第4話 己を担保に
ヴェントを動かすには、こちらに何かがなければならない。
橋の下からの帰り道、ルカはそう結論した。
震える手の老人に、いま彼が差し出せるものは何もない。筒を一本と、寝床が一つと、明日の飯の当てがない少年。そんな人間に「手を貸してください」と言われて動く者がいるとしたら、それは相手が善人だからだ。
父はそれで潰れた。だから、まず稼ぐ。工房を借りられるだけの、材料を買えるだけの、そして老人が「この小僧なら」と思うだけの何かを。
問題は、その稼ぎ方だった。
いまのやり方——下市で買って上市で売る——は、確かに五十倍になる。だが元手が銅貨数枚では、五十倍にしても銀貨二枚だ。元手を増やすには稼ぐしかなく、稼ぐには元手が要る。
輪だ、とルカは思った。外に抜けない輪。あの陣と同じだ。輪を破るには、元手の要らない商売を見つけるしかない。 在庫を持たず、仕入れをせず、それでも金になるもの。
ルカが持っているのは、この目だけだった。
ならば、目を売ればいい。
三日かけて、ルカは上市の場末を歩いた。
大通りには近づかない。狙うのは、看板の塗りが剥げ、店先の魔石灯が一つしか灯っていない店だ。傾いている店は、傾いている理由がある。理由があるということは、直す余地があるということだった。
四日目、川沿いの細い路地で、彼は足を止めた。
「ドーラ魔道具店」。間口二間。中古の魔道具を並べた店で、店先の籠に、湯沸かしの魔道具が三つ、無造作に転がっている。
ルカの目には、三つとも贋物に見えた。
正確には、外側だけが本物で、中の陣が別物だった。中身を抜いて安物にすり替えられている。素人には見分けがつかない。
暖簾をくぐると、四十がらみの女が帳場で頬杖をついていた。目の下に濃い隈がある。
「見るだけなら、そこの籠にしとくれ」
「その籠の三つは、中身が違います」
女の頬杖が外れた。
「……何だって」
「外側はミルド工房の湯沸かしですが、中の陣は南の量産品です。ひと月で焼き切れます」ルカは籠を指した。
「仕入れたのは先月ですか」
女は立ち上がった。椅子が倒れた。
「あんた、誰だい」
「ルカといいます」
ルカは頭を下げた。
「仕事をもらいに来ました」
ドーラという女は、二年前に夫を亡くして店を継いだ。夫は目利きだったが、彼女はそうではなかった。それを知っている仲買人が、この二年、彼女に何を売ってきたか——籠の中身がすべてを語っていた。
「あんたの言うことが本当なら」
ドーラは籠の一つを掴んで、床に叩きつけた。ガラスが割れ、中から歪んだ陣板が転がり出た。彼女は膝をついて、それを見つめた。
「……本当なんだね」
「仕入れの前に、私に見せてください」ルカは言った。
「一つ一つ、中身を確かめます」
「鑑定料はいくらだい。うちに払える金はないよ」
「要りません」
ドーラが顔を上げた。
「ただ働きかい。なぜ」
「ただ働きではありません。売れた分の一割をください」ルカは続けた。
「売れなければ一枚も要りません。そして——私が本物だと言った品が贋物だったら、その仕入れ値を、私が全額弁償します」
店の中が、静かになった。
ドーラは目を細めて、少年の顔を見た。痩せた頬、袖の合わない外套、擦り切れた靴。
「小僧」彼女は言った。
「あんた、何を弁償できるんだい。一枚も持ってないだろう」
「はい。一枚も持っていません」
「じゃあ、その保証に何の意味がある」
ルカは、少しだけ間を置いた。
胸の奥で、何かが軋んだ。保証。保証人。父が判を押した紙。屋敷を売った日の、母の背中。
だが、彼はまっすぐに顔を上げた。
「意味はあります」
「言ってみな」
「払えない人間が保証したということは、間違えるわけにいかないということです」ルカは言った。
「一度でも外せば、私は終わりです。ですから外しません」
ドーラは長いこと黙っていた。
やがて、床に転がった陣板を拾い上げ、埃を払って帳場に置いた。
「明後日、仲買が来る。……見てもらおうか」
仲買人のバルサは、樽のような体をした男だった。
荷車から木箱を下ろし、店の床に中古の魔道具を並べていく。全部で二十点あまり。並べ終えると、彼は帳面を開いた。
「今回はいい品が揃った。全部で銀貨四十だ。まとめてなら三十五にしてやる」
「一つずつ見せてもらうよ」
ドーラが言った。
バルサの眉が上がった。
「どうしたんだ、急に。いつも通りでいいだろう」
「うちの、見立て役だ」
ドーラが顎で示した先に、ルカが立っていた。
バルサはルカを見て、笑った。腹の底から笑った。
「小僧が? ドーラさん、あんたついに焼きが回ったな」
ルカは何も言わず、床に膝をついた。
一点ずつ、手に取っていく。
持ち上げ、重さを見る。裏返す。硝子越しに陣を覗く。そして、置く。右か、左か。
七つ目まで、すべて左に置いた。
「左は何だい」
ドーラが訊いた。
「買わないほうがいい品です」ルカは八つ目を手に取った。
「一番目、中身が別物。二番目、陣に罅。三番目、これは本物ですが、この街では売れません。北方の暖房具で、カルディアで使う人がいない」
バルサの笑いが止まっていた。
「四番目、五番目、六番目は、同じ工房の同じ型です。三つ並べて売ると、値が崩れます。買うなら一つで充分です」
「小僧」
バルサの声が低くなった。
「口を挟むな」
ルカは手を止めなかった。
十九点を見終えて、右に置かれたのは四つだけだった。
そして、最後の一つ。
ルカはそれを持ち上げて、動きを止めた。
古い携帯用の焜炉だった。取っ手が焼け、底が黒い。そして裏に、小さく銘が刻まれている。ミルド工房の三日月印。
「それは冗談だ」
バルサが吐き捨てるように言った。
「ミルドの銘なんぞ、そこらの露店で十枚売っとる。贋物と分かってるから箱に入れといたんだ。屑鉄と一緒に持って帰る」
ルカは焜炉を見つめたまま、言った。
「これは、買ってください」
店の中の空気が変わった。
ドーラが息を呑む。バルサが一歩前に出た。
「聞こえなかったか。贋物だと言ったんだ」
「銘は贋物です」
「今、自分で言ったな」
「銘は贋物です」
ルカは繰り返した。
「ですが、中身は本物です。それも、ミルドより古い」
彼は焜炉を裏返し、底の縁を指した。
「ここに継ぎ目がありません。いまの工法では、必ず二枚を合わせて底を作ります。これは一枚の金属を叩き出して作られている。三十年前に廃れた作り方です。そして中の陣は——」
ルカは硝子越しに覗き、そして顔を上げた。
「無銘です。刻んだ職人が、名を入れていない。腕のいい職人ほど、昔は名を入れませんでした」
「だったらなぜ、ミルドの銘が入っとる」
「後から誰かが足したからです」
ルカは、まっすぐバルサを見た。
「順序が逆なんです。銘が贋物だから中身も贋物だと皆さんは考える。違います。中身が良すぎたから、後の誰かが売りやすい銘を足した。売った人間は、自分が何を持っていたかわかっていなかった」
長い沈黙があった。
バルサの額に、汗が浮いていた。
「……仮に、だ」
男は唸るように言った。
「仮に外れてたら、どうする気だ」
「弁償します」
「いくらだ」
「言い値で」
「小僧、俺はな」
バルサが凄んだ。
「その言葉を吐いた人間を、これまで何人も潰してきたんだ」
ルカは、逃げなかった。
「では、私で何人目になるか、確かめてください」
四日後。
ドーラの店の帳場で、女は銀貨を数えていた。
四つの魔道具は三日で売れた。そして例の焜炉は、上市の料理人が銀貨十二枚で買っていった。古い一枚打ちの焜炉は火の当たりが柔らかいと職人は言ったという。
仕入れ値は、銅貨五枚だった。
「二百四十倍だよ」
ドーラが呆れたように言った。
「あたしゃ二年、何を見てたんだろうね」
彼女はルカの前に銀貨を三枚置いた。売上の一割に、少し色をつけた額だった。
「毎月来とくれ。バルサだけじゃない、他の卸も見てほしい」
「はい」
「それと」
ドーラは声を落とした。
「気をつけな。バルサはヴァレンティの息がかかった卸だ。あの男が今日、店を出るときの顔を見たかい」
ルカは頷いた。見ていた。
帰り道、彼は歩きながら数えた。
銀貨三枚。この一月で、目利き代行の稼ぎが銀貨十四枚。
残債、金貨五百枚。銀貨に直して五万枚。
残り、四万九千九百八十六枚。
一枚も減った気がしない。それでも、六十八年が六十七年になったときとは、何かが違っていた。
これは、拾った金ではない。
仕組みで得た金だ。
ヴェントのところへは、四日に一度、通っていた。
何も頼まなかった。座って、その日にあったことを話す。何を見立てたか、いくらになったか、どこで断られたか。老人は返事をしない。ルカが話し終えると、また針を動かしはじめる。ルカは銅板を一枚買って、銅貨を置いて、帰る。
それだけを、ひと月続けた。
その次に行ったとき、ルカの左手には布が巻かれていた。
前の晩、下市からの帰りに、三人の男に囲まれた。顔は見なかった。用件は簡単だった。目利きをやめろ。腕を折られなかったのは、まだ警告の段階だからだろう。指の付け根が腫れて、物が持てなかった。
ルカはいつものように橋桁の陰に座り、いつものように話した。
「昨日、三軒目の話が来ました。ドーラさんが紹介してくださって——」
「手を出せ」
老人の声だった。
ルカは顔を上げた。ヴェントが、初めてこちらを正面から見ていた。
「その手だ。出せ」
差し出した左手を、老人は震える両手で受け取った。布を解き、腫れを見て、指を一本ずつ確かめた。
その手つきは、驚くほど正確だった。震えていても、動きは職人のそれだった。
「折れとらん。腱もやられとらんな」
「はい」
「やめる気は?」
「ありません」
老人は布を巻き直した。それから、ルカの手を離さずに、しばらく黙っていた。
やがて、言った。
「小僧。わしはな、この手をやられたとき、やめた」
ルカは何も言わなかった。
「一人で立っとった。庇うものが何もなかった。だから、やめても誰も困らんかった」
老人は、ようやく手を離した。
「お前はもう、困る人間を三人抱えとる。ドーラという女と、あの小娘と、それから牢におる二人だ」
「四人です」ルカは言った。
「妹がいます」
ヴェントは、ふっと息を吐いた。笑いに似ていた。
老人は膝の上の銅板を裏返し、いつもの陣を——ルカがひと月見続けてきたあの円を——指でなぞった。
「これが何か、教えてやる」
心臓が鳴った。
「灯りだ」
ルカは、息を止めた。
「ただの灯りだ」ヴェントは続けた。
「だがな、小僧。この陣は、魔石をほとんど食わん」
橋の下を、川の音が流れていく。ルカの頭の中で、この街のすべてが音を立てて組み変わりはじめた。
上市を照らす橙色の灯。三日で銀貨一枚が消える魔石。カルディアの富の源。それを一手に握っている商会の名。
そして——暗い下市。蝋燭一本の下で、誰も自分が何を売っているのか知らないまま、値をつけられていく人々。
「ヴェントさん」
ルカは掠れた声で言った。
「なぜ、これは失われたんですか」
老人は答えなかった。代わりに、こう言った。
「その質問を、二度と人前でするな」




