栄光の先で
ミゲルは自分がパラアンコ兵であることを誇りに思っていた。邪教徒は裏切り者であり、彼らこそパラアンコ衰退の元凶だと信じていた。全てがフィリップによるプロパガンダとも知らずに。
国境沿いの小さな農村で生まれたミゲルにとって、シャルマーンは故郷を奪った憎い国だ。そんな国と内通をしていたという邪教徒が許せない。少年は、義憤によって立ち上がった。正しい行いだと信じて村を襲った。少年の周りには志を同じくする仲間がたくさんいた。気づけば多くの農村が粛清の名の下に消えた。
「敵襲! 敵は“腐敗の魔女”だ! 至急、義勇兵本部に援軍を――ァァア!」
仲間たちが今、次々と命を散らしている。
戦場は地獄だ。
ついさっき、配給された干し肉を賭けて、今日はあのおっかない女性審問官が現れるかを予想した戦友が、目の前で全身を穴だらけにされて死んだ。広範囲に及ぶ嵐のような魔術はパラアンコ軍に甚大な被害をもたらした。幸い、ミゲルは砲兵だったから敵の魔術に巻き込まれていない。しかし、高台に立っていたからこそ、前線の悲惨な状況をまじまじと見てしまった。
「ふ、腐敗の魔女……」
邪教徒軍の先頭に、ひときわ目を引く少女がいる。今や彼女の名を知らないパラアンコ兵はいない。幾度となくパラアンコ軍の前に現れては、審問官の命を刈り取った恐るべき魔女。実際に見るのは初めてだ。ミゲルは、魔女という生物のおぞましさを目の当たりにした。
「砲兵、構え――!」
号令がかかった。慌てて魔導砲弾を相方と一緒に持ち上げる。魔導砲弾がいつもより重く感じられ、思わず相方を見ると、彼は真っ青な顔で震えていた。おそらく、自分も同じだろう。
「放て――!」
地面が揺れるほどの轟音とともに、五発の魔導砲弾が放たれた。たった五発、と思わざるを得ない。なにせ邪教徒軍の兵士たちはまるで怯えた様子がないのだ。
魔女が右手を掲げると、無数の黒い棘が空に放たれ、魔導砲弾を撃ち落とした。爆風がミゲルにまで届き、思わず袖で顔を隠した。回り込んだ熱気が肌を焼く。熱い。今すぐに新鮮な空気を吸いたい。だが口を開けば肺を焼かれる。ミゲルは耐えた。爆風がすべてを燃やし尽くすかのようだった。
爆風が晴れたとき、戦線は崩壊していた。魔女の攻撃が降り注いだことで後方の魔術士隊が壊滅し、援護を受けられなくなった前線が魔女の部隊に食い破られている。さらに爆風が引火して武器庫が炎上し、まるで地獄絵図のような光景が広がっていた。
「……冗談じゃないぞ」
隣を見た。共に砲弾をつめた相方は、頭を棘に撃ち抜かれて死んでいた。
「俺たちは、邪教徒を討ちに来たのに……!」
ミゲルは逃げ出した。死にたくない。こんな場所で、何も成せないまま殺されたくない。無我夢中で走った。森林の近くで構えた本部まで逃げれば助かるはずだ。恐怖で体がおかしくなったのか、うまく息を吸えない。手足も思うように動かなくて転びそうになる。それでもミゲルは走った。腐敗の魔女から、もしくは、背後から呼び戻そうとする仲間の声から。
サルファの祝福教会には恐ろしい魔女がいる、という噂は以前から知っていた。だが辺境で育ったミゲルには魔女の恐ろしさが想像できなかった。少し腕の立つ魔術士、程度の感覚だ。いくら個の力が強くても軍には勝てないだろう、と。
とんだ間違いだ。あれは化け物、いや、災害である。人の身に余る力。いったいどれほどの業を背負えば、ああも禍々しくなるのか。
「ハッ、ハァッ、本部が、見えた……!」
ミゲルは勢いよく駆け込んだ。本部の軍人たちが訝しむように彼を見た。
○
審問官が集まる本部は、原初の森の近くにある平原に建てられた。簡易的な拠点だが、周囲の村から「邪教徒の疑いがある」という名目で取り上げた物資が潤沢にあるため、いつぞやの即席砦のような苦しい生活ではない。朝には採れたての野菜を使ったスープと芳醇な香りの茶が出され、審問官には暖かな寝床と、息抜きのための西方奴隷が与えられる。
そんな本部でも特に豪華な部屋で、女は優雅に本を読んでいた。題名は、“パラアンコを救ったのは誰か”。フィリップの偉業をこれでもかと誇張した本だ。これを史実として売り出すように指示したのがこの女、トルネラである。
「トルネラ様、そろそろ片付いた頃合いかと思います。次の村へ向かう準備をしましょう」
「ケリーはせっかちねえ。久しぶりにゆっくり休めるかと思ったのに、冒頭すら終わらなかったわ。読み終えるのはいつになるかしら」
トルネラは疲れた様子でため息をついた。
今の役職は審問官の相談役だ。実質的な統率者であり、日々の面倒事やフィリップのサポートに奔走している。
実のところ、フィリップが迅速に議会を掌握できたのはトルネラの手腕によるものが大きい。もちろんフィリップ一人でも掌握できただろうが、各協会の介入すら許さなかったのはトルネラが主要な人物を洗脳したからだ。
周辺諸国の使者や、辺境の有力貴族、協会から送られた間者、王都で影響力をもつ商人など。女狐の毒牙にかかった者は数知れず。
ちなみに、トルネラの洗脳はどちらかというと記憶改竄に近い。魔導協会の暗部として育てられた彼女の魔力糸は人体の記憶に影響を及ぼし、術士にとって都合のよい記憶を書き込むことができる。原理はピッチの菌糸に近く、術者が離れても魔術の効力は失われないし、たとえトルネラが死亡したとしても洗脳は解かれない。実に凶悪で、トルネラらしい魔術である。
「なにやら表が騒がしいですね。問題が起きたのでしょうか」
「もーっ、勘弁してほしいわ。これ以上遅れるとフィリップ様に怒られるんだけど」
トルネラは苛立った様子で部屋を出た。
今回の目的はアイゼンの包囲網を完成させることだ。そのために西へ進軍しながら村を制圧し、中継地点として拠点を作っている。作戦が成功すれば今度こそ邪教徒を一掃できる目論見である。
「どうされました?」
ふと、トルネラが立ち止まって窓の外を見ている。彼女につられて視線の先を追うと、前線基地から煙が昇っているのが見えた。魔術工兵が仕事をサボったのか、建てつけの悪い窓から隙間風がもれ、冬の終わりかけの、古いものをかっさらうような冷たい風がケリーの頬を撫でる。
「そう。嫌だわ。私としたことが、読み間違えたみたい」
「なにをですか?」
「小蝿がどう動くかよ。あなた、騎士だから見えないでしょ」
ケリーには主人の言葉の意味が伝わらない。小蝿とは何か、表の騒ぎに関係しているのか、なぜ、主人はそんなにも遠い目をしているのかもわからない。彼はただ突っ立って言葉の続きを待つしかなかった。
だがトルネラには見えていた。前哨基地から広がる、魔導元素の気配を。底冷えするような魔女の脈動を。
コツ、コツ、と足音がする。バッ、と振り返るトルネラ。廊下には副官のケリー以外誰もいない。ああ、そうか。今のは死神の足音だ。トルネラはゾッとした。事態が急速に、それも自分の制御を超えるほど変化している。
「トルネラ様! 敵襲です!」
そんな二人のもとへ伝令兵が走ってきた。
「ま、魔女が前哨基地に現れました! すでに拠点は壊滅し、邪教徒軍が本部へ押し寄せています!」
ケリーの顔が真っ青になった。本部には主力部隊が控えているといえども、魔女を相手にできるほどの戦力はない。
「次の援軍はいつ?」
「明朝には到着する予定です!」
「間に合わないわね。ここを放棄は……できないし。まさか小蝿が北上するなんて。アイゼンで大人しくしていればいいものを」
ぶつぶつと独り言を繰り返すトルネラ。片腕を組んであごに手を当て、いつになく真剣な表情で虚空を睨む。
元来、トルネラは計算高い。何かが違えば軍の参謀に名を連ねていた可能性もある。彼女の脳内には無数の選択肢があった。
「どっ、どうしますか?」
「それを今考えているのよ。傀儡は黙っていなさい」
祝福軍と正面から戦うのは悪手だ。農民の鎮圧を目的とした審問官の部隊に、魔女と戦える力はない。ならば軍をまとめて退却をしたいところだが、退けばアイゼン包囲作戦に穴を作ることになる。
ならば、どうする? 策を練って、魔女と戦う? 単身で脱出して王都に帰還する? それでフィリップは満足するのか?
トルネラはひとしきり考えてから目を閉じて、大きく深呼吸をした。枯れ草の匂いがする乾いた空気が、肺いっぱいに広がった。
次に目を開けたとき、トルネラは覚悟を決めた。
「兵に伝えなさい」
ケリー副官は見た。主人の瞳に燃える因果の炎を。冬の死神が、主人の首元に鎌を当てているのを。
「本隊は撤退の準備を。ただし私の部隊は別で控えておいて」
「拠点を放棄するのですか?」
「一時的よ。援軍と合流したらまた取り返せるわ」
ケリーの背筋が自然と伸びる。トルネラの、有無を言わさぬ圧力が、指揮所で緩みきったケリーの警戒心を最大にまで引き上げる。
「それと、フィリップ様に伝令を出して。内容は、そうね――」
眩しいほどの光が窓から差し込んだ。あまりの輝きにケリーが目を細める中、トルネラはむしろ太陽に焦がれるかのように、目を見開いていた。
「栄光の先で会いましょう、と」
トルネラが翻す。祝福軍の足音はすぐ近くにまで迫っていた。




