第11話 一軒では潰される
「灯りを売るのをやめます」
朝の店で——閉めた店で、ルカはそう言った。
集まったのは五人。ドーラ、バルサ、ヴェント、ネル、トト。注文帳が帳場に置かれている。四十七人の名前が書かれた帳面だ。
「聞き違いかい」ドーラが言った。
「売りません。貸します」
「貸す?」
「月に銀貨二枚で貸します。壊れたらこちらが直します。魔石もこちらが入れます。所有はうちのままです」
バルサが眉を寄せた。
「待て。売れば十八枚だ。貸したら二枚だぞ」
「はい」
「九か月で元に戻る、というなら同じことだが」
「戻りません。終わりがないからです」
ルカは言った。
「売れば九か月で十八枚。それで終わりです。貸せば、十年で二百四十枚になります」
「十年!」
バルサが吼えた。
「小僧、お前、半年後に金貨八十枚が要るんだろうが!」
店の中が、静まり返った。ルカは、動かなかった。
「はい」
「はい、じゃない!」
反対の理由は、どれも正しかった。
「うちだって困るよ」
ドーラが言った。
「あんたが灯りを売らないなら、うちの棚に灯りは並ばない。連合と切れた四軒が、いま何で食ってると思ってるんだい」
「再生品です。それは続けます」
「灯りが目当てで来てる客もいるんだよ」
「ねえ」
ネルが口を挟んだ。
「あたし、帳場に座ってるからわかるけど。お客さん、月払いの人ほど文句言うんだよ。壊れたって、暗いって、光が白すぎるって。売っちゃえば文句言われないのに、なんでわざわざ」
「そこです」
ルカは言った。
「壊れたら文句を言いに来る。それは、うちに来る理由があるということです」
娘が首を傾げた。
「売った品は、その日で縁が切れます。貸した品は、毎月、縁が続く」
ルカは帳面を指した。
「十二人に売れば、来年には他人です。十二人に貸せば、来年も客です。再来年も」
「そんな先の話」
バルサが呻いた。
「半年後に八十枚だと言っとるだろうが!」
「その話はあとでします」
「あとでとは何だ!」
ルカは、初めて声を強めた。
「バルサさん。灯りを全部売り払っても、半年で金貨三枚にしかなりません」
男が、止まった。
「材料が足りないからです。屑から集められるアルヴァ鋼は、月に二台か三台分。半年で十五台。売っても銀貨二百七十枚。金貨に直して二枚と七十枚です」ルカは言った。「四十七人の注文帳は、幻です。作れない品に名前が並んでいるだけだ」
誰も、何も言わなかった。
「妹の八十枚は、灯りでは作れません。それは、もう計算しました」
「では、なぜ貸す」
ヴェントが、作業台から言った。老人が口を開いたのは、それが初めてだった。ルカは、少し間を置いた。
「三つあります」
「言え」
「一つ。材料が戻ってきます」
ヴェントの手が、止まった。
「売れば、アルヴァ鋼は永久に他人の家に行きます。この街から一台ずつ、私の材料が消えていく」
ルカは言った。
「貸せば、客が辞めたとき、壊れたとき、死んだとき、鋼はうちに戻ります。溶かして打ち直せば、また使える。同じ鋼で、何度でも貸せる」
「二つ」
「修理を、こちらが握ります。この陣を直せるのは、この街でヴェントさんとトトだけです。売った品でも、直すのはうちです。ならば最初からうちの持ち物にしておいたほうが、話が早い」
「三つ」
ルカは、少し黙った。
「三つ。売った品は、取り上げられます」
ヴェントが、顔を上げた。
「連合がいつか、この灯りを禁じたとします」
ルカは静かに言った。
「売っていれば、各家に散らばった灯りが一つずつ差し押さえられる。持っている職人が罰を受ける。私は何も守れません」
「貸していれば」
「持ち主は、私です」
ルカは言った。
「差し押さえるなら、私を差し押さえるしかない。職人には手が出せない」
老人は、長い間、少年の顔を見ていた。そして、針を置いた。
「小僧。お前、あの一家がどうやって潰されたか、聞きたがっとったな」
店の空気が変わった。
「いま話す気になった」
ヴェントは言った。
「ただし、途中までだ」
「あの家はな」
老人は言った。
「一軒だった」
ルカは、動かなかった。
「腕のいい陣師の一族だ。親、子、孫。工房が一つ。職人が十人ほど。それだけだ」
ヴェントは、震える手を膝に置いた。
「灯りを作って、売っていた。売ったから、灯りは街中の家にあった。何百軒にもな」
「では、広まっていたのですね」
「広まっとった。だが、持ち主はばらばらだった」
老人の目が細くなった。
「規則が変わった日、街の役人が家々を回った。『この灯りは基準に合わん。差し出せ』とな。断った者は罰金だ。銀貨三枚の罰金だ。誰が払う? 誰も払わん。みんな出した」
ルカの喉が、渇いた。
「三日で、街から灯りが消えた」
ヴェントは言った。
「工房は何もできんかった。売った品は、もう自分の物ではないからな。守る資格がなかった」
「その家は」
「潰れた。誰も助けんかった」
老人は言った。
「助ける理由がなかったんだ。街の連中にとって、あれは『灯りを買った店』でしかない。灯りが取り上げられたら、それで終わりだ。誰の懐も痛まん」
彼はルカを見た。
「一軒だから潰せた」
その夜、ルカは店を開けなかった。
二階の部屋で、板の前に座り、炭を持ったまま、何も書かずにいた。
貸す。それは決まった。
だが、半年で金貨八十枚は、どこからも出てこない。
再生品と目利きで、月に金貨八枚。半年で四十八枚。灯りを全部売っても三枚。合わせて五十一枚。
足りない、二十九枚。
もっと働く。それは無理だった。すでに三刻しか寝ていない。人を増やす? 増やせば給金が出ていく。値を上げる? 上げれば客が減る。
ルカは炭を置いた。
稼いで届く額ではない。
そう認めた瞬間、頭のどこかが、別の方向へ動いた。
——稼げないなら、借りればいい。
彼は帳面を引き寄せた。
イルマたちが月々払っている記録。十二人が、月に銀貨二枚ずつ。
もしこれが貸出契約なら、この二枚は九か月で終わらない。十年続く。二十年続く。
契約が百件あれば、月に銀貨二百枚。年に金貨二十四枚。
その流れは、まだ手元にない金だ。だが、確実に来る金だ。
確実に来る金を担保にいま借りる。
ルカは炭を走らせた。数字が並んでいく。呼吸が速くなった。
そして、止まった。
貸してくれる者が、いない。
この街の金貸しは、六軒。全部が連合の傘の下だった。金貨八十枚を動かせる商人は二十数人で、全員がヴァレンティを理事に戴いている。
彼は炭を置き、頭を抱えた。
一軒の大きな相手から借りる。それしか思いつかない。
そして、その一軒に断られたら、終わりだ。一軒だから、潰せた。
ヴェントの声が、耳の奥で鳴った。
ルカは、顔を上げた。心臓が、一度、強く打った。
一軒から八十枚を借りようとするから、駄目なのだ。
翌日の夕方、ルカはイルマの家の戸を叩いた。
老女は白い灯りの下で、記録院の写しを繰っていた。三月かけて、地下の棚の目録まで辿り着いていた。
「小僧かい。まだ中身は見られてないよ」
「今日は別の用です」
ルカは、帳場から持ってきた帳面を開いた。
「イルマさん。貯めている金は、いくらありますか」
老女の手が、止まった。
「……藪から棒だね」
「答えたくなければ結構です」
「銀貨で、四十枚ほどかね」イルマは肩をすくめた。「壺に入れて、床下だよ。三十年働いて、それだけさ」
「その四十枚は、増えていますか」
「増えるもんかい。減る一方だよ」
「では、うちに貸してください」
老女が、ゆっくりと顔を上げた。
「あんた、婆さんの葬式代を取り上げる気かい」
「取り上げません。借ります」
ルカは帳面を回して見せた。
「うちはこれから、灯りを売らずに貸します。契約一件で、月に銀貨二枚。百件で、月に二百枚」
「まだ十二件だろう」
「はい。ですから、いま作るための金が要ります」
ルカは指を置いた。
「イルマさんが四十枚貸してくださったら、うちはその金で灯りを八台作ります。八台が毎月十六枚を生みます。そのうち、毎月銀貨一枚を、イルマさんにお返しします」
「四十枚貸して、月に一枚?」老女は眉を寄せた。「四十か月で戻るだけじゃないか」
「戻ったあとも、払い続けます」
イルマの手から、ペンが落ちた。
「……なんだって?」
「元は四十か月で返ります。その後も、うちが灯りを貸している限り、毎月一枚をお払いします」
ルカは言った。
「壺の中の四十枚は、三十年経っても四十枚です。うちに預ければ、三十年で三百六十枚になります」
老女は、口を開けたまま、動かなかった。
「そんな都合のいい話が」
「都合はよくありません。うちが潰れたら、一枚も返りません」
ルカはまっすぐに言った。
「そこは隠しません。四十枚が、明日ゼロになる話です」
イルマは、しばらく黙っていた。
それから、机の上の白い灯りを見た。三年ぶりに文字が見えた、あの夜からずっと、そこにある灯りを。
「……あんた、あたし一人に頼みに来たのかい」
「いいえ」
ルカは、帳面をめくった。
そこには、名前が並んでいた。イルマ、マルタ、ゴード、雲母切りの兄弟、記録院の同期たち。灯りを使っている十二人と、注文帳の四十七人。
「六十人に、少しずつ頼みます」ルカは言った。「一人から八十枚を借りれば、その一人に断られた時点で終わりです。それに——」
彼は、少し言い淀んだ。
「その一人が潰れたとき、 私のせいになります」
イルマが、目を細めた。
「父は、一人で全部を背負う判を押しました」ルカは言った。「だから潰れました。私は、たくさんの人に、少しずつ背負ってもらいます」
老女は、長いこと少年の顔を見ていた。
やがて、彼女は立ち上がり、部屋の隅の床板を、こつこつと踏んだ。
三枚目で、音が変わった。
「……四十枚だ」
イルマは言った。
「持っておいき」
「一枚も返らないかもしれません」
「聞いたよ」
老女は板を外し、埃だらけの壺を取り出した。それを両手で抱えて、ルカの前に置く。
「三年前にね」
彼女は言った。
「あたしは、この壺を葬式代だと思ってた。目が見えなくなって、仕事がなくなって、あとは死ぬだけだと思ってたからね」
壺の蓋を開ける。
白い光の下で、銀貨が鈍く光った。
「いまは、生きてる分の金だよ」
イルマは言った。
「生きてる金は、使わなきゃ嘘だろう」




