発芽
砦の上部に夕陽が差し込み、断続的な柱の影が廊下に落ちた。衣擦れの音すら響くほどの静寂に包まれる。
アルジェブラは抱きしめた格好のまま固まっていた。今しがた、腕のなかになった幸せのかたちを反芻する。最愛の娘を失ってから何年も忘れていた感情。たとえ鎧を着ていようとも感じられる人の温もり。それらを久方ぶりに感じた彼女は再度、涙を流した。
「待ってナタリア。今度こそ私が守るから……」
ざわざわ、と何かがアルジェブラの体から生えた。菌糸だ。様々な形をした茸のような塊が鎧の隙間から伸び、アルジェブラを中心にして地面に白い菌糸を伸ばしていく。
彼女は亡霊のようにふらつきながら辺りを見渡した。シュー、シュー、と蛇のような息遣いが盛れる。抑えが効かなくなった感情が魔導元素となってあふれ出し、それらを吸収することで菌糸が急速に成長したのだ。潤しき肌から、準一級騎士の呪痕から、もしくは濁った瞳から無数の菌糸が伸びた。
「アルジェブラ! 貴様は誰と話していた……なんだ、その姿は?」
ヴィクトルが異変に気付いた。彼は腐ってもアルジェブラと同じ準一級騎士。この状況が明らかに危険であると理解する。しかし、危険だからといって放置はできない。ヴィクトルは総指揮官の責任を果たすためにアルジェブラへ近寄った。
「あなたは誰かしら……まさか、またナタリアを狙いに来た西方蛮族?」
アルジェブラは限界だったのだ。ずっと前から菌糸による侵食を受け、すでに思考能力がほとんど欠如した状態で彼女は戦っていた。メヴィによる魔法薬と、彼女自身の愛国心によってなんとか耐えていた状態だったが、それも先ほど娘の姿を幻視したことによって崩壊した。ゆえにアルジェブラは目の前の男が上官であると理解できない。
ピッチの植えた種がついに発芽する。微かに残っていた理性を全て奪い去って――。
「……錯乱したか、弓騎士」
ただならぬ気配を感じ、ヴィクトルは剣を抜いた。準一級騎士としての直感が彼に剣を抜かせた。だがそれは悪手だ。アルジェブラに理性が残っていない今、もしも刃を向けられれば彼女は本能的に敵対するだろう。
「やはり、あなたも敵なのね。また、私からナタリアを奪うのね……!」
アルジェブラが矢筒から矢を引き抜いた。弓騎士の所以たる、槍のように大きな鏃の矢だ。一撃で戦場の地形をも変え得る破壊兵器。彼女はそれを弓につがえるのではなく、右手で握りしめた。ヴィクトルが冷や汗を流しながら後ずさる。弓騎士の放つそれは、間違いなく味方に向ける覇気ではなかった。
「なんのつもりだアルジェブラ! 貴様、我々を裏切るつもりか――」
アルジェブラが床を蹴った。呪痕から生み出される驚異的な脚力が一瞬にして両者の距離をゼロにする。間近で交差する視線。指揮官は見た。ヘルムの隙間から覗かせる顔、それは戦場で幾度も見たことのある、手遅れになってしまった狂人の顔である。
「二度と奪わせないわ! 小さな命を、我らが祖国を、貴様ら蛮族に奪われてなるものかァ!」
鬼気迫る勢いでアルジェブラは矢を突き出し、ヴィクトルの胸を貫いた。拳ほどもあろう鏃が指揮官の背中から生える。カタン、と剣が落ちた。ヴィクトルの口から大量の血が吐き出され、アルジェブラの鎧を赤く染め上げる。
「狂人、め……パラアンコに……栄光あれ――」
アルジェブラが矢を引き抜くと、ヴィクトルは苦悶の表情を浮かべながら倒れた。新しい養分を喜ぶように地面の菌糸がヴィクトルの体を飲み込んでいく。白い世界の中心でアルジェブラは両手を広げた。
「ふ……ふふ……アッハッハ!」
返り血に染まったアルジェブラ。狂ったような笑い声が砦の内部に反響する。
彼女の呪痕がどくん、どくん、と大きく脈打ち、そのたびに胞子が撒き散らされた。
「まずは一人……次はどこかしら……?」
獲物を探すようにふらふらと歩き始める。点々と血の跡を残しながら廊下を歩く、その姿はまさに幽鬼。
「おお、弓騎士殿。調子はいかが……」
「その姿はどうされたのですか! 今すぐ手当てを……」
「弓騎士様!? どうして……」
アルジェブラは目についたパラアンコ兵を次々と斬った。若き芽を摘むように、軽々しく命を刈り取った。砦の中はあっという間に大混乱となった。総指揮官のヴィクトルが真っ先に殺されたことで情報の伝達がうまく回らず、状況がわからぬまま駆り出された兵士たちがアルジェブラと鉢合わせし、摘まれていく。
「うじゃうじゃと、蛮族どもが……!」
アルジェブラの目にはパラアンコ兵が西方蛮族に見えている。そう錯覚するようにピッチが種を植えたから。
アルジェブラは軍部の管轄地区を抜けて義勇兵や商人が利用する区画に着いた。幸か不幸か入れ替わりのタイミングだったため、ほとんどの人が出払っている。血まみれのアルジェブラが現れても騒ぎは起きない。だが全くの無人というわけではなく。広場に残った、哀れな義勇兵の一人がアルジェブラの姿に気づいた。
「お、おいどうしたアルジェブラ! まさか敵にやられたのか!?」
彼は門兵ザック。普段は義勇兵の寮門を守っている彼だが、今回はパシフィック小隊の一員として戦争に参加していた。普段からメヴィと交流のある彼は自然とアルジェブラとも顔見知りになり、彼女がメヴィを尋ねに寮へ来たときは軽く挨拶を交わす程度の仲になっていた。
ゆえにザックは知人であるアルジェブラの姿を見て驚愕し、まさか怪我を負ったのかと心配したのだ。
「ああ、いや、これは返り血か……? まったく驚かせないでくれよ。戦場帰りならそう言ってくれ」
ザックはまだ気づいていない。アルジェブラの強さを知っているがゆえに、彼女が正気を失ったなどと夢にも思わないのだ。此度の戦場でアルジェブラは幾度となく窮地を救った。負けるはずだった戦いを弓一本で覆した。そうして積み重なった信頼がザックを油断させる。
「また敵か……」
ぼそり、と呟くアルジェブラ。彼女は矢を掴んだまま駆け出した。
「お、おいアルジェブラ、いったいどうした――」
弓騎士の矢が容赦なくザックの腹部を貫いた。戦友の血によって、アルジェブラの鎧がさらに赤く染まる。
ザックは何が起きたのか理解できずに自分の腹を見下ろした。そして自らが治療薬でも助からない傷を負ったのだと知り、恐怖と絶望に染まった顔でアルジェブラを見た。
「な、なんで……」
アルジェブラは答えない。狂える弓騎士には仲間の声が届かない。勢いよく矢を引き抜いた。倒れるザックに目もくれず、弓騎士は次なる敵を探した。
「ここだ! 総員構え!」
「弓騎士は錯乱した! 躊躇するなよ!」
ようやく異変に気づいた兵士たちが続々と集まってきた。彼らは血まみれのアルジェブラと地面に倒れるザックを見て憤慨する。英雄の乱心か、それとも義勇兵の裏切りか。兵士たちは説明を求めて「弓騎士殿、何があったのですか!」と叫んだ。
「娘を奪ったのはあなたたちかしら。ならば殺さないといけないわね。ナタリアの敵は、全て私が射ってあげないと」
ぶわり、と空気が揺れた。ついに抑えきれなくなった菌糸が鎧の下からあふれ出したのだ。瞬く間に広がった菌糸が周囲の兵士を襲う。その速度は凄まじく、並みの兵士では逃げられない。悲鳴を上げながら飲み込まれていくかつての同胞たちを、アルジェブラは菌糸の山から上半身だけを出して見下ろした。
「さあ往きましょう。愛しき娘を、尊き祖国を守るために!」
広場を埋める菌糸の海。今もなお、飲み込まれた兵士を糧にして広がり続けている。アルジェブラは死人のような青い顔で空を見上げた。ジメジメとした空気が菌糸に飲まれた彼女には心地良い。
弓騎士、発芽。ピッチの植えた魔術がついに発動する。




