第9話 二人の判
登録に要るものは、三つだった。
年会費、金貨二枚。店舗の実在を示す証。そして、組合員二名の保証。
金は、再生品の利で足りた。店は、ドーラの店の隣が三月前から空いている。間口一間半、二階に一部屋。家賃は月に銀貨六枚。
残るは、二人だった。
「やるよ」
ドーラは、ルカが言い終わる前に言った。
「まだ何も」
「保証人の話だろ。やるって言ってんだ」
「話を最後まで」
「聞かないよ」
女は帳面から顔も上げなかった。
「聞いたら怖くなるかもしれないだろ。だから聞かない」
ルカは、しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
「礼はいいから、家賃を払える商売をしな」
三日後、組合の受付で、ルカは紙を突き返された。
「保証人の資産が、要件に満たない」
若い書記が、事務的に言った。
「保証人は、申請者の想定債務総額に見合う資産を有していなければなりません。ドーラ魔道具店の資産評価は、金貨十八枚。不足です」
「私の想定債務は、いくらと査定されていますか」
書記は帳面をめくった。
「金貨、二百枚」
ルカは、耳を疑った。
「……二百枚?」
「新規登録商の標準査定です」
「標準? 私は在庫を持ちません。仕入れは現金です。掛けの買いは一枚もありません」
「査定は理事会の裁量です」
書記は帳面を閉じた。
「不服申立ては受け付けておりません」
ルカは受付を出た。
冬の風が、上市の石畳を吹き抜けていく。
金貨二百枚の資産を持つ商人。この街に何人いるか。二十人か、三十人か。そのすべてが連合の大店で、そのすべてがヴァレンティを理事に戴いている。
法で塞がれたのではない。数字で塞がれた。
そして数字を決めたのは、人だ。
イルマの家に、ルカは三日通った。
老女は白い灯りの下で、組合の定款の写しを一枚ずつ繰っていた。記録院を辞めても、彼女には昔の伝手があった。
「抜け道は、ないね」
四日目の夜、イルマはそう言った。
「保証人の資産要件は、定款の十二条。裁量は理事会。異議申立ての条項は、七十年前に削られてる」
「削られている?」
「削った年の議事録も出てきたよ」
老女は別の紙を押し出した。
「異議申立てが多すぎて事務が滞る、というのが理由だ。……ただね」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「その年、削除に賛成した理事の一人が、ヴァレンティだ。いまの理事の、祖父さんのほうだけどね」
ルカは、紙を見つめた。
七十年前。百年前ではないが、遠くもない。
同じ家が、同じことを、繰り返している。
「イルマさん」
「なんだい」
「もっと古い記録を、探せますか」
老女は、ゆっくりと顔を上げた。白い光の下で、その皺の一本一本まで見えた。
「……どのくらい古いのを」
「百年前です」
イルマは長いこと黙っていた。それから、ペンを置いた。
「小僧。あんたが探してるものが何かは訊かないよ」
彼女は言った。
「ただ、記録院の地下には、閲覧を許可制にしてる棚が三つある。あたしは中を見たことがない。二十年勤めて、一度もね」
「その三つには、何が」
「札には『商事訴訟・旧記』とだけ」
ルカの喉が、鳴った。
「探してください。時間はかかっていい」
「金は」
「月に銀貨三枚」
「高いね」
老女は初めて笑った。
「亭主が生きてた頃より稼いでるよ、あたしゃ」
バルサの倉庫は、川沿いにあった。
樽のような体の男は、荷を数えていた手を止めて、ルカを見た。そして、驚くほど嫌そうな顔をした。
「帰れ」
「話を聞いてください」
「聞いた話なら知っとる。お前、登録商になろうとしとるそうだな。保証人が見つからんのだろう」
男は鼻を鳴らした。
「俺のところに来る時点で、お前も終わりだ」
「あなたは、連合の卸から掛けで仕入れていますね」
バルサの手が、止まった。
「何の話だ」
「仲買は在庫を抱えます。抱えるには掛けが要ります」
ルカは懐から紙を出した。
「これは、連合が七軒に示した契約書の写しです。第四条を読んでください」
「読む義理はない」
「三十を数える間だけで結構です」
男は舌打ちして、紙をひったくった。
そして、読んだ。
三十を数える前に、その目が一点で止まった。
顔の色が、変わっていった。
「……お前」
「あなたが連合と交わしている契約書にも、これと同じ条項がありませんか」
ルカは静かに言った。
「第四条か、第五条か。表現は違うかもしれません。ですが、改定に応じられぬ場合は即時一括という一文が、必ずどこかにあるはずです」
バルサは、紙を握りしめたまま、動かなかった。
「あなたが二十年ヴァレンティに従っているのは、忠義ではありません。その紙があるからです」
倉庫の中に、川の音だけが響いた。
「……何が言いたい」
「私の保証人になってください」
「馬鹿を言え!」
男が怒鳴った。
「バレたら俺が終わる!」
「終わりません。バレませんから」
ルカは一歩踏み出した。
「保証人の名は、組合の帳面に載ります。ですが、載るのは名だけです。理由は載らない」
彼は言った。
「あなたが私の保証人になった理由は、こう説明できます。『あの小僧の目は使える。囲い込んでおけば得だ』」
バルサが、口を開けた。
「実際、囲い込んでください」
ルカは続けた。
「私の商いの卸は、全部あなたを通します。手数料は一割で結構です」
「……一割」
「二割でも構いません」
男は、長いこと黙っていた。
そして、低い声で言った。
「小僧。俺はな、お前の親父の店にも品を入れとった」
ルカは、顔を上げた。
「あの人は、俺の持ってきた屑を、屑と知って買ってくれたことが何度もある。俺が食えん時期にな」
バルサは、紙を机に置いた。
「あの人が潰れたとき、俺は連合の側におった。荷を止めた側だ」
「知っています」
「詫びはせんぞ」
「要りません」
ルカは言った。
「詫びで商売はできません」
バルサは、初めて少年の顔をまっすぐ見た。それから、大きく息を吐いて、机の引き出しから印形を取り出した。
「手数料は、一割五分だ」
理事会は、七日後だった。
ルカは、連合会館の広間に呼ばれた。長い机の向こうに、六人の理事が座っていた。
中央に、白髪の男がいた。
痩せてはいない。かといって太ってもいない。仕立ての良い、しかし地味な服を着ていた。目の前の書類を、老眼鏡越しに丁寧に読んでいる。
バルド・ヴァレンティは、顔を上げた。
「保証人二名、要件を満たしております。ドーラ魔道具店、および仲買バルサ」
隣の理事が咳払いした。
「理事、この者は——」
「クレインの子息ですな」
ヴァレンティは書類を置いた。
「承知しております」
広間が、静かになった。
理事は、ルカを見た。
穏やかな目だった。憎しみも、蔑みもなかった。ただ、値踏みしていた。
「君の父上のことは、よく覚えている」
ルカは、拳を握った。
「よい商人だった。……いや、違うな」
ヴァレンティは首を振った。
「よい人間だった。商いは、しておらんかった」
「父は商会を三十年守りました」
「守っただけだ」
理事は言った。
「あの人がやっていたのは慈善だ。困っている者に手を貸し、判を押し、値を負けてやった。街の者は皆あの人を褒めた。そして誰も、あの人を助けなかった」
その言葉は、刃のように正確だった。
ルカは、何も言い返せなかった。
「登録を認めます」
理事は、書類に判を押した。
隣の理事が驚いた顔をした。
「よろしいのですか」
「よろしい」
ヴァレンティは眼鏡を外した。
「潰すのは容易い。だが、潰された者は英雄になる。この街は判官贔屓でな。潰れたクレインの倅は物語になるが、登録商クレインはただの同業者だ」
彼はルカを見た。
「少年。君は今日から、この街の商人だ。規則に守られ、規則に縛られる。……歓迎するよ」
ルカは、深く頭を下げた。
頭を下げながら、思っていた。
規則に縛られる。その通りだ。
そして規則は、書いた者が変えられる。
書かれた年が、あるということだ。
木札が届いたのは、その夕方だった。
上市の登録商が店先に下げる、焼き印の入った木の札。屋号を彫る欄が、空白のまま残っている。
ドーラの店に集まった四人の主人と、ヴェントと、ネルと、トトが、それを覗き込んだ。
「で、何て名前にすんだい」
ドーラが言った。
「決めています」
「言ってみな」
ルカは、木札を手に取った。
「クレインです」
店の中が、静まり返った。
ドーラが、真顔になった。
「……やめときな」
「なぜですか」
「あんたの親の借金は、まだ金貨五百枚残ってんだよ」
女は言った。
「クレインの名で店を出したら、連合は必ずこう言う。『あの店はクレイン家の資産だ、債権者に配当しろ』とね。屁理屈だよ。だけど屁理屈を通す力が、向こうにはある」
「わかっています」
「わかってて出すのかい」
「はい」
ルカは、木札を握った。
指が、白くなるほど強く。
「別の名で稼いだ金では、父の名は買い戻せません」
彼は顔を上げた。
「潰れたのは、クレインという名です。取り返すのも、クレインでなければ意味がない」
誰も、何も言わなかった。
やがて、ヴェントが立ち上がった。
老人は震える手を差し出し、木札を受け取った。そして、懐から針を出した。
「彫るのは、わしがやる」
「ヴェントさん、手が」
「小僧」
老人はルカを見た。
「三十年前、その屋号を彫ったのはわしだ」




