弓騎士の願い
メヴィにとって今の命は仮初のようなものだった。なぜならばこの世界に愛する母がいないからだ。言いつけを守っても褒めてくれる母がいない。尽くす相手がいなければ魔術を使えても意味がない。ゆえにメヴィは、生きながらにして死んでいた。
「アルジェブラさん……随分と、やんちゃをしましたねえ」
アルジェブラが見下ろしている。かつての健康的だった面影はなく、滑らかな金髪は血と贓物に汚れ、張りのある肌は無数の菌糸が巣食い、力強かったはずの瞳は濁ってしまった。パラアンコの国旗が刻まれた鎧も菌糸に覆われている。
「そこにいたのねナタリア。さあこっちにおいで。可愛らしい顔をお母さんによく見せてちょうだい」
疲れ果てたような笑顔で両手を広げるアルジェブラ。傾いた夕陽が彼女の顔を照らす。
エルマニアがとっさに盾を構えた。アルジェブラの様子が明らかに正気ではなかったからだ。わずかでも敵対する素振りを見せれば戦う。エルマニアの中で優先順位は決まっており、たとえ相手がアルジェブラであっても容赦しない。
「大丈夫ですエマ、私に任せてください」
「馬鹿を言うな、弓騎士殿の体から生えているのが何か知っているだろう。彼女はすでに堕ちた。魔女の術中にはまったのだ」
「まだアルジェブラさんは騎士のままですよ。ほら、見てください。彼女の呪痕はまだ死んでいません」
そう言うとメヴィは、無数の死体を飲み込んだ菌糸の海へ足を踏み入れた。新たなる獲物に感激した菌糸がメヴィに襲いかかり、少女の体から発せられる魔力によって腐り落ちた。それでも菌糸は襲うのをやめない。菌糸に思考能力はないからだ。どれだけ腐ろうとも、栄養を補給する源がある限り襲い続ける。そして栄養源となっているのは犠牲になったパラアンコ兵や一部の義勇兵、そして今もなお海の中心にいるアルジェブラ。
エルマニアがとっさに追いかけようとした。しかし多少の胞子であれば呪痕の力で抗えるものの、中庭を覆う規模の菌糸には対抗できない。せめていつでもメヴィを守れるように剣を構えながら中庭の縁で見守った。
「無茶をするのはフィリップ隊長だけで勘弁してくれ」
後ろから聞こえる相棒の泣き言を聞き流しつつ、メヴィは一歩、また一歩と慎重に進む。足を踏み出すたびに柔らかいナニカを踏み潰すような感触がした。続けてしゅわしゅわと腐る音と、嗅ぎ慣れた腐敗臭。
一度、足を止めてアルジェブラを見上げた。菌糸の山は積み上げられた死体と、その表面に生える菌糸によって形成されている。その頂上に君臨する弓騎士の姿はどこか儚げで美しい。メヴィは心の琴線が震えるのを感じた。メヴィが追い求めていた姿の一端が彼女だ。
正気を失ってなお国のために戦おうとする騎士。失った娘をもう一度守ろうとする女性。菌糸に侵され、内側から食われる恐怖はどれほどのものだったか。絶え間ない痛みと苦しみに耐え、意識を繋ぎ止めながら戦うのはどれほどの苦難だったか。
(どろどろです……一体、どれだけの人が飲み込まれたのか)
踏み外さないように気をつけながら登る。まるで重たい泥沼をかき分けるような感覚だ。メヴィは自らの体に無数の屍がしがみつく光景を幻視した。自らが奪った命、もしくは菌糸の海に飲まれた犠牲者たちの顔が見えた。
やがて手を伸ばせばアルジェブラに届くほどの距離まで近づいた。
「ナタリア……」
「もう、私はメヴィですよ。安静にしといてと言ったのに聞かないんだから……おおっと」
アルジェブラがメヴィを優しく抱きとめた。苦しそうな息遣いが耳元に聞こえ、菌糸のぶよぶよとした感触がメヴィの肌に伝わる。アルジェブラの体は冷たい。緩やかに死を迎えようとする者の体温である。
それでも抱きしめられたメヴィは久方ぶりに温もりを感じた。体温ではない。愛される、という温もり。人が誰しも願う心の安寧。
(ああ……なるほど)
以前、アルジェブラに言われた。私を親のように思ってくれていい、と。
とんでもない、とあのときは思った。メヴィにとって母とはただ一人だから。まだ『メヴィ』になる前、荒れ果てた家でただ一人、自分を守ってくれた大人。そして徐々に狂っていき、メヴィに対してとある命令を下すようになった人。
私にとって親とはお母様だけ。
ずっと、そう思っていた。しかし、命が尽きようとするアルジェブラに、メヴィは母の姿を重ねた。呪痕が今までにないほど急速に脈うち始める。少女の中で何かが弾けた。体が熱い。肩を超えた程度だった呪痕がじわじわと首もとに伸びていく。
――奉仕せよ。
聞き覚えのある声がした。幾度となく母に言われた言葉だ。言い聞かせるように何度も、何度も少女の頭に響く。思考が塗りつぶされ、母の言葉以外を考えられなくなっていく。奉仕せよ、奉仕せよ。少女の瞳がぐるんと濁った。弓騎士と同等、否、それ以上に狂気をはらんだ目をしていた。
「さあ教えてください。アルジェブラさん、あなたの願いは何ですか?」
メヴィは問うた。その濁った瞳とは対照的に、優しくて安心させるような声音をしている。
アルジェブラが一瞬だけ固まった後、ぽつりぽつりと呟き始めた。
「西方蛮族を、滅ぼしなさい……シャルマーンの脅威を遠ざけなさい……そして、そして……」
弓騎士を中心にして風が吹いた。準一級の呪痕が最後の力を振り絞り、アルジェブラに正気を取り戻させる。一種の生存本能。伝えねばならない。託さねばならない。弓騎士の顔に血の気が戻り、以前の力強い瞳でメヴィを見据えた。
アルジェブラの愛国心が、寄生される寸前の記憶を呼び覚ます。誰が第三王女をはめたのか。誰がパラアンコを陥れようとしているのか。諸悪の根源。祖国衰退の元凶。
「フィリップを殺し、パラアンコを救いなさい」
アルジェブラは口に出してしまった。それが少女にとってどれほどの強制力を持つかも知らず、ただ愛する祖国を救いたい一心で願った。そして、アルジェブラの願いを聞いた少女は――。
「ああ、よかった」
この日、初めて表情を明るくした。
「生きることを願ったらどうしようかと思っていましたが……流石はアルジェブラさん! 死に瀕してなお国を想う愛国心、私は感動しました!」
メヴィはずっと不安だったのだ。アルジェブラがこのまま衰弱していったとき、彼女は愛国心を忘れてしまうのではないか。かつて自らを見捨てた人たちと同じように、他者を想いやる心を失った人間になってしまうのではないか。
だが、アルジェブラは変わらなかった。自らの命よりもパラアンコの繁栄を願った。それが、メヴィは心から嬉しかった。
「お任せください! 隊長として、あなたの願いを叶えてみせましょう!」
満面の笑みでメヴィがうなずいた。そして再度、アルジェブラの体を優しく抱きしめると、呪痕に力を込めた。
腐敗の魔力がゆっくりとアルジェブラの体を覆っていく。全身を寄生された彼女にはもはや痛覚が残っておらず、自らの体が腐敗に侵されても悲鳴を上げない。願いを聞き遂げられた彼女は安らかな表情でメヴィを抱き返す。
アルジェブラの体が溶けていく。菌糸の海をまとめて腐敗の魔力が飲み込んでいく。アルジェブラの呪痕は魔導元素となって霧散し、すぐ近くにあるメヴィの呪痕に吸い込まれた。準一級騎士の魔力が少女の体に混ざる。ただの魔力ではない。常軌を逸した弓騎士の愛国心が込められた魔力。
やがてアルジェブラの体は完全に溶けた。中庭を埋め尽くすほどあった菌糸も綺麗に消え去り、中央にぽつんとメヴィだけが残る。
少女の呪痕は大きく成長していた。首元を超えて顎のあたりまで刻まれた呪痕。蔦のようなアザが少女の不気味さをより一層際立たせる。
弓騎士の呪痕を喰らったのだ。
「……メヴィ?」
エルマニアが恐る恐る呟いた。目の前で起きた光景が彼女には信じられなかった。魔導元素が見えない彼女でもわかる。相棒は壁を超えた。準一級を超えて一級魔術士へ。何かきっかけさえあれば魔女へと至る領域に足を踏み入れた。
直後、一発の魔導砲弾が中庭に撃ち込まれた。一連の光景を見たトルネラが指示を出したのだ。しかし魔導砲弾は中庭に落ちる前に空中で爆発した。メヴィが視線すら合わせずに腐敗の棘で撃ち落としたのである。
少女は静かに空を見上げている。アルジェブラが残した願いを刻み込めるように反芻している。その横顔はエルマニアが知るどの相棒の横顔よりも薄ら寒く、形容しがたい怪物が生まれたように見えた。
「エマ、みんなを呼んでください。やるべきことが見つかりました」
凛と鈴が鳴るような声でメヴィは言った。彼女は気づいているのだろうか。自らの声が恐ろしいほど冷酷であることに。そして相棒が珍しく震えていることに。
「まずは西方蛮族を滅ぼします」
メヴィがにこりと微笑む。後ろから夕焼けに照らされ、逆光となって少女に影を落とし、その暗がりの中で呪痕がじんわりと光を帯びた。溶け残った死体からしゅわしゅわと煙がのぼっている。様々な悪臭が混じって中庭はひどい空気だ。生きている者はメヴィとエルマニアだけ。
果実はとっくに転がり始めていた。学院でピッチに襲われた、あの日から。もはや誰にも止められない。弓騎士の業、栄光玉砕の業、もしくは腐敗を宿した少女の業が絡まり合い、巨大な渦となって周囲を飲み込む。願いと欲望は紙一重。強すぎる感情から生まれる炎は、どちらか一方を燃やし尽くすまで消えないだろう。




