第3話 読める男
橋の下には、街の音が落ちてこない。
カルディアを東西に割る川は、この辺りで幅を広げ、流れを緩める。石橋の橋桁が三本、水の中に足を突っ込んで立っていて、その根元に、水が運んできた物と人が溜まる。
ネルは慣れた足取りで斜面を下りながら、後ろを振り返った。
「言っとくけど、返事しないからね」
「聞いた」
「三回言ったよ」
「聞いた」
一番奥の橋桁の陰に、その男はいた。
痩せた老人だった。膝を立てて座り、川面を見ている。着ている物は襤褸だが、妙に清潔だった。何より、目の前に椀が置かれていない。
物乞いではない、とルカは思った。座っているだけの人間だ。
そして、その手元を見て、足が止まった。
老人は、掌ほどの銅板を膝に載せていた。右手に細い針を持ち、板の表面を、ゆっくりと、繰り返し引っ掻いている。
意味のない落書きではなかった。
線は円を描き、円の内側でもう一度折り返し、外へは出ずに戻ってくる。
ルカは息を詰めた。同じ形を、昨夜からずっと見ている。
「じいさん」
ネルが声を張った。
「客だよ」
老人は顔を上げなかった。針の動きも止まらない。
ルカは三歩手前で膝を折り地面に座った。立ったまま話しかけるのは違う気がした。
「ヴェントさん」
針がわずかに止まった。それだけだった。
「クレイン商会の、ルカです」
今度は止まらなかった。老人は同じ速度で線を引き続けている。だが、ルカは見ていた。針の先が、一度だけ、溝を外した。
聞こえている。
ルカは背負っていた布包みを開き筒を取り出した。そして、老人の膝の前手を伸ばせば届く場所に静かに置いた。
老人の手から針が落ちた。
音を立てて針が石にぶつかった。
老人は動かなかった。目だけが、筒の上に落ちている。瞬きをしていなかった。喉が一度、大きく上下した。
そして、ルカははっきりと見た。
老人の視線が、筒の表面を、なぞった。左の端から入り、円を回り、折り返し、外周をたどって、最初の点に戻った。
順序があった。文字を目で追う人間の動きだった。
「読めるんですね」
老人は目を閉じた。
「川に捨てろ」
しゃがれた声だった。ネルが後ろで小さく息を呑む音がした。ルカは動かなかった。
「捨てません」
「捨てろと言っとる」
「なぜですか」
「読めん」老人は目を開けずに言った。
「わしには読めん。値打ちもわからん。帰れ」
ルカは黙って、老人の顔を見ていた。
嘘だ、とわかった。鑑定の目とは関係ない。ただ、いま目の前でこの人は陣を読んだ。順番通りに、迷いなく。三軒の魔道具商が誰一人できなかったことを、襤褸を着た老人が二呼吸でやってのけた。
「あなたは、いま読みました」
「気のせいだ」
「線を追う目の動きは、贋物を見る目の動きとは違います」
ルカは静かに言った。
「上市の店主は、みんな陣の真ん中しか見ませんでした。あなたは端から入って、外周で閉じました」
老人の口が、わずかに歪んだ。笑ったのかもしれない。
「……エイムの倅か」
「はい」
「似とらんな。あの男は、そんな喋り方をせんかった」
「父は人を信じました。私は、人を見ています」
沈黙が落ちた。川の音だけが、ゆっくりと流れていく。
やがて老人は、震える手を持ち上げた。
自分の目の前にかざす。左右とも、指先が細かく揺れていた。抑えようとして力を入れると、揺れはかえって大きくなった。まるで別の生き物のように、その手は言うことを聞かなかった。
「読めても、刻めん」
老人はそう言って、手を下ろした。
「陣は、髪の毛一本ずれれば力の流れが狂う。この手で彫った線は、狂った線だ。狂った陣を刻んだ魔道具は、いつか人を焼く」
「なぜ、そうなったんですか」
「昔の話だ」
ルカは、それ以上訊かなかった。訊いてはいけない気がした。
老人は、しばらく川を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「その陣を読んだ者は、みんな死んどる」
「呪いですか」
「呪いなら気楽なもんだ」
老人は初めてルカを見た。落ち窪んだ目の奥に、思いがけず強い光があった。
「呪いは相手を選ばん。人は選ぶ」
背筋が冷えた。
「誰が」
「知らんと言っとるだろう」
「いつの話ですか」
「知らん」
「ヴェントさん」
「知らんのだ、小僧!」
老人が初めて声を荒らげた。
「知らんことにしとるんだ、こっちは! それを掘り返す気なら、その筒を持って余所へ行け! お前の顔もお前の家名も、もう見たくない!」
ネルが袖を引いた。帰ろう、という合図だった。
ルカは動かなかった。
心臓が速く打っていた。だが同時に、頭のどこかは冷たく回り続けていた。
——この人は、知らないとは言っていない。知らないことにしていると言った。
——読めるが読まないと言い、刻めないと言い、しかしこの半年、毎日その陣を銅板に彫っている。
いま、この人に「教えてくれ」と頼めば、断られて終わりだ。断らせてしまえば、二度目はない。父が言っていた。断りの言葉を口に出させたら、その商談は死ぬ。人は自分が言ったことを守ろうとするからな。
ならば、頼む中身を変えればいい。
ルカは膝の埃を払い、姿勢を正した。
「わかりました。読んでくださらなくて結構です」
老人が、怪訝な顔をした。
「教えてくださらなくて結構です。刻んでくださらなくても結構です。ひとつだけ、答えてください」
ルカは筒を指した。
「これは、本物ですか」
老人の目が、揺れた。
長い間があった。川風が橋桁の間を抜けて、低く鳴った。
「……上市の連中に、贋物と言われたか」
「四人に」
「そうだろうな。あいつらは陣を三種類しか知らん」
老人は、震える手を膝に置いた。そして、川面から目を離さずに、言った。
「本物だ」
たった三文字だった。
ルカは、自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。半日歩いて、五軒回って、最高値が銅貨三枚だった物に、たったいま、値打ちの裏づけがついた。
売れる当てはまだ何もない。だが、贋物ではない。それは、無から一へ動いたということだった。
「ありがとうございます」
ルカは深く頭を下げた。
立ち上がりかけて、彼はもう一度腰を落とした。
老人の膝の上、彫りかけの銅板を指す。
「それ、売ってください」
老人が、ぽかんとした顔をした。
「……何を言っとる」
「その銅板です。買います」
ルカは懐から銅貨を一枚出した。
「一枚しか出せません。安いのはわかっています。ですが、屑を貰いに来たんじゃありません。買いに来ました」
老人は動かなかった。
ルカは銅貨を地面に置き、銅板をそっと取り上げた。老人は止めなかった。止めなかったが、その視線は、銅板を持つルカの手をずっと追っていた。
「また来ます」
「来るな」
「では、また来ます」
ルカは斜面を上りはじめた。後ろでネルが慌てて追ってくる。
橋の影から出たところで、ネルが横に並んだ。
「あんた、何なの。あの人、しゃべったじゃん」
「しゃべったな」
「なんで銅貨あげたの。あんな屑」
ルカは足を止め、懐から銅貨を十五枚数えて、ネルの手に載せた。
娘が目を丸くした。
「え、なんで。だってあたし、役に立ってないよ。あの人、教えてくれなかったんでしょ」
「約束したのは、案内してくれたらだ」
ルカは言った。
「役に立ったかどうかは、俺が決めることで、お前が値切ることじゃない」
ネルは銅貨を握りしめたまま、しばらく黙っていた。それから、ぶっきらぼうに言った。
「……明日も、何か調べようか」
「頼む」
製粉小屋の二階で、ルカは月明かりに銅板をかざした。
彫られた線を、指でなぞる。
円。折り返し。外へ抜けない輪。
そして、そこで彼は気づいた。
指が止まる。心臓が、一度、跳ねた。
彫りが、深い。
一度や二度なぞった程度の跡ではなかった。同じ線を、何百回、何千回と、繰り返し重ねてできた溝だ。板の表面はその線に沿って窪み、光を受けて鈍く沈んでいる。
ルカは筒を取り出し、並べて置いた。
筒の陣と、銅板の線は、寸分違わなかった。
見ながら写したのではない。老人は、あの筒を今日はじめて見たのだ。
覚えている。
何年も、何十年も、あの橋の下で、震える手で、同じ陣を彫り続けてきた。誰に見せるためでもなく、売るためでもなく。
忘れないために。




