第6話 揺れない光
売る物が一つしかないというのは、売れないのと同じだった。
ルカはそれを、三日目の朝に理解した。
灯りは一台しかない。売ってしまえば、次の客に見せる物がなくなる。見せずに売れる品ではない。つまり、この一台は売ってはいけない。
ならば何を売るのか。
「注文を取ります」
ドーラの店の帳場で、ルカは言った。
「見本を見せて、注文をもらって、前金で材料を買って、作って納める」
「前金ねえ」
ドーラは腕を組んだ。
「あんた、その前金を持ち逃げしない保証が、どこにある?」
「ありません」
「そらごらん」
「ですから、注文を取るのは私の名では無理です」
ルカは顔を上げた。
「ドーラさんの店の品として売らせてください。私は仕入れ職人という扱いで結構です」
女は帳場に肘をつき、しばらく少年を睨んでいた。
「うちの看板を貸せと」
「はい」
「うちが潰れたら、あんたのせいだ」
「はい」
ドーラは深く息を吐いた。それから、帳場の下から古い木札を出して、ルカの前に置いた。店の名を焼いた、露天商用の下げ札だった。
「持ってきな。……あたしの亭主も、こういうことを言う小僧を拾ってきたよ。それがあたしだったんだけどね」
職人街は、上市の裏側にある。
大通りから一本入ると、看板が消える。かわりに、扉の脇に小さな木札が下がっている。刃物研ぎ、革締め、金線引き、雲母切り。名乗るのは屋号ではなく、仕事の名だ。
ルカは布に包んだ灯りを抱えて、その通りを歩いた。
一軒目。扉を叩き、用件を言い終わる前に閉められた。物売りお断りの札が出ていた。
二軒目。中年の男が出てきて、ルカの話を三行だけ聞いた。
「魔道具は上市で買う。おたくは何屋だ」
ドーラの札を見せると、鼻を鳴らされた。
「あそこか。潰れかけだろう」
三軒目。ここでは、初めて中に入れた。
革職人の作業場で、ルカは布を解き、留め具を回した。
白い光が、床に落ちた。
職人は、後ずさった。
「消せ」
「これは——」
「消せと言った!」
男は棚から布を掴んで、灯りの上に投げた。光が布越しに滲んで消える。彼は自分の掌を見て、それから吐き捨てるように言った。
「爪の色が死人だ。そんな光を仕事場に置けるか」
四軒目、五軒目も同じだった。
見せれば見せるほど、悪い評判だけが先に走った。六軒目では、扉を開けた男がこう言った。
「白い灯りの小僧か。噂は聞いた。帰れ」
七軒目で、ルカは別の躓き方をした。
金線引きの老人が、光を見て、目を細めた。恐れなかった。手元の細い針金を光の下に持ってきて、しばらく眺めた。
「……ほう」
ルカの心臓が跳ねた。
「これは、揺れんな」
「はい。魔石灯は炎の名残で明滅しますが、この陣は」
「いくらだ」
言葉が、止まった。
老人は顔を上げて、待っていた。
ルカは口を開き、そして閉じた。
値を、決めていなかった。
材料をいくらで集めたかは知っている。銀貨十一枚と、四十日と、七人の子供。だがそれは原価だ。原価は値段ではない。
言い淀んだのは、ほんの二呼吸だった。それで充分だった。
老人の顔から、興味が引いた。
「決まっとらんのか」
「……申し訳ありません」
「小僧」
老人は針金を置いた。
「値の言えん物は、まだ売り物じゃない」
扉が閉まった。
ルカは通りに立ち尽くした。日が傾いて、職人街の窓に一つずつ蝋燭が灯りはじめている。魔石灯は、この通りにはほとんどなかった。
値の言えん物は、売り物じゃない。
その通りだった。父も同じことを言ったはずだ。
「原価で決めるんじゃないよ」
ドーラは、帳場で豆を選りながら言った。
「原価で決めるのは、同じ物が他にもあるときだ。似た品が並んどるから、少し安くする。あんたのは、比べる物がないだろう」
「はい」
「じゃあ、何と比べる」
ルカは黙った。
ヴェントが、壁際から口を挟んだ。
「魔石代だろう。上市の店は、灯り一つに月銀貨十枚は焚いとる。それが要らなくなるなら」
「駄目です」
ルカは首を振った。
「職人街の人たちは、そもそも魔石を買っていません。買えないから、日が暮れたら仕事をやめている」
言いながら、彼は気づいた。
指先が、冷たくなった。
「……やめて、いるんです」
ドーラが手を止めた。
「あの人たちは、冬は一日に五刻しか働けません。夏でも八刻です。日が沈めば、細かい仕事はできない。針も、線も、字も見えない」
ルカは早口になっていた。
「もし夜も働けたら、仕事の量は倍になります。倍にはならなくても、一割五分は増える」
「それで」
「比べる相手は、灯りじゃありません」
ルカは顔を上げた。
「その人が、いままで諦めていた時間です」
店の中が、静かになった。
ドーラが、ゆっくりと豆を置いた。
「……あんた、いくつだって?」
「十五です」
「亭主が生きてたら、あんたを引き取ってたね」
女は笑った。
「で、いくらにする」
ルカは炭を取り、板に数字を書いた。
「金線引きの職人が、一月に稼ぐのは銀貨三十枚ほどだそうです。夜が使えて一割五分増えれば、月に四枚半。年で五十四枚」
「じゃあ五十枚で売るのかい」
「いいえ。銀貨十八枚です」
「安すぎるだろう!」
「四か月で元が取れる値です」
ルカは言った。
「一年かかる買い物は、職人は決断できません。四か月なら、決断できます」
彼は炭を置いた。
「それに、いまは高く売る時期じゃありません。この灯りには、まだ使っている人がいない。使っている人がいない品は、いくら安くても売れない。一台目は、値ではなく、証人を買うつもりで売ります」
八軒目は、通りの一番奥にあった。
木札に何も書かれていない家だった。ネルが調べてきた三人目——記録院の写本師を、目のせいで辞めた女。
イルマという老女が扉を開けた。六十をいくつか越えている。前掛けに墨の染みが幾重にも重なっていた。
「物売りは間に合ってるよ」
「灯りを、見ていただけませんか」
「灯りなら足りてる」
イルマの背後、部屋の奥が見えた。
机の上に、蝋燭が三本立っていた。三本とも短くなり、蝋が机に流れて固まっている。そのすぐ手前に、開いた本と、紙。そして、紙に顔を近づけすぎている姿勢の跡が、椅子の位置に残っていた。
「五刻で、何行書けますか」
老女の手が、扉の縁で止まった。
「……何だって」
「日が沈むまでに、何行書けますか」ルカは言った。「あなたが記録院にいた頃は、一日に何行でしたか」
イルマは答えなかった。
長い沈黙のあと、彼女は扉を大きく開けた。
「……入りな」
ルカは机の脇に灯りを置き、留め具を回した。
部屋が、白くなった。
イルマは動かなかった。蝋燭の三本が、急に色を失って見えた。
老女は、机の上の紙を見た。
さっきまで、その紙は灰色だった。滲んだ墨と、影と、揺れる炎の作る細かな縞が重なって、文字は輪郭を溶かしていた。
いま、紙は白かった。
一本一本の繊維が見えた。羽根ペンの先が紙に触れた点の、その滲みの縁まで見えた。
イルマは、椅子に座った。
震える手でペンを取り、インクに浸し、紙の上に置いた。
一行、書いた。
そして、その一行を見つめたまま、動かなくなった。
「……三年」
彼女は言った。
「三年、この文字が見えなかった」
肩が上下していた。ルカは何も言わなかった。
やがて老女は、袖で乱暴に目を拭って、顔を上げた。
「いくらだい」
「銀貨十八枚です」
「無理だね」
イルマはあっさりと言った。
「今日の食いぶちで精一杯だよ」
ルカは、頷いた。
「では、こうしましょう。今日、これを置いていきます。代金は要りません」
「……何だって」
「来月から、月に銀貨二枚ずつ、九か月払ってください」
老女が目を見開いた。
「あんた、正気かい。あたしが払わずに逃げたらどうする」
「逃げませんよ」
「なぜ言い切れる」
ルカは、机の上の灯りを見た。
「逃げたら、この灯りを返さなければならないからです」
イルマは、しばらくルカの顔を見つめていた。
それから、声を上げて笑った。掠れた、長い笑いだった。
「たちが悪いね、あんた」
「よく言われます」
帰り際、扉の前でイルマが言った。
「白い光を、気味が悪いと言われたろう」
「六軒で」
「言うだろうさ」
老女は肩をすくめた。
「あの人たちはね、揺れる光を温かいって言うんだよ。炎に似てるから。家に置くならそれでいい」
彼女は振り返って、机の上の白い灯を見た。
「けどね。あたしらにとっちゃ、揺れる光は敵なんだ」
ルカは、動かなかった。
「字が揺れる。線が揺れる。手元が揺れる。それを二十年見てきたから、目がやられた」
イルマは言った。
「揺れない光ってのはね、小僧。あたしらが一生かかっても手に入らなかったものだよ」
胸の奥が、熱くなった。
同じ物だ。まったく同じ、白く冷たい、呼吸をしない光。
それが片方では死人の色と呼ばれ、片方では一生の望みと呼ばれる。
物は変わらない。変わるのは、誰の前に置くかだけだ。
「イルマさん」
ルカは言った。
「同じような方を、ご存じありませんか」
老女は、少し考えた。
「彫金の女が一人。雲母切りが二人。刃物研ぎの爺さんが一人。あと、記録院の同期で、いまは目を悪くして写しをやめたのが……六人かね」
ルカの喉が鳴った。
「十人です」
「ああ、十人だ」
礼を言って、彼は通りを歩き出した。
歩きながら、頭の中で数が並んでいく。銀貨十八枚が十人で、百八十枚。金貨に直して一枚と八十枚。
そして、その次の数を並べたところで、足が止まった。
十台分のアルヴァ鋼。
一台分を集めるのに、四十日と、百十四袋と、七人の子供がかかった。
十台なら、四百日。
ルカは夜空を見上げた。妹の期限まで、あと一年と七か月。
初めての注文が十件入った、その日のうちに、彼は次の壁にぶつかっていた。
作れない。




