悪道
トルネラの判断は早かった。すぐさま魔力糸によって周囲の岩を集め、人間の頭ほどの大きさにして発射した。当たれば御の字。避けられても、その隙に針を打ち込めば洗脳をかけられるだろう、という狙い。
「出会い頭にひどいです」
メヴィに触れる直前、岩はまるで風化した骨のようにぼろぼろと崩壊した。続け様に投擲した針もまた、メヴィに届く前に溶かされた。トルネラが常備している針は、耐魔導合金を上級魔導具士によって加工された特注品だ。わずかでも皮膚を傷つければ毒が回る暗器だが、魔女の前では触れることすら敵わない。
化け物め。
愚痴をこぼしつつも、トルネラは次の行動に移る。魔力糸に防がれるならば死角から狙うのみ。
彼女の本分は奇襲や搦手だ。木々が生い茂るこの森はトルネラにとって好都合。闇が深いほど彼女の影もより沈む。
魔導教会の影として数多の貴族や商人を手にかけたときのように、トルネラはスッと息を殺し、自らの気配を森と同化させた。熟練の影は姿すら見えない。周囲の茂みから動揺するような声が上がった。
(いかに魔女でも見えなければ対処できないでしょ……!)
トルネラは独特の足運びでメヴィの背後をとった。直接的な戦闘能力は低いものの、周囲の環境を利用した戦い方に関しては卓越した技術を有するトルネラ。幼い頃からパラアンコの裏側で生きてきた彼女の技術は、今や協会内部でも右に出る者がおらず、一度でも相手が見失えば見つからない自信があった。
だが、トルネラは肌がチリチリと焼けるような感覚がした。まだメヴィは振り向いていない。にも関わらず、長年培った影としての警鐘が激しく打ち鳴らされる。
(なに? 小娘はまだ気づいていないはず――)
いつの間にかメヴィの手に黒い弓が握られている。身の丈はあろう大弓だ。腐敗の毒素が集まって矢となり、大弓にゆっくりとつがえられた。
ぐるん、と魔女が振り向いた。
爛々と目が光っている。気配や魔力だけではなく、人の目には見えない何かを覗き込むような、不気味でおぞましい目だ。
トルネラは背中から襲い掛かろうとしていたが、強引に体を捻って地面に転がった。直後、かっさらうような矢がトルネラのすぐ横を掠めた。一瞬でも判断を迷えば助からなかっただろう。わずかに触れた髪の毛がしゅわしゅわと泡を立てた。
「あら、外しましたか。やっぱりアルジェブラさんの真似は難しいです」
困ったように眉を下げつつも、魔女の瞳はトルネラをぴったりと捉えている。次は外さない。そう宣言するかのような強い眼差し。
トルネラは理解した。心のどこかで「小娘なんかに遅れを取らない」と驕っていた。しかし、実力差を見せつけられれば嫌でもわかる。ずっと見下していた相手は、とっくに自分を追い抜かしていた。
(避けなければ――)
魔女が私を見ている。もう一度、死角に回らないと。
そう思っていながらも、トルネラはうまく体を動かせない。いや、メヴィの動きは目で追えているものの、自分の体が反応しないのだ。
「痛ッ……ァア!」
左足に猛烈な痛みを感じたトルネラは地面に倒れた。足首より先がない。骨ごと魔女の矢で溶かされている。
これは身体能力の差だ。純粋な魔術士であるトルネラに対し、メヴィは弓騎士の呪痕を食らい、その力を身に宿している。たとえ幼なくとも、たとえ到達したばかりでも、彼女は魔女なのだ。騎士にも劣らぬ身体能力を前に、トルネラでは勝ち目がない。
「この化け物が……! お前さえいなければ、フィリップ様の栄光はとっくに成就されていた!」
燃えるような眼差しで魔女を見上げる。本来ならば喋ることすらままならないほどの激痛であるはずだが、トルネラは執念と根性だけで体を動かした。
「破滅ありきの栄光じゃなければ私も構わなかったんですけどねえ。アルジェブラさんに国を託されましたので、フィリップ隊長は放っておけません」
フィリップの手腕はメヴィも認めている。方向性が違わなければ、栄光玉砕とメヴィが手を取り合うような未来もありえたかもしれない。そうなればシャルマーンどころか周辺諸国をも脅かす強国になり得た。
だが強者とは強大な呪痕を有する者。そして、自らの欲に忠実な者だけが強大な呪痕に成長する。つまり、我の強い者同士が手を取り合う未来など期待するほうが無茶な話なのだ。
「何が不満だって言うのよ……! 国が滅びたってあんたはのうのうと逃げられるでしょ! この世にいない人間の言葉なんか守って何になるのよ!」
「だからこそ、ですよ。誰もアルジェブラさんの願いを知らないからこそ、私が叶えるんです。それが仲間ってものじゃないですか」
「仲間? 笑わせるんじゃないわ。あんたみたいな化け物が仲間ごっこをするなんて――」
トルネラが最後まで言い切る前に、暗闇から大きな剣が飛んできた。エルマニアの剣だ。地面を這うトルネラの目と鼻の先に突き立った。
「トルネラはどうしてそこまでフィリップ隊長に尽くすんですか?」
「どうして? やはりあんたは化け物ね。そんなことを聞くなんて。女が男に尽くす理由なんて一つしかないじゃない」
トルネラが地面に爪を立てた。両手に力を込め、震えながら上半身を起こし、魔女の顔を睨みあげた。
「あんたにはわからないでしょ! 魔女の弟子なんて恵まれた環境で育って、調子良く義勇兵で成り上がったあんたには! 花街に蔓延る病気と戦う恐怖を! そんな地獄から救い上げてくれた、あの人の温かさを!」
トルネラの呪痕が燃えるように熱を帯びた。女狐、最後の力。
彼女は涙を流していた。トルネラは元来、頭の回転が早い。感情的に叫びつつも、心の中ではすべて理解している。
自分が助からないこと。森に逃げ込むと決めた時点でこの結末は避けられなかったこと。
かつてフィリップは言った。トルネラは魔女に敵わない。そのとおりだ。正面から挑んで勝てる見込みはない。
「恵まれた人間が私を見下すな!」
それでも、トルネラは囮になるしかなかった。フィリップが思い描く未来のためにも、審問官の本隊をここで失うことだけは避けたかった。ようやく議会を掌握して作り上げたフィリップの正規軍だ。もしも失えば国内のパワーバランスが崩壊し、辺境貴族が再び力を取り戻してしまう。それだけは避けねばならない。
トルネラは髪留めから最後の針を取り出し、上半身を持ち上げ、呪痕の力を乗せて魔女に投げた。流れるような一連の動作は鍛錬の賜物であり、上級騎士ですら至近距離で反応するのは難しいだろう。
刺され。どうか、触れるだけでも。トルネラの願いを一心に込められた針が魔女の額に吸い込まれる。
魔女の反応もまた早かった。見た目こそ十代の小娘だが、最前線で戦い続けた経験豊富な魔術士だ。危険を察知したとき、魔女の肉体は反射的に防御姿勢をとり、最も馴染みのある魔術が構築された。
腐敗の棘だ。一瞬にして生み出された魔術が、眼前にまで迫ったトルネラの針を飲み込み、同様の鋭い形状となって今度はトルネラにうち返された。狙いは胸元。人体の急所。
腐敗の棘は寸分違わずトルネラの心臓を貫いた。一人の人間が未来を絶たれるにはあまりにも一瞬の出来事だ。見た目ではそれほど大きくない穴だが、腐敗の力が込められた一撃は、確実にトルネラの命を刈りとる。
「反則よ……この技術のために、私がどれほど……」
大きく血が吐き出され、急速に力が失われていく。
トルネラは仰向けに倒れた。ぽっかりと大事なものを失ったような寒気に襲われ、喪失感と共に空を見上げた。はるか彼方に広がる空は、フィリップに連れられて花街から出た時の空と同じく、清々しいほど澄み渡っている。
ああ、随分と遠くまで来てしまった。あの人の隣に居られるだけでよかったのに。欲張りすぎた。追い求めすぎた。分不相応とわかりつつも、手を伸ばすのをやめられなかった。
「それだけの技術があれば、他にも道があったでしょうに」
「あんたには、わからないわ。わかる……はずがない」
一瞬、逃げ出した副官の顔がよぎる。傀儡のくせに、最後の最後で裏切った男。彼は生き延びられたのだろうか。今さら助かったところで、記憶をぐちゃぐちゃに改竄された彼がまともに暮らせるとは思わないけど。
副官に限らず、多くの人間を利用してきた。ありえたはずの未来を奪って、フィリップの隣を勝ち取った。
「私は、悪よ。悪だって恋をするの」
息も絶え絶えにトルネラは呟いた。
「幸せになりたかったのよ。しょうがないじゃない。愛した人まで、悪だったもの……」
そうだ、幸せになりたかったのだ。後悔はない。間違っていたとは言わせない。これが私の選択だ。どん底の花街から、よくぞ這い上がったじゃないか。ざまあみろ。私はやってやったぞ。だからフィリップ様、私をほめてください。今、おそばに行きますから。
トルネラは壮絶な苦痛を感じたはずだが、その最後は穏やかな表情だった。まるで今から愛しい人に会えるかのように。
魔女はかたわらに立って静かに見下ろしている。その姿があまりにも寂しそうだったため、彼女の仲間が気遣うように暗闇から歩み寄ってきた。
「あいつの言葉は気にするな。恵まれた人間なんていない。大抵の人間は当人にしかわからない苦労や悩みがあるし、それは比べるもんじゃない」
「そう、ですね。エマにも悩みはありますか?」
「ああ、たくさんある。本当にどうにかしてほしい悩みがな」
「……どうして私を見るんです?」
エマがぽんと大きな手を魔女の頭に乗せた。
立ち止まっている時間はない。審問官を逃した以上、早くこの場を離れてシャルマーンを目指さないといけない。しかし、今だけは少し、ゆっくりしよう。たくさん魔術を使ったから疲れてしまった。
トルネラの亡骸は腐敗の力によって急速に崩壊した。塵となって風に巻き上げられ、王都の方角へ飛んでいった。




