パラアンコ平定のために
辺境貴族の一人であるローゼンベルク卿は、お気に入りのソファに身を預けながら、もうすぐ到着する客人にどう対応しようかと悩んでいた。またもやあの男、フィリップが交渉をしにやって来るのだ。懲りない男だ、とローゼンベルク卿は思う。要件はローゼンベルク卿の私兵団を貸し出せという旨だろう。前回の交渉できちんと断ったはずなのだが、未だフィリップは諦めていない。
「私はパラアンコのいざこざになど興味がないのだがね。まったく、彼はどうあっても私を巻き込みたいらしい。年長者をもっと敬うべきだと思うのだが……」
パラアンコを取り巻く昨今の情勢は非常に不安定だ。シャルマーンとの戦争はいまだ集結しておらず、今も多数の兵士が北方の戦場に駆り出されている。カーリヤ族との併合は達成したが、取って代わるようにサルファの祝福教会がアイゼンを中心にして支配地域を広げている。さらに西の帝国を始めとした周辺諸国が野盗に扮して国境を越えており、各辺境貴族がそれらの対応を迫られた。
パラアンコは、いわば沈みかけの泥船だ。穴だらけの船底から水が染み込み、今にも乗員ごと沈みそうな運命が見える。ローゼンベルク卿はそのような船に乗るつもりはない。だがあの男が簡単に引き下がるとも思えない。
どうしたものかと考えていると、使用人が入ってきてフィリップが到着したことを報告した。
ついに来たか。ローゼンベルク卿は重い腰を上げて出迎えた。
「やあローゼンベルク卿。調子はどうかね?」
「ちょうど先ほどから頭痛がひどくなったよ」
ガハハと笑いながらフィリップが入室した。彼は勝手知ったる様子で客人用のソファに座った。
今回は一人ではないらしく、数名の審問官を連れており、彼らは一抱えほどの大きな袋を持っていた。染みと汚れが目立つ、いささか汚い麻袋だ。潔癖症であるローゼンベルク卿は、見るからに汚れと臭いが染みついた麻袋が屋敷に持ち込まれたことに不快感を覚えた。
「それで今回はどんな用事だい。よもや義勇兵長ともあろう方が茶を飲むだけに来たのではないだろう?」
「えらく性急だな。ぜひ互いの近況を報告しながら親交を深めようではないか」
「我々はそれほど微笑ましい仲ではない。要件を話したまえ」
フィリップは残念そうに肩をすくめた。すぐに彼は真剣な表情で本題に入る。
「君の私兵団を借りたい、という話を覚えているかね」
「その話なら断ったはずだよ。私はサルファの祝福教会に、というよりも、西方地域に手を出すつもりはない」
「本当にいいのかね。相応の謝礼は用意するし、君の私兵団が制圧した地域は君の領地として認めるつもりだが」
「ハッハッハ、私はそれほど権威拡大に欲がないのだよ。貴族社会で生き残るコツは慎ましさを忘れないことだ」
なにが領地として認める、だ。西方地域を領地にしたところでろくな資源は残っていないし、数年後には貴様の支配下になるだけだろう――。
ローゼンベルク卿は内心で毒づいた。フィリップの提案は全く魅力的に思えないのだ。
「ふむ、困ったものだ。我々は近々、シャルマーンに大規模な攻勢を仕掛けるつもりなのだが、それまでに不安の種を摘んでおきたい。君が私兵団を率いて審問官を指揮してくれれば、私は何の心配もなく北方の戦地へ赴ける」
「私とて国に貢献したい気持ちはあるのだ。だが理想だけで領民は養えない。しかし、君がそれほど頭を悩ませるとは珍しいものだな」
「パラアンコ軍には勇敢な戦士こそあれど、優秀な士官は少ない。君が軍属であればとどれほど思ったか」
本当に珍しい。ローゼンベルク卿は目を丸くした。あのフィリップがこうも弱った姿を見せるとは。
悪くない気分であった。今や時の人であるフィリップが自分を頼っている。かつて魔導研究所の責任者だった頃を思い出した。あのときも多くの優秀な魔術士から尊敬の眼差しを向けられたものだ。
「前にも言ったとおり、奴隷解放運動が活動範囲を広げている今は、私も表立って動きづらい。彼らを支持する貴族はフィリップ殿が想像する以上に多いのだ」
前哨都市カタビランカを中心にして始まった奴隷解放運動は、今や貴族社会にも影響を及ぼすほど勢力を強めている。その裏にはカーリヤ族の滅亡により、降って湧いた西方奴隷たちの支持を得たいという貴族の思惑があるのだが、解放運動が抑止力となって誰も西方地域に手を出せないでいる。結果として元々西方地域を拠点にしていたサルファの祝福教会が力を強めることになった。
「我々は国を同じくするというのに、難しいものだな」
「奴隷解放運動さえ収まれば、私も考えを改めるのだがね」
奴隷解放運動さえ収まれば。
その言葉を口にした瞬間、ローゼンベルク卿はしまったと思った。フィリップの口角が悪魔のごとく上がっていたからだ。貴族としてあるまじき失態。よもや、相手の口車に乗せられてつけ上がるとは。
フィリップは勢いよく立ち上がった。まるで、その言葉を待っていたと言わんばかりに。
直後、栄光玉砕の覇気ともいうべき、彼のオーラが爆発した。
「ガハハ、そうだ、よくぞ言った! 奴隷解放運動さえ鎮圧すれば万事解決する!」
「フィ、フィリップ殿? いったいどうしたのかね?」
「ローゼンベルク卿の後押しをするために、私が邪魔者を黙らせてやろうと言っているのだ。貴殿も周囲の声を気を配るのは辟易するだろう」
「黙らせるとは言っても、解放運動の主導者……パシフィックと言ったか、奴はそう簡単に捕まらんぞ」
「パシフィック? ああ……これのことかね」
フィリップは背後の審問官に合図を出した。彼らは抱えていた袋を机の上に置き、中身を取り出した。
ローゼンベルク卿は背筋が凍え上がった。取り出されたのは首だ。時間が経って赤黒く変色した肌。虚ろな瞳。そして腐敗しながらも生前の面影が残る顔。かつてメヴィと共に義勇兵として活動した男、パシフィックである。
「ま、まさか……奴隷解放運動の主導者かい!?」
「解放運動が邪魔だと言うならば潰してしまえばよい。ガハハ、わかりやすいだろう?」
ローゼンベルク卿は自らの甘さを悔やんだ。この男はとっくに動き始めていたのだ。あの日、ローゼンベルク卿の屋敷に訪れたときから。
首だけになった哀れな主導者がローゼンベルク卿を見つめる。まるで次はお前の番だと言っているかのように。
「さあローゼンベルク卿。ともに国起こしといこう。今度こそ西方地域を我らが手に取り戻すのだ」
「フィリップ殿……君はいったい、何てことを……」
「正義を貫くのは結構。領地を、領民を思うのも結構。だがローゼンベルク卿よ。敵を作ることを恐れては何も成せぬ」
栄光玉砕の輝きがローゼンベルク卿の瞳を焼かんとする。なんと力強く、冷酷で恐ろしき光か。
ローゼンベルク卿は手を振るわせる。もはや自分に選択肢は残されていない。彼が主導者の首を持って屋敷に現れた時点で、ローゼンベルク卿がどう弁明をしようと、他の貴族たちは彼をフィリップ陣営だとみなすだろう。その程度の根回しは、とっくにフィリップが済ませているはずだ。
「我らがパラアンコから邪教徒を駆逐しようじゃないか」
ローゼンベルク卿は手を取り合うしかなかった。それしか彼が生き残る方法はなかった。
「わかった……ローゼンベルク家は、貴殿に力を貸すと約束する」
苦渋の決断である。今までうまく立ち回って築き上げた、貴族社会での立場が崩れ去っていく。
「懸命な判断に感謝する」
フィリップは快活に笑った。初めから断られるとは思っていない。理想のためならば、彼は手段を選ばない。
審問官と元魔導研究所の私兵団が手を組んだ。彼らは巨大な炎の渦となってサルファの祝福教会を焼き尽くそうとするだろう。焦土となった先に何が残るか、誰にもわからない。主導者たるフィリップが未来を望んでいないからだ。新たなる戦火が西方地域に、そしてアイゼンに広がる。パラアンコ平定という大義名分を掲げて。




