広がる混乱
少女は見た目以上に長い人生を送っている。十代の半ばまで生き、寒い冬空の下で死に、魔力の高い領主の娘の体を借りて生まれ、また十代の半ばまで生きた。同年代よりも長く、そして、少しばかり、特殊な人生を。ならば相応の精神年齢になったかというと、否。まともな環境で育っていないがゆえ、その精神もまた歪んだまま止まっていた。
少女には常識がある。死は悲しいことだ。無意味に人を傷つけてはいけない。
少女には善性がある。親しい人が不幸にあえば悲しい。道端で困っている人がいれば助けたい。
だが時に、それらの人間性を上回るほどの欲求が生まれることがある。頭の中では良くないことだと理解していても、少女の中で優先順位が切り替わってしまう。特に『メヴィ』として生を得て以降は余計に顕著だ。右腕に刻まれた呪痕が少女のストッパーを外してしまうのだ。
ゆえに少女は薄々気付いているのかもしれない。アルジェブラがもはや手遅れであると。しかし、同時に期待をしているのかもしれない。アルジェブラの愛国心。その賞賛すべき献身を。
◯
メヴィは息を切らしながら走った。まだ弓騎士の騒動は伝わっていないらしく、周囲の兵士たちは気の抜けた様子でメヴィを見送っている。
「魔法薬の、調合瓶は、ありますか?」
「調合瓶? 流石に戦場じゃ売ってないよ」
彼女が訪れたのは商人の天幕だ。魔法薬の材料や器具が見つかれば調合しようと考えた。しかし調合済みの魔法薬ならまだしも、材料や器具を前哨基地で売ろうとする商人はおらず、メヴィの努力は空振りとなった。
そうしているうちに曇り空が晴れ、眩しいほどの夕陽が拠点を赤く染めた。
メヴィは知っている。お母様が宙に浮かんでいるのを見つけたのも、こんな夕陽が眩しい日だった。ゆえに急がねばならない。話せなくなってからでは遅いのだ。
「だ――早く――弓――」
拠点がにわかに騒がしくなり始めた。慌ただしい足音と兵士の怒声が聞こえてくる。まるで奇襲をかけられたみたいな雰囲気だ。急いで義勇兵の天幕に戻ると、エルマニアが鎧を着て待っていた。
「何の騒ぎですか?」
「私にもわからん。だが兵士たちは『西方蛮族の奇襲だ』とか『ヴィクトル総指揮が討たれた』とか、しまいには『弓騎士が裏切った』とか言っている。まともな連携が取れていないのだろう」
剣の柄に片手を置くエルマニア。彼女もまた、この肌が粟立つような空気を知っていた。何かが起きたのだ。とても恐ろしい、何かが。嫌な予感ほどよく当たる。ゆえにエルマニアは警戒を強めた。
他の隊員たちもすでに集まっていた。流石はメヴィ小隊。非常事態でも彼らの動きは早い。メヴィが命令を下さずとも自分たちの判断で天幕に集まった。隊員の中には頭の上にナヲを乗せたポルナードや、怪我から復帰したばかりのオリバーの姿もある。
メヴィは目を細めながら軍の指揮所がある方向を見つめていた。まるで状況を見定めんとするかのように。彼女は空気中の魔導元素を通じて、広場から発せられる覇気が弓騎士のものだと感じ取った。さらに、西方の森から近づく魔女の覇気も。
「エマ、準備をしてください」
「戦いになるか?」
「ええ、なります。敵が西方蛮族とは、限りませんが」
エルマニアは不思議そうな表情を浮かべた。だがメヴィのただならぬ様子を見て静かに頷いた。魔導の心得がない彼女はまだ事態を把握できていない。だがメヴィが言うならば間違いないのだろう。
「何名か、門の方へ向かってください。残りは私と広場へ向かいます」
メヴィたちは混乱の中心に向かった。周囲は逃げようとする商人と戦いに向かう兵士が入り乱れている。状況を把握していない兵士が城壁に登って大砲の準備を始め、西方蛮族の奇襲だと信じ切った騎士が怒りに燃えながら剣を抜き、寝ぼけた魔術士が前後逆にローブを着たまま慌てて走っていった。ときおり、遠くから爆音が聞こえる。誰かが戦っているのだろう。
「ひどい有り様だ。嫌な予感がするぞ」
「……そうですねえ」
ようやく広場の入り口に到着した。そこで部隊の義勇兵たちは言葉を失う。大量の菌糸が壁や柱を覆い、今もなお胞子を噴き出しながら外に広がっていたからだ。菌糸の海にはまだ息のある兵士も何名か倒れているが、もはや手遅れなのは明白だった。
「みんなは中庭の周囲を固めてください。広場には私とエマで入ります。私たちが出るまで誰も中に入れないでください」
部隊を残して中に入るメヴィとエルマニア。いたるところから生える菌糸は学院での光景を思い出させるようだった。
「これは……菌糸の魔女が現れたのか……?」
異常な光景にエルマニアが冷や汗を流す一方、隣を歩くメヴィは終始無言である。恐ろしいほどに静か。彼女が歩くたびに足元から腐敗の力が漏れ、地面に蔓延る菌糸を触れたそばから腐らせた。
やがて視界が晴れた。崩壊した中庭。地面に広がる菌糸の海と、見覚えのある義勇兵の死体。そして中央で塔のように盛り上がる菌糸の山と、その頂上で咲く弓騎士の姿。
全身を菌糸に寄生されたアルジェブラが天を見上げていた。その表情は能面のように虚ろだったが、メヴィが中庭に足を踏み入れると、アルジェブラは柔らかな微笑みをメヴィに向けた。
◯
パラアンコ軍の上級将兵が使用する部屋に女が座っている。まるで部屋の主人かのようにソファで物思いに耽る彼女だが、扉の向こう側に気配を感じて意識を現実に戻した。やがて扉が開き、上級将校の軍服を着た男が入ってくる。彼はヴィクトル総指揮の副官だ。
「お帰りなさい。一応、報告を聞こうかしら。内容は予想できるけど」
「弓騎士アルジェブラの暴走が始まりました。各部隊が対処にあたっていますが、菌糸人形とは比較にならないほど強大なため歯が立ちません」
「まあ当然でしょう。菌糸の魔女が丹精に育てた魔術の芽、易々と破壊できるはずがないわ。あの小娘どもは?」
「広場に向かったようです。どうしますか?」
ソファに座る女、トルネラはしばし黙って考えた。彼女の目的はアルジェブラの監視とメヴィの排除だ。前者がついに暴走したのならば、うまく利用してメヴィを亡き者にしたい。
トルネラが考えている間、副官の男は虚ろな目でぼんやりと立っていた。協会の影であり、フィリップの右腕である女・トルネラ。いくつもの顔をもつ彼女だが、最も得意とするのは洗脳である。戦場では一度も使ったことがないが、彼女の本分である『裏』の仕事では洗脳魔術によって数々の任務をこなした。その腕前は上級騎士である副官すら懐柔させてしまうほど。
「ひとまず監視を続けなさい。おそらく接触するでしょうから手を出さないで。小娘がどう動くか予想できないけど、厄介者同士で潰し合うなら手間が省けるわ。万が一、弓騎士が鎮静化するようなら二人まとめて魔導砲弾で吹き飛ばしなさい」
「広場の外にいる部隊はどうしますか?」
「もちろん全て排除するのよ。どうせ小娘がいなければ脅威じゃないわ」
トントン、と机を叩く。
「なんとしてでも小娘を殺せ。あの悍ましい化け物を、二度とフィリップ様の視界に入れさせないで」
暗躍する影が一人。彼女は敬愛する主人のために命令を下す。
◯
戦場の西側。カーリヤ族の指令基地に到着したピッチは急いで兄のもとへ向かった。彼女に気づいたカーリヤ族の戦士たちが道を譲る。何人かは敬意を込めて戦士の敬礼をするが、大半は怯えたような目でピッチを見た。魔女という存在はたとえ王の妹であっても恐ろしいのだ。
「兄様、入るよ」
返事を待たずに幕を上げると、ロネはちょうど愛剣の手入れをしている最中だった。彼の家系、つまりドロシー王家に代々伝わる宝剣だ。ロネは王でありながらも一級騎士の実力を有し、剣一本で数多の戦場を生き抜いてきた。血筋ではなく実力で王となったのだ。
「遅いな。エレノアはどうなった?」
「色々と想定外があったけど、彼女はシャルマーンに向かったよ。もう私たちの土地で大雨は降らない」
ロネは愛剣の手入れをやめない。真剣な眼差しを剣身に向けている。
「ならば憂いはなくなった。今度こそ、パラアンコにすべての戦力を集中できる」
「兄様も戦場に出るの?」
「場合によっては。だが俺が出なければならない状況とは、よほど負け越しているときだ。そうならないようにお前には期待をしている」
ようやくロネの顔が上がる。交差する兄妹の視線。かたや合理的で氷のように冷たく、かたや熱に浮かされたように熱い。
「ふふん、任せてよ。兄様のためならどんな敵も殺してみせるから!」
ピッチは自信ありげに笑った。彼女にとって兄の役に立つことだけが存在意義。どれほど無茶な命令であろうともロネのためならば喜んで受け入れる。ロネは唯一の家族だから。
「それと良い報告があるよ。ついに弓騎士の種が芽吹いたみたい。今ごろパラアンコ軍の基地は大混乱だと思う」
彼女は自らの魔術がようやく成功したのを感じた。当初の予定では開戦してすぐにアルジェブラを暴走させ、パラアンコ軍を内側から崩壊させる予定だったのだが、随分と時間がかかってしまった。よもや弓騎士がこれほど耐えるとは。憎き敵であるが、その精神力には感心せざるをえない。
「ならば我々も動こうか。長きにわたる戦いを今度こそ終わらせるぞ」
ロネが立ち上がる。彼の瞳には決意の炎が燃えていた。
「お前は別行動だ。弓騎士の後処理と、あの厄介な義勇兵どもを片付けろ。敵本軍への攻撃は俺が指揮を取る」
「了解! 成功したら褒めてね?」
「成功するのが当たり前だ。貴様は魔女だろう」
「つれないなあ兄様は。まあいいや、すぐに準備をするよ。混乱が落ち着く前に攻め込みたいからね」
そう言ってピッチは天幕を出た。冷たい夜風が彼女の頬を撫でる。
「痛っ……エレノアめ、容赦ないんだから……」
足を進めるたびに折られた肋骨から激痛が走った。本来であれば今すぐにでも治療が必要だ。しかし彼女は報告を優先した。兄を失望させたくなかったのだ。
ゆえに、天幕の中で兄と話していたとき、ピッチはまるで無傷で帰ったかのように振る舞った。
「ピ、ピッチ様! このような場所に一体どうして……?」
「治療薬をちょうだい。できる限り即効性の高いやつね」
「わ、わかりました!」
祈祷士に薬を手配してから空き箱に腰掛ける。緊張が解けてより一層、胸や脇腹が痛んだ。
「頑張れ私。魔女がこの程度の痛みに屈したら駄目なんだから……」
ぎゅっと拳を握りしめるピッチ。脂汗が頬を伝う。
やがて祈祷士が慌てた様子で薬を持ってきた。一目で高級品だとわかる代物だ。彼女は礼を言って下がらせると、薬を勢いよく飲み干した。すぐに体の内側が発熱して痛みが引いていく。
「……ふう。ちょっとはマシになったかな。薬に頼るなんて何年ぶりだろう……エレノアめ、いつかお返しをしてやるんだから」
ゆっくりと立ち上がる。まだ全快には程遠い。鉛のように体が重く、ガンガンと定期的な頭痛が走り、折れた肋骨が未だに鈍い痛みを残す。だが動くことはできる。動けるならば戦える。つまり兄の役に立つことができる。
「よし、いこっか。収穫の時間だ」
大事に植えて育てた芽を摘むときがきた。ピッチが片手を夜空に上げると、真っ白な菌糸が大量に生え、早送りのような勢いで天に伸びた。溢れ出した胞子が月光を浴びて輝き、ピッチとその周囲を真っ白に染めていく。白銀の世界でただ一つ、魔女の呪痕だけが怪しげに光った。
菌糸に寄生された馬がトコトコと歩いてくる。痛みを堪えながら馬の背中に乗ると、魔女は勢いよく要塞を飛び出した。




