第8話 判を押さない
最初に気づいたのは、ネルだった。
「見ない男が、七軒を回ってる」
娘は麻袋を下ろしながら言った。
「痩せてて、背が高くて、帳面を持ってる。店には入らない。向かいの通りに立って、出入りする客を数えてるだけ」
ルカは手を止めた。
「何日だ」
「四日。今日で五日目」
「客を数えている?」
「うん。指で数えてた」
ルカの背中を、冷たいものが上っていった。
嫌がらせに来た人間は、客を数えない。客を数えるのは、その店がいくら稼いでいるかを知りたい人間だ。
「どこの店から回った」
「一番南の、金物と魔道具を並べてる店」
下取りに乗った七軒のうち、四番目に乗った店だった。
「次は」
「隣の通りの、看板が青い店」
三番目に乗った店だ。
ルカは板に炭を走らせた。男が回った順番と、七軒が下取りを始めた順番を並べる。
一致した。逆順だった。
つまりその男は、七軒が誰の話に乗ったかを、後ろから辿っている。
「ネル」
ルカは立ち上がった。
「明日、その男がどこに帰るか見てくれ」
「もう見た」
娘は事もなげに言った。
「丘の上。門に、月と天秤の紋が彫ってあった」
ヴァレンティの紋章だった。
荷が止まったのは、その六日後だった。
ドーラの店の裏口に、いつも来るはずの荷車が来なかった。翌日も来なかった。三日目、女が卸に使いを出すと、返事は簡潔だった。
在庫調整のため、今月の納品は見合わせる。
「二十年、一度もなかったよ」
ドーラは帳場に座り込んだ。
「うちが二日仕入れなきゃ、棚が空く。棚が空いた店に、客は二度と来ない」
ルカは何も言えなかった。
七軒すべてで、同じことが起きていた。
四日目の朝、ドーラの店に、背の高い男が入ってきた。
痩せて、黒い外套を着て、帳面を抱えていた。年は四十ほどか。物腰は柔らかく、声は低かった。
「セヴェルと申します。カルディア商会連合の、事務方でございます」
男は帳場に紙を一枚置いた。
「卸各社の在庫調整につきましては、ご迷惑をおかけしております。理事より、場末の小店をこそ支えるべきとの意向がございまして、こちらをお持ちしました」
ドーラは紙を取った。
読み進めるうちに、彼女の目が丸くなった。
「……卸値を、二割下げる?」
「はい。連合加盟の卸七社が、こちらの七軒に限り、二割の値引きで納品いたします。期間は三年」
「なぜうちなんだい」
「経営に工夫のある店を支援せよ、というのが理事のお考えでございます」
セヴェルは微笑んだ。
「ただ、条件が一つございまして」
「言いな」
「下取りを、おやめいただきたい」
店の中が、静かになった。
「壊れた魔道具の下取りは、この街の商いの秩序を乱します」
男の声は変わらなかった。
「粗悪品が市中に出回る恐れもございます。理事は、そこを案じておいでです」
ドーラは紙を見つめたまま、動かなかった。
二割。仕入れが二割安くなれば、この店の利は倍になる。三年あれば、亡夫が残した借りも返せる。
そして、失うのは、屑を集めている少年一人だ。
「……返事はいつまでだい」
「七日以内に」
セヴェルは礼をして、扉に向かった。
そこで足を止め、振り返った。
「そういえば」
彼は、店の隅で麻袋を運んでいたルカを、まっすぐに見た。
「クレインのご子息でいらっしゃいますか」
ルカは、袋を下ろした。
「はい」
「お父上のことは、伺っております」
セヴェルは静かに言った。
「気の毒なことでございました。人が良すぎたのです」
そして、扉を閉めた。
紙を読んだのは、その夜だった。
ドーラは何も言わずに契約書を差し出し、ルカは蝋燭の下でそれを読んだ。
二度読んで、三度目で、指が止まった。
第四条。
『卸値は、市況の変動に応じ、連合の裁定により随時改定することができる。』
『改定後の卸値に応ぜられぬ場合、既に納品済みの商品につき、その代金の全額を即時一括にて支払うものとする。』
ルカは、紙を持つ手が冷たくなっていくのを感じた。
「ドーラさん」
「なんだい」
「これは、二割安くなる契約ではありません」
彼は紙を置いた。
「掛けで買わせて、後から値を上げる契約です」
女が眉を寄せた。
「二割安ければ、みんな仕入れを増やします。掛けで、たくさん。半年もすれば、七軒とも棚が満杯になって、帳面には未払いが積み上がる」
ルカの声は淡々としていた。
「そこで連合が『市況が変わった』と言って、卸値を三割上げる。応じられますか」
「応じられるわけないだろ。そんな値で仕入れたら赤字だよ」
「では、応じない。すると第四条が動きます」
ルカは条文を指した。
「納品済みの代金を、全額、即時一括」
ドーラの顔から、血の気が引いた。
「……半年分の仕入れを、一度に?」
「払える店はありません」
「そんな。そんなの、詐欺じゃないか」
「詐欺ではありません」
ルカは首を振った。
「紙に書いてあります。判を押した人間が悪い、で終わります」
彼は、蝋燭の火を見つめた。
「三年前、トマスさんが押したのが、これと同じ形の紙です」
女は口元を押さえた。
「……あんた、なんでそれがわかる」
「うちが、それで潰れたからです」
ルカは言った。声が少しだけ震えた。
「父の商会の書類は、全部競売にかけられました。私は、その前の晩に、一枚だけ持ち出しました。トマスさんの契約書です。何度も読みました。何度も、何度も読んで、どこで父が助けられたのかを探しました」
「見つかったのかい」
「見つかりませんでした」
ルカは言った。
「父はその紙を読んでいなかった。弟子を信じていたので、読む必要がないと思ったんです」
そこから先を、ルカは言えなかった。言うべきことは、わかっていた。下取りをやめてください。七軒とも、条件を蹴って、私と縁を切ってください。そうすれば、卸は再開されるかもしれない。少なくとも、この人たちは巻き込まれずに済む。
自分は、また、人を巻き込んでいる。父が判を押して人を巻き込んだように。
「ドーラさん。私は」
「言うんじゃないよ」
女の声が、鋭く飛んだ。ルカは顔を上げた。ドーラは腕を組み、じっと少年を見ていた。
「あんた、いま『自分のせいだ』って言おうとしたね」
「……はい」
「馬鹿だね」
ドーラは吐き捨てた。
「あんたの親父さんは、判を押した。他人の借りを、自分で被る判をね。だから、あの人のせいだ。それは間違いない」
彼女は、帳場を掌で叩いた。
「でもあんたは、判を押してないだろ」
ルカは、言葉を失った。
「あんたは『こうすれば儲かる』と言いに来た。あたしは自分の頭で考えて、乗った。実際、去年の倍儲けた」
ドーラは言った。
「これはあたしの商売だ。あたしが決めたことだ。あんたの罪じゃない」
蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。
「だから、あんたが謝るのは筋違いだよ」
女は続けた。
「あんたがやることはひとつしかない。……あたしらに、棚を埋める品を持っておいで」
翌朝、ルカは製粉小屋の一階の戸を開けた。
半年かけて集めた、壊れた魔道具の山があった。
七軒から銀貨一枚ずつで買い取った、直せないと判断された品々。四百点を超えている。ルカはこれまで、この山からアルヴァ鋼だけを抜いてきた。抜いたあとの残骸は、そのまま積んであった。
ヴェントが、後ろから覗き込んだ。
「これを、どうする気だ」
「直します」
「直らんから捨てられたんだろうが」
「上市の店では直りません。あの人たちには、陣が読めないからです」
ルカは山の中から一つを取り上げた。
「これは陣が割れています。ですが外側は無傷だ。そしてこっちは——」
もう一つ取り上げる。
「外側が潰れていますが、中の陣は生きている」
彼は二つを並べた。
「合わせれば、一台になります」
ヴェントが、長く息を吸った。
「……何台分ある」
「四百点のうち、陣が生きているのが、私の見立てで百二十ほど。外側が使えるのが二百ほど。組み合わせて、百台前後」
「刻む必要は」
「ほとんどありません。入れ替えるだけです」
ルカは言った。
「どの陣がどの外側に合うかを見分けるのが、一番面倒な仕事です。ですが、それは私の仕事です」
老人は、山を見上げた。
そして、笑った。乾いた、しかし嬉しそうな笑いだった。
「あいつらが捨てた物で、あいつらの棚を埋めるのか」
「はい」
七日後。
三軒が、連合の条件を呑んだ。
責める気はなかった。三軒とも、家族を抱えていた。一軒の主人は、ルカのところに詫びに来て、頭を下げたまま帰った。ルカはその背中に「またいつでも」と言った。
四軒が、残った。
ドーラの店。青い看板の店。金物と並べている南の店。そして、一番小さな、老夫婦がやっている店。
その四軒の棚に、二十日で百二台の再生品が並んだ。
値は、連合の卸値より三割安かった。屑を銀貨一枚で買っているのだから、当然だった。品質は上市の中古品と変わらない——外側の傷を磨き、陣は生きているものだけを入れた。
ひと月で、七十台が売れた。
「卸が止まって、去年より儲かるってのは、どういう了見だろうね」
ドーラは帳面を見ながら言った。
代償は、あった。
灯りの製作が、二月止まった。
ヴェントとトトの手は、すべて再生品に回った。イルマたちに約束した十二台の追加分は、納期が延びた。誰も文句を言わなかったが、ルカは一軒ずつ回って頭を下げた。
板の数字は、その二月で、四千枚ほどしか減らなかった。
残り、四万五千八百枚。
妹の期限まで、あと四百二十日。
その月の終わり、四軒の主人が、ドーラの店に集まった。
酒が回ったころ、青い看板の店の主人が、ルカの方を向いた。
「なあ、小僧」
「はい」
「あんた、いつまで人の看板の裏に隠れてるんだ」
ルカは、盃を置いた。
「うちらは助かった。それは本当だ。だがな」
男は続けた。
「あんたが持ってくる品には、あんたの名前がついとらん。だから連合は『ドーラの店が粗悪品を売っとる』と言える。叩かれるのは、いつもうちらだ」
店の中が、静かになった。
ドーラは何も言わなかった。反論しなかったということが、答えだった。
「登録商になんな」
老夫婦の店の主人が、ぼそりと言った。
「上市に、あんたの店を出せ。そうすりゃ、連合はあんたを叩かにゃならん。うちらじゃなく」
ルカは、俯いた。
組合登録には、年会費と、組合員二名の保証が要る。
保証。
判を押してくれる人間が、二人。
この街で、クレインの名に判を押す商人が、二人。
彼は顔を上げた。
「……探します」




