、これほど綺麗な手を保ち続けていられるわけがない。


 つまり、これは夢? 美香に会いたいと想う気持ちが強すぎて、レム睡眠下で彼女が現れてしまったとでもいうのか?


 それにしてはすべてが生々しい。先ほど、打ちつけた背中はまだ痛むし、目の前の美香の感触もはっきりとこの手から伝わってくる。温かい。


 これが……目の前の美香が、幻覚の一種だとは到底思えない。


「大丈夫?」


 優しい美香。目覚めたばかりで未知の恐怖を感じているはずなのに、それを押しのけてまで私の心配をしてくれる。


 ああ、可哀想に。手が震えている。私は「大丈夫だよ」と微笑んだ。


「そう。よかった」


 安堵の息を吐く時の声が少しだけ擦れていた。こんな廃墟の中だ。乾燥や埃で喉を傷めたのだろう。それ以外は本当に、記憶の中の美香のままだ。恐ろしいほどに。


 他人の空似、という可能性もあった。しかし、ただ似ているだけの別人だとしたら、そもそも私が名乗った時点で、「どちら様?」と首を傾げているはずだ。


 そう、そのはず。


「……美香」


「何? 真さん」


「美香の……誕生日と、血液型は?」


 美香は私のこの質問に、怪訝な顔を浮かべた。すかさず、「大事なことなんだ」と伝えると、首を傾げながらも答えてくれた。


「四月二十日のA型だけど。それがどうしたの?」


「そ、そうか。いや、いきなりすまなかった。ありがとう」


「いいけれど……変なことを聞くのね」


 今度は反対側にコテンと首を傾けた。そうだ。こうやっていちいち可愛らしい仕草をするのが彼女だ。


 目の前の女性は、間違いなく美香本人だ。


「それで、ここはいったい、どこなの? 私たち、どうしてこんな場所で……二人きり、なの?」


 戸惑いながらも、美香は聞きたいことを一つ一つ上げていく。私はそれに答えるよりも前に、彼女の反応を観察した。ああ、なんてことだ。彼女はこの異様な事態に、まるで初めて陥ったという様を見せた。


 それを踏まえて、私の頭の中には一つの仮説が立てられた。それはあまりに荒唐無稽で、にわかには信じ難いことだが、そう考えざるを得ないでいる。


 これまで、神を信じて祈ったことなどなかったが、もしもこれが本当なら地べたに額を擦りつけてでも感謝したい。


 だがまだ確信がない。この仮説が本当だという確信が。それに確かめようにも、この仮説が事実であるとどうやって確かめればいい? いったい、どうすれば……。


 すると混沌に満ちた脳に、軽快な声が落とされた。


「おやおや。ここにも人がいたんですね」


 懐中電灯の光を私と美香に向ける鈴木が、何やら楽しそうにほくそ笑んでいた。


「うっ」


 明かりに目が慣れていない美香は、顔の前で両手を翳し、「だ、誰?」と困惑気味に尋ねた。


 鈴木は私に出会った時と同じように、美香へ微笑んだ。


「私ですか? 私は鈴木です。あなたのお名前は?」


「え? えっと……」


 見知らぬ人間からいきなり声をかけられ、美香が鈴木と私を交互に見た。


「なっ……!?」


 同時に、私の目が、引ん剥かんばかりに見開かれた。美香が首を動かしたことと、鈴木が彼女に向けて照明を当てたことで、それまで見えなかった"あるもの"を目にしてしまったからだ。


「何だ、これはっ」


 美香の首にはぐるりと一周、縄のような痕が浮かんでいた。索条痕だ。また、彼女の首から下をよく見ると、白衣の中に着ているブラウスが、胸の谷間が見えるほどボタンを外されていた。いや、引き千切られていた。白衣のボタンはすべて留められているというのに、ここだけがはだけているのはおかしい。清楚な美香が、性の象徴ともいえる部分を自らさらけ出し、衣服を淫らに着こなすことは、まずなかった。


 これは間違いなく、私たちを閉じ込めた犯人の仕業だ。自分の喉奥からぐうっと、酸味の混じる空気が押し上がった。美しい彼女の声が擦れているのも、これが原因だったのかと思うと、はらわたが煮えくり返るようだ。


 私は怒りを声に含ませ、美香に尋ねた。


「美香。その首は、いったい誰にやられたんだ? 乱暴されたのか?」


 美香は自身の首に手を添えると、途端に何かを思い出したのか頭を振って、体をわなわなとさせた。


「わ、わからないの……。仕事の帰り、後ろから誰かに首を絞められて……私もう、死んだと思っていて……。たった今、目覚めたのよ。それ以外に乱暴なことは……」


 と言って、美香は自分の胸を見下ろしてから、慌ててはだけたブラウスを合わせるように片手で掴んだ。そして恥ずかしそうに俯き、「乱暴は、たぶん、されてない」と声を小さくして答えた。


「喉は大丈夫か? 呼吸は? 苦しくないか?」


「ええ。少し、痛いけど、息は苦しくないわ」


「そうか」


 その言葉に、私は安堵する。ともかく、無事でよかった。


「顔はまったく見ていないんですか? 性別は? 犯人の声とかは?」


 質問を止めた私に代わるように、鈴木がさらに尋ねた。傷ついている女性に追い打ちをかけるような真似をする鈴木に、私は「おい」と乱暴気味に制止をかける。


 一方で、美香は申し訳なさそうに目を伏せた。


「ごめんなさい。何も、見てないの。覚えてないわ。でも、力はとても強かったから……男の人、だったのかもしれない」


「そうですか。答えてくださって、ありがとうございます。災難でしたね」


 鈴木が私たちに近づきつつ、美香へ同情気味に声をかけた。


「ところで……」


 鈴木が私と美香を交互に、懐中電灯で照らした。


「あなたとミカちゃんはお知合いなんですか?」


「み、美香、ちゃん?」


 私は声を裏返しながら、鈴木に聞き返した。なぜ、彼が美香の名前を知っている。しかも”ちゃん”付け。


 すると鈴木が、「今さっき、あなたが言ったんじゃないですか」と私の疑問にすかさず答えた。しまった。つい、感情的になって美香の名前を口走ってしまった。


 今さら遅いが、私は自分の口を塞ぐように手で覆った。


「ちなみにミカって、実に人偏の佳って漢字を書いて実佳? それとも美しいに香る? あ、三に花って書いてもミカって読めますね」


「う、美しいに、香るの……美香、です」


「ああ、名前にぴったりですね。では、監禁された者同士、よろしく美香ちゃん」


「か、監禁っ?」


 鈴木が訥々と答える美香に片手を差し出し握手を求めるも、監禁という単語を耳にした美香の肩が一段と大きく震えた。


 そんな美香の反応に、手を差し出したままの鈴木がとぼけた様子で首を傾げた。


「あれ? まだ聞いてなかったんですか? こちらの男性から」


「鈴木君」


 私は彼の名前を初めて口にした。


 自分の恋人がいきなり”ちゃん”付けで呼ばれたことを不愉快に感じているのもそうだが、それ以上に美香を彼に近づけたくないという感情が上回っている。


 おそらく美香は、男性に対して恐怖を抱いている。無理もない。彼女は首を絞められた。なおかつ衣服も乱暴にされている。それを行った者が誰かはわからずとも、現時点で彼女は犯人を男性だと思っている。その上、監禁だ。この事実が揃って、なおも平然と振舞える方がおかしい。


 鈴木が悪いわけではない。彼もまた被害者だ。とはいえ、性別というカテゴリーで括れば、犯人候補に上がる。


 誰が犯人なのかわからない以上、安易に近づけさせるわけにはいかない。



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