第10話 夜だけ開く店
「日が沈んでから開けます」
ルカがそう言ったとき、店の中にいた全員が、同じ顔をした。
間口一間半。棚が三段。奥に作業台。二階に部屋が一つ。上市の外れ、ドーラの店の隣。三日かけて床を張り替え、壁を塗り直したばかりの、まだ塗料の匂いがする空間だった。
「もう一遍言ってごらん」
ドーラが言った。
「日没に開けて、夜半に閉めます。昼は閉めます」
「正気かい」
「正気です」
「小僧」
バルサが呆れた声を出した。
「上市の店は夜明けに開けて日暮れに閉める。三百年そうだ。夜に客が来るわけがなかろう」
「来ませんか?」
ルカは棚に品を並べる手を止めて、振り返った。
「イルマさんは、いつ買い物ができますか」
バルサが、口をつぐんだ。
「彫金のマルタさんは。刃物研ぎのゴードさんは」
ルカは続けた。
「あの人たちは、日の出から日没まで仕事をしています。買い物に来られる時間があるとしたら、日が沈んだあとだけです」
「だから、みんな買い物なんぞしとらんのだろう」
「はい」
ルカは頷いた。
「誰も、あの人たちに売っていません」
店の中が、静かになった。
「上市の店は三百年、昼に開けてきました。だから昼の客のことしか知らない」
ルカは棚に手を置いた。
「職人街には四百人からの職人がいます。四百人が三百年、何も買わずにきた。それは、あの人たちに金がないからではありません。店が閉まっているからです」
ヴェントが、作業台から低く言った。
「組合の規則には、閉店の刻限はないのか」
「ありません」
ルカは言った。
「開店の刻限もありません。三百年、誰も破らなかったので、書く必要がなかったんです」
開店の日。
日が沈み、上市の店が一軒ずつ雨戸を下ろしていった。
ルカは、それを店先で見ていた。石畳から人が引いていく。魔石灯が消され、通りが暗くなる。夜のカルディアで明かりが灯るのは酒場と宿だけで、商いの通りは死んだように静まる。
最後の一軒が閉まったとき、ルカは店に戻り、留め具を回した。硝子越しではなく、開け放った戸口から、まっすぐに白い光が、通りに溢れ出た。
ドーラが、ぽかんと口を開けた。
「……あんた、それ」
上市の通りが、そこだけ昼になっていた。石畳の目地の一本一本、向かいの壁の亀裂、風に転がる紙屑まで、白く浮かび上がっている。
そして通りの反対側は、闇だった。
ヴェントが四台の灯りを店内の四隅に据えた。棚の上まで彫りの深さがわかった。
「派手すぎやしないかい」
ドーラが言った。
「一番安い宣伝です」
ルカは言った。
「看板を出す金がありませんから」
一刻、誰も来なかった。
二刻、誰も来なかった。
ネルが戸口で膝を抱えた。
「ねえ、やっぱり誰も」
「もう少しだ」
ルカは帳場に座って、待った。落ち着いているように見せるのは、案外難しかった。掌に汗をかいていた。
三刻目の初め、通りの向こうから、足音が近づいてきた。
イルマだった。
老女は外套を羽織り、袋を抱えて、白い光の中に立った。まぶしそうに目を細めて、それから笑った。
「三年ぶりだよ、日が暮れてから買い物に出るのはね」
「いらっしゃいませ」
「墨壺が欲しい。あと、羽根が減った」
その後ろから、もう一人。
彫金のマルタが、腕を組んで立っていた。
「イルマの婆さんが出かけるってんで、ついてきた」
女は店内を見回した。
「……本当に開いてやがる」
そのまた後ろから、二人。
刃物研ぎのゴードと、その弟子。
「灯りの店だと聞いて来たんだが」
老人は言った。
「なんだ、他の物も売っとるのか」
夜半までに、十九人が来た。
売れたのは、再生品の湯沸かしが三台、細工用の小道具が十七点、雲母の板が二十枚、そして墨と羽根とインク。
金額は、銀貨二十二枚。
たいした額ではなかった。
だが、店を閉めたあと、ルカは帳面を見ながら気づいた。
十九人のうち、十四人が初めて上市で買い物をした人間だった。
「あんた、気づいてるかい」
ドーラが帳面を覗き込んで言った。
「あの人らはね、上市に来たことがなかったんじゃない。来ちゃいけないと思ってたんだ」
「なぜです」
「昼に来たら、他の客がいるからだよ」
女は言った。
「前掛けに墨や油をつけたまま、身なりのいい客の隣に並ぶのは嫌なもんさ。あたしだって若い頃はそうだった」
ルカは、帳面から顔を上げた。
夜は、暗いから開いていないのではない。
夜は、誰にも見られない時間だ。
「ドーラさん」
「なんだい」
「明日から、店の前に長椅子を出します」
噂が回るのは、速かった。
夜だけ開く店。白く光る店。職人が集まる店。
半月もすると、見物に来る者が現れた。上市の商人が、閉店後に散歩と称して通りかかる。中を覗いて、白い灯りに顔をしかめて、そして棚の品を見て、驚いて帰る。
再生品は、上市の中古より三割安い。
ひと月で、上市の商人が六人、こっそり客として来た。自分の店で売るために。
ルカは断らなかった。卸はバルサを通した。
「小僧」
バルサが荷を運びながら唸った。
「お前、上市の店に上市の中古を卸しとるんだぞ。連中はそれを、上市の値で売るんだ」
「はい」
「腹が立たんのか」
「なぜです。私は売れています」
「屑を銀貨一枚で買った品が、金貨に化けとるんだ。間を抜かれとる」
ルカは荷を積みながら、言った。
「いまは、それでいいんです」
「なぜだ」
「私が全部を自分の店で売ろうとすれば、店は一軒しかありません」
ルカは言った。
「他の店に卸せば、店は七軒になります。七軒の棚に私の品が並べば、この街の中古市場の値を、私が決めることになる」
バルサの手が、止まった。
「……お前」
「値を決められる者が一番強い」
ルカは荷車の縄を締めた。
「儲けは、あとからついてきます」
三月が過ぎた。
夜の店は、上市の名物になっていた。
職人が来る。職人の女房が来る。夜勤明けの荷役が来る。夜番の兵が、酒の代わりに油を買いに来る。
灯りの注文は、四十七件まで溜まっていた。作れないので、注文帳に名前を書いてもらうだけだ。それでも人は書いていった。順番待ちの名簿があるという事実そのものが、この街で灯りの価値を証明していた。
トトは、ヴェントの下で毎日怒鳴られていた。指の腹が硬くなり、線がまっすぐ引けるようになった。まだ陣は刻めない。だが下書きの円は、ヴェントが「悪くない」と言った。
ネルは、いつのまにか帳場に座るようになっていた。数を覚えるのが速い。この街の下側の地図を頭に持っている娘は、いま、この店の在庫を頭に持っていた。
そして、板の数字は。
残り、四万三千二百枚。
三月で二千六百枚。金貨に直せば、二十六枚。
月に金貨八枚を超える利が出ていた。
一年前、銀貨二枚で歓喜していた少年の商いは、そこまで来ていた。
その男が店に来たのは、雨の夜だった。
日が暮れてすぐ、客がまばらな刻限だった。上等な外套を着て、傘を持った使用人を従えている。四十半ばの、疲れた顔をした男だった。
ルカは帳場から立ち上がった。
顔を、知っていた。
母の兄。ソレル家の当主。
「……久しいな」
男は店内を見回した。白い光に目を細め、棚を眺め、そして少年に視線を戻した。
「噂は聞いていた。まさか本当に上市に店を持つとは」
「ご用件を」
ルカの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
男は、懐から折った紙を出した。帳場に置く。
「ミナの縁組が、整った」
雨の音が、遠くなった。
「……期限は二年と伺っていました」
「早まった」
男は目を逸らした。
「先方が急いでいる。式は、半年後だ」
ルカは紙を開いた。
先方の家名を見て、指が止まった。
連合理事の一族だった。ヴァレンティの遠縁。
「叔父上」
「わしは何も知らん」
男は早口に言った。
「先方から申し入れがあった。条件はこちらに過ぎたものだ。断る理由がない」
「ミナは八つです」
「九つになった」
その一言が、いちばん深く刺さった。ルカは、妹の年を間違えていた。
「式まで屋敷で預かる。それまでは、これまで通りだ」
男は立ち上がった。
「お前に知らせに来たのは、姉の子だからだ。それ以上の意味はない」
「叔父上」
ルカは呼び止めた。
「ソレル家は、この縁組で、いくら受け取られるのですか」
男の足が止まった。
長い沈黙があった。
雨が、屋根を叩いていた。
「……お前は、母親に似ておらんな」
男は言った。
「あれは、そういうことを訊かん子だった」
「いくらですか」
「金貨、八十枚だ」
ルカは、動かなかった。
「支度金と、家の借りの肩代わりを合わせてな」
男は扉に向かった。
「言っておくが、わしとて好きでやっとるわけではない。ソレルの家も、もうもたん。あの子一人のために、他の者を路頭に迷わせるわけにいかんのだ」
扉が閉まった。
雨の音が、また近くなった。
ルカは、しばらく帳場に立っていた。
ネルが、そっと近づいてきた。
「ねえ、あの人」
「叔父だ」
「なんて言ってた?」
ルカは答えなかった。
彼は板を取り、炭を握った。
金貨八十枚。
妹に、値がついた。
八十枚あれば、上回れる。ソレル家が受け取る額と同じだけを積めば、あの家は金で動く家だ。動かない理由がない。
胸の奥が、焼けるように熱かった。
妹を買う。
そんな言い方を、自分がすることになるとは思わなかった。
だが、いま彼は商人だった。数字に置き換えられるということは、手が届くということでもある。
彼は炭を走らせた。
いまの利は、月に金貨八枚。半年で四十八枚。
足りない。
三十二枚、足りない。
ルカは板を見つめた。それから、灯りを見た。四隅で、白い光が揺れずに燃えている。
注文帳には、四十七人の名前が書いてある。
だが売る品がない。アルヴァ鋼が足りないからだ。屑から集める限り、月に二台か三台が限界で、それでは半年で二十台にもならない。
いまのやり方では、届かない。
一年前と、同じ結論だった。
ルカは目を閉じた。
やり方が、小さい。
そして、目を開けたとき、彼は帳面の別の頁を開いていた。
イルマたちが月々払っている、灯りの代金の記録だった。十二人が、月に銀貨二枚ずつ。九か月かけて、銀貨十八枚を払う。
九か月で終わる。終われば、収入も終わる。
彼はその数字を、長い間見つめていた。
そして、独り言のように言った。
「……売らなければ、いいのか」




