魔女の余生
パラアンコの極東。人が立ち入ることを禁じられた森の奥に、小さな街がある。かつて魔導研究所が存在し、多くの魔術士が最新技術を学ぼうと集まった地だ。今や人の姿はなく、代わりに人の姿を借りた精霊たちが住んでいる。
そんな街の高台に建てられた領主の館で、バルコニーの椅子に座り、ぼんやりと街を眺める老婆がいる。彼女は片手を机の上に手を伸ばし、用意していた茶菓子が無くなっていることに気づいた。長くこうして眺めていたようだ。
「セルマ、菓子がきれたぞ」
「それ以上は体に障りますよ。いい歳なんですから」
「誰が歳じゃ」
一言余計な人形に腹を立てつつも、確かにこのあたりで食べるのはやめとこうとルーミラは思った。健康などまったく気にしていないが、メヴィの行く末を見送るまで倒れるつもりはない。
「あやつは何をしておる?」
「シャルマーンに入国したようです。かの国と協力して新生パラアンコ軍と戦うのだとか。もしも星詠みの魔女と手を組めば、世の情勢は相当混乱することになりますよ」
「あの厄介者が簡単に協力するとは思えんがな。どうせまた誇張した記事を書くだけじゃ」
「話題に事欠かない子ですね」
「ふん。恩知らずな弟子じゃよ。未だに一度も里帰りをしとらん」
「寂しがらないでくださいお婆ちゃん」
「誰がお婆ちゃんじゃ」
セルマは首を傾げた。誰がどう見たって老婆である。
もっとも、セルマは見た目だけを言ったのではない。ルーミラは魔術士として、もしくは魔女として、随分と老いた。一種の仮死状態である彼女と比較するのは酷かもしれないが、同年代であるメルメリィが魔術学院で教鞭をとる一方、ルーミラは屋敷に引きこもって枯れ草のごとく日々を過ごしている。
「何か言いたげな表情じゃな」
「……いえ。穏やかな日だと思っただけです」
セルマは心のどこかで待っていた。もしも一言、ルーミラが命じてくれれば、セルマは人形の大軍を率いて戦場へ赴くというのに。たとえシャルマーンの赤軍であろうと、多数の魔術士を抱える帝国軍であろうと、打ち負かす自信があった。望んでさえくれれば、輪廻の魔女を再び、輝かしい表舞台に連れ出すつもりだ。
されど、セルマの望む命令は下されない。わかっているからこそ――。
「すまんなセルマ。わしは一線を退いた身じゃ。魔導研究所を潰し、旧シャトルワース領を制圧した瞬間、わしは魔女としての役目を終えたんじゃよ」
「今の生活は余生のようなものですか」
「そうじゃ。魔女の余生。穏やかなものじゃろう」
他の魔女と違い、ルーミラは明確な目的……つまるところ、パラアンコへの復讐を願って魔女となった。そしてパラアンコが衰退した今、魔女としての願いはすでに果たされている。わずかに復興の兆しも見えたが、それもじきに消えるだろう。栄光を望まんとする怪物か、もしくはルーミラが生み出した化け物が、パラアンコという国を引っ掻きまわすから。
そう、目的は果たされた。もはやメヴィの成長を見守ることぐらいしか生きがいがない。
強い風が吹いている。澄みわたる空の下、旧シャトルワースの街には多くの精霊で賑わっている。彼らを脅やかすものはない。精霊たちの楽園。ルーミラが生み出した、魔女としての集大成――。
「こんなところで眠ったら風邪をひきますよ」
「なんじゃ、心地良い気分じゃったのに……」
「起こさなくてもどうせ怒るじゃないですか」
ルーミラはゆっくりと起き上がった。すぐにセルマが体を支える。
「セルマ」
「何ですか?」
「おぬしはそろそろ、街を離れるといい。普段のお使いじゃなく、旅立つんじゃ」
セルマの体が固まった。ついにボケたか、と言いたげな表情で主人を見る。
「それは命令ですか?」
「いいや、隣人として、友人としての願いじゃよ。わしとて老いた姿など見せたくないわい」
セルマは悟った。否、急速に衰弱する主人の姿を見て、以前から察していた。万物には終わりがある。輪廻の魔女もまた、還る時が近いのだと。セルマの手に力が込もる。いつまでも楽園には居られない。
「おすすめの場所は、ありますか?」
「南西の港はいいぞ。飯が美味いし、海の精霊が夜道を導いてくれる。シャルマーンを超えた北にある雪原も美しい場所じゃ。運が良ければ雪巫女とその一族が歓迎してくれるじゃろう。原初の森を越えるのは、おすすめせん。ヒスロンの沼地はひどい匂いじゃし、油断すると大蛙が顔に目掛けて飛んでくる」
「ヒスロンの沼地といえば、蛙漁が盛んだと聞きましたよ」
「あんなもんは行き場のない労働者がたどり着く最後の場所じゃ。行くのは勝手じゃが、以降数日は悪臭に苦しむとだけ言っておこう」
研究員になる前、各地を歩いたときの思い出を懐かしそうに語った。多くの精霊と出会い、旅を共にした。旧シャトルワースには、そんな旅路でルーミラを気に入り、移住した精霊も多い。
「楽しそうですね。興味が湧きました」
「行くときはメヴィを連れて行ってやれ。あやつは放っておくと戦場にばかり足を運ぶ」
「義勇兵を勧めたのはルーミラ様ですよ」
「ふん。まさかこんなにも帰らんとは思わなんだ。そうだ、あやつに会って里帰りするように伝えるんじゃ。セルマからの頼みならばすぐに帰るじゃろう」
ルーミラがからからと笑った。メヴィが屋敷に帰るのを想像し、楽しみにしているのだろう。魔女と呼ぶにはあまりにも、ありふれた願い。
「……老いましたね」
「やかましいわ」
主人を支えながら、屋敷の中へ戻る従者の後ろ姿は、普段よりも寂しげだった。




