第5話 白い灯
「作るには、三つ足りません」
製粉小屋の二階、板の上に炭で書きながら、ルカは言った。ヴェントは壁にもたれて座っている。ひと月前まで橋の下にいた老人は、いまここで寝起きしていた。移るのに七回通った。
「一つ、材料。二つ、刻む手。三つ、売る先です」
「三つ目は、まだ先の話だろう」
「いいえ。三つ目から考えます」
ルカは炭を置いた。
「売る先を決めずに作った物は、必ず余ります。父の商会が最後に潰れたのは、売れると思って仕入れた在庫を抱えたからです」
老人は黙った。それから、低く笑った。
「エイムの倅だな」
「順番は逆にしましたが」
「そこが違うんだ」
材料から始めた。
古代の陣を刻める金属は、限られている。
普通の鉄では駄目だった。この陣は力を外へ流さず、内側で回し続ける。流れ続ける魔力に晒された金属は、少しずつ歪む。半年で線がずれ、一年で陣が死ぬ。
耐えられるのは、アルヴァ鋼だけだ。
そして、カルディアでアルヴァ鋼を扱う商会は三つしかない。三つとも、ヴァレンティの息がかかっている。
「買えません」ルカは言った。
「私の名で注文を出せば、その日のうちに向こうに伝わります」
「なら詰みだ」
「拾います」
ヴェントが顔を上げた。
「アルヴァ鋼は百年前から魔道具の心臓に使われてきました。ということは、百年分の壊れた魔道具の中に、アルヴァ鋼が入っている」
ルカは筒を指した。
「一番最初にこれを見つけたとき、私は下市で、鉄くずの箱からアルヴァ鋼の欠片を一つ拾いました。銅貨四枚の箱の中からです」
「一つでは足りん」
「集めます」
ネルは、話を三度聞き返した。
「金物なら、何でもいいの?」
「何でもいい。錆びてても、曲がってても、焦げてても」ルカは麻袋を渡した。「量りで買う。一袋いっぱいで銅貨二枚だ」
「中身、見なくていいの?」
「見るのは俺がやる。お前たちは集めるだけでいい」
ネルは疑わしそうな顔をした。「……そんなの、屑しか入ってないよ」
「屑でいい」ルカは言った。「屑の中に一つあればいい。それを探すのが俺の仕事だ」
一週間で、七人が集まった。
ネルが仕切った。誰がどの通りを回るか、廃品商の裏の山にいつ入るか、どの屋敷が取り壊されるか。あの娘は本当に、この街の下側の地図を頭の中に持っていた。
集まった袋は、二十日で百十四袋。ルカが払った銅貨は二百二十八枚——銀貨に直して二枚と少し。
そして、その中から取れたアルヴァ鋼は、掌に載る量だった。
「これだけか」
ヴェントが呻いた。
「筒の陣を刻むには、板が一枚あればいい」
ルカは細かい欠片を並べた。
「鍛冶場を借りて、溶かして、一枚に打ち直します」
一番大きな問題は、そこで銀貨が七枚飛んだことだった。
坂下の老職人は、金は取ったが、何も訊かなかった。ただ打ち上がった板を渡すとき、一言だけ言った。
「妙な板だな。何に使う」
「まだ言えません」
「そうか」老職人は頷いた。
「なら、言えるようになったら来い」
二つ目の壁は、動かなかった。
ヴェントは板を前にして、針を持ち上げ、そして下ろした。
「無理だ」
「一度もやらずにですか」
「やる前からわかっとる」
老人は両手を突き出した。震えは、ひと月前と何も変わっていない。
「線は途切れさせてはいかん。一本を、息を止めて端から端まで引く。途中で震えたらそこで死ぬ。板が一枚しかないならなおさらだ」
ルカは板を見た。
そして、自分の手を見た。
「私がやります」
老人は目を細めた。
「刻んだことがあるのか」
「ありません」
「じゃあ何ができる」
「見えます」
ルカは、三日で銅板を九枚潰した。十枚目を潰したとき、指の腹の皮が剥けて、針を持つと血が滲むようになった。線が引けないのではない。引ける。まっすぐにも引ける。
だが、ヴェントが横から覗いて、そのたびに首を振った。
「浅い」
「引き直します」
「一度引いた溝を引き直したら、そこだけ深さが変わる。もう死んどる」
「ではもう一枚」
「板がないだろうが!」
老人が怒鳴った。ルカは針を握ったまま、動かなかった。夜になって、ヴェントは低い声で言った。
「小僧。陣師は十年かかる。わしは八つから針を持って、一人前と言われたのが二十二だ。お前の目がどれだけ利こうが、手は十五年分しかない」
「わかっています」
「わかっとらん」
「わかっています」
ルカは繰り返した。
「ですから、あなたに刻んでもらいます」
「震えると言っとるだろう」
「震えたら、私が言います」
老人が、ぴたりと黙った。
ルカは顔を上げた。目の下に隈ができていた。四日ろくに寝ていない。
「ヴェントさん。さっき、私の線を見て『浅い』と言いましたね。引き終わったあとに」
「……ああ」
「あなたは、自分が刻んでいる最中に、狂ったかどうかがわからないんじゃありませんか」
老人の喉が、動いた。
「手が震える人が困るのは、震えることじゃない。震えたことに気づけないことです」
ルカは言った。
「引き終わって、初めて狂いがわかる。だからもう手遅れで、だから怖くて、だから針が持てない。違いますか」
橋の下でひと月、この老人が同じ線を何千回もなぞっていたのを、ルカは思い出していた。
覚えるためではなかったのかもしれない。
「私は、線の途中で見えます」
ルカは言った。
「引いている最中に、そこが狂ったかどうかがわかる。私が『止まれ』と言ったら、止まってください。それだけです」
ヴェントは、動かなかった。
長い時間、老人は自分の両手を見つめていた。震えている指を、まるで他人のもののように。
やがて、彼は言った。
「……もう一枚、板を作れるか」
「いいえ」ルカは首を振った。「これが最後です」
「金は」
「銀貨が四枚。今月の飯代です」
老人は、乾いた笑いを漏らした。
「保証人が趣味の一家だな、お前のところは」
「よく言われます」
刻みは、翌日の夜明けから始まった。
窓の隙間を布で塞ぎ、床を掃き、板を固定する。ルカが横に座り、板の面すれすれに目を近づける。
ヴェントが針を持った。震えていた。
「息を吐いてください」
ルカが言った。
「吸うときに一番揺れます」
老人は目を閉じ、細く息を吐いた。そして針を下ろした。
線が、動きはじめた。
ルカは瞬きを忘れた。針の先ではなく、その後ろに残る溝を見る。深さ、幅、縁の立ち方。ほんのわずかでも力が逃げれば、そこだけ溝の縁が丸くなる。
「止まって」
針が止まった。
「……どこだ」
「いま引いた分の、後ろ三分の一。少しだけ浅い。同じ角度で、もう一度なぞってください」
「なぞったら段が」
「段は出ません。まだ浅いだけです。深さを揃えるなら間に合います」
老人の手が、震えながら戻った。そして、また動きはじめた。
昼を過ぎ、日が傾き、また昇った。
一本の線を引くのに一刻かかることもあった。ルカは十四回「止まれ」と言い、ヴェントは十四回止まった。二人とも一言も余計なことを言わなかった。
二日目の夕方、外周の線が閉じた。
針が板を離れた。
ヴェントは針を置き、両手を膝に落とした。そして、そのまま動かなくなった。
ルカは板を持ち上げ、窓の残光にかざした。
円。折り返し。外へ抜けない輪。
「ヴェントさん」
「……」
「狂っていません。一箇所も」
老人は答えなかった。俯いたまま、肩が小さく震えていた。震えているのが手だけではないことに、ルカは気づかないふりをした。
夜、ネルとトトを呼んだ。
「なに、灯りをつけるだけ?」
ネルは不服そうだった。
「呼び出しといて、それだけ?」
「それだけだ」
ルカは筒の抜け殻に板を収め、留め具を締めた。硝子は、割れた枠に薄い雲母を張って代用した。
そして、魔石を入れる。
米粒ほどの欠片だった。上市の店で使われる魔石は、親指の先ほどの塊で三日もつ。それが標準だった。
ルカが入れたのは、その塊を砕いて出た粉に近い破片だ。普通の魔道具なら、灯る前に消える量である。
「点きませんよそれ」トトが言った。
ルカは留め具を回した。
小屋の中が、白くなった。
誰も声を出さなかった。
光は、揺れなかった。
魔石灯の橙色は、生き物のように明滅する。呼吸をしている。炎の名残だ。だからみな、それを見て安心する。
この光は、呼吸をしていなかった。
白く、冷たく、まっすぐに、床の埃の一粒までを浮かび上がらせた。壁の染み、ヴェントの襤褸の縫い目、ネルの腕についた擦り傷、トトの前歯の欠け。何もかもが、隠れる場所を失って、そこにあった。
トトが、ルカの背中に隠れた。
ネルは一歩も動かず、その光を見つめていた。それから、腕をさすった。
「……なにこれ」
彼女は、ぽつりと言った。
「気持ち悪い」
ルカは何も言えなかった。
四十日かけて集めた金物。溶かして打った一枚の板。二日の刻み。銀貨十一枚と、老人の手と、七人の子供。
そのすべてが、いま、白く灯っている。
そして、最初に見た人間が、目を逸らした。
ヴェントの声が、背後から聞こえた。
「言ったろう」
老人は、光の中で目を細めていた。
「これは、こういう灯りだ。百年前も、そうだった」
「……売れませんね」
「ああ」
ルカは板の上の光を見つめた。
胸の中に、重たいものが落ちていく。だが、その奥で、頭の一部だけが冷たく動きはじめていた。
売れない、のではない。
誰に売るかを、まだ間違えているだけだ。
この光を気持ち悪いと思わない人間が、この街のどこかにいる。埃の一粒まで見えることを、恐れではなく救いだと思う人間が。
「ネル」
ルカは言った。
「頼みがある」
「なに」
「この街で、夜、目を悪くして仕事を辞めた職人を探してくれ」
娘は眉を寄せた。
「なんでそんな人を」
ルカは、白い灯に手をかざした。
影が、輪郭を失わずに、まっすぐ床に落ちた。
「その人たちが、最初の客だ」




