第2話 値のつかない物
ルカのねぐらは、崩れた製粉小屋の二階だった。
床板が半分抜け落ちているおかげで、誰も上ってこない。風は吹き抜けるが、雨は北側の壁が防いでくれる。麻袋を三枚重ねて寝床にし、床板の隙間に貴重品を隠す。この半年で、彼が手に入れた「家」だ。
その夜、ルカは眠らなかった。
膝を抱えて座り、外套の下から筒を出しては、また戻す。それを何度も繰り返した。
月明かりでは陣は見えない。指で撫でると、彫りの浅い溝がわずかに指腹に触れる。それだけだ。だが目を閉じても、あの読めない線の運びが瞼の裏に残っていた。
いま街で刻まれている魔法陣は、どれも同じ作りをしている。中心に魔石を据える円があり、そこから放射状に力を配る線が伸び、外周で閉じる。噴水と同じだ。中央から汲み上げて、外へ流す。
この筒の陣は、そうではなかった。
線は輪を描いて戻ってくる。外へ流れ出るものがない。汲み上げるのではなく、回しているように見えた。
そんな組み方は見たことがない。
もし、と彼は思った。もしこれが、汲み上げずに済む陣だとしたら。
考えを最後まで進める前に、ルカは頭を振った。読めないものを勝手に読んではいけない。それは目利きではなく、思い込みだ。父ならそう言う。
まず、これが何なのかを知らねばならない。
そのためには、読める人間を探すしかない。
そして、その前に食わねばならなかった。懐に残っているのは銀貨二枚と銅貨が一枚。明日の仕入れに使えば、明後日の飯がない。
夜明け前の下市は、いつものように暗かった。
行商人たちは布を敷き、その脇に獣脂の蝋燭を一本立てる。魔石灯を持ち込める者はいない。三日で銀貨が一枚飛ぶような灯りを、銅貨で商う人間が買えるはずもなかった。
だから下市では、誰も品物をよく見ていない。
蝋燭の届く範囲だけがぼんやり明るく、その外は影だ。買う側は手で触り、重さを量り、勘で決める。売る側も、自分が何を売っているのか正確には知らない。
ルカにとって、この暗闇は都合がよかった。
彼の目に光は要らない。値打ちは光ではなく、物そのものに宿っているからだ。周りの人間が影の中で手探りしている間、ルカ一人が明るい部屋にいるようなものだった。
三本目の通りで、干し草を運んできた男の荷から、ルカは真鍮の錠前を見つけた。錆に埋もれているが、中身は南方の工房の品だ。銅貨二枚で買い、鍵屋に銅貨十五枚で売れる。
銅貨二枚を渡しながら、ルカはふと思った。
もし、いま、この通りが明るかったら。
売り手はこの錠前をよく見て、真鍮の地色に気づいたかもしれない。買い手も気づいたかもしれない。そうなれば、この錠前に銅貨二枚などという値はつかない。
——下市が安いのは、貧しいからではなく、暗いからだ。
そして自分は、その暗さで食っている。
錠前を懐に入れる手が、少しだけ遅くなった。
日が昇ってから、ルカは筒を売りに出た。
まず、上市の外れの骨董屋に入った。ここは組合の登録店ではあるが、雑多な物を扱うので出自を細かく問われない。店主は筒を受け取り、三秒見て、返した。
「動かんのだろう」
「はい」
「なら屑だ」
「これは相当古い品です。陣も、いま使われているものとは」
「坊主」
店主は初めて顔を上げた。
「客が買うのはな、光る灯りだ。古い灯りじゃない。動かん魔道具を棚に置いておくと、うちの店まで動かん店に見える。銅貨三枚なら引き取ってやる。屑鉄の目方でだ」
銅貨三枚。買った値より安い。
ルカは礼を言って店を出た。
二軒目は魔道具の修理を看板に掲げた店だった。ここなら陣がわかる。そう思って入り、筒を差し出した。
若い店主は硝子越しに陣を覗き込み、しばらくして、鼻を鳴らした。
「贋物だな」
「贋物?」
「こんな陣は成り立たん。線が外に抜けとらんだろう。力の逃げ場がない陣なんぞ、刻んだ瞬間に石が割れる」
店主は筒を突き返した。
「どこかの素人が古そうに見せて作ったんだ。よくあるんだよ、古代の魔道具ですって触れ込みで田舎から出てくるのが」
「では、この彫りの摩耗は」
「砂で擦れば一晩でできる」
反論の言葉が、喉の途中で止まった。反論できるだけの根拠が、ルカにはなかった。読めないのだから。
三軒目、四軒目。同じだった。
五軒目は、扉の前で追い返された。クレインの倅だと気づかれた。
昼を過ぎる頃には、ルカは自分の足がひどく重いことに気づいていた。半日歩いて、筒についた最高値が銅貨三枚。
値打ちがある。それは間違いない。この目が言っている。
だが、値段がつかない。
父の言葉が、また耳の奥で鳴った。値打ちは物についとる。値段は人についとるんや。
いまのルカには、この筒を要る人間が一人も見えなかった。
夕方、ルカは坂の下の鍛冶場に寄った。
昨日アルヴァ鋼を買ってくれた老職人が、炉の前で腰を伸ばしていた。ルカの顔を見て、少し驚いた顔をする。
「今日は何も拾っとらんぞ」
「売りに来たんじゃありません。見てほしい物があって」
ルカは筒を出した。職人は手を拭き、受け取り、炉の明かりにかざした。
長い時間、黙っていた。
「……鉄じゃないな。これは古い。彫った奴も、腕がある」
「陣は読めますか」
職人は首を横に振った。
「俺は金物屋だ。陣のことはわからん。読めるのは陣師だけだ」
「陣師なら、どこに」
「組合の抱えなら、上市に何人かおる」
職人は筒を返しながら、ルカの顔を見た。
「だがな、坊主。組合の陣師に見せるということは、組合に見せるということだ。これが本物なら、明日には『拾得物の届出違反』か何かの名目で取り上げられとるぞ。あんたは登録商じゃない。何を持っていても、持っていていい理由を証明できん」
ルカは筒を握りしめた。
「登録していない人間で、陣が読める者はいませんか」
「昔はおった」
職人は炉に向き直った。
「組合の外にも、腕のいい陣師が何人かな。だが、みんな消えた。組合の抱えにならんと、まともな仕事が回ってこん仕組みになっとるからな。残ったのは、抱えになれなかった連中だ」
「なれなかった、というのは」
「腕が落ちたか、後ろ盾を失ったか」
後ろ盾を失った。
その言葉が、ルカの中で何かに触れた。
十一のとき、父の帳場の隅に座らされて、ひたすら名前を書き写した日々がある。仕入先、得意先、職人の名。父はこう言っていた。商人の財産は帳面や。ええか、ルカ。名前を覚えるんは金を数えるより大事や。
クレイン商会には、陣師が一人いた。
工房の奥で、いつも背中を丸めて座っていた男。ルカが覗きに行くと、無言で銅板の切れ端をくれた。名前は——
「ヴェント」
声に出していた。職人が振り返った。
「知っとるのか、あんた」
「うちの職人でした」
ルカは初めて、自分から名乗った。
「クレイン商会の陣師です」
老職人は、しばらくルカを見つめていた。それから、火箸を置いた。
「ヴェントか。……あれは、生きとるとは聞いた」
「どこに」
「知らん。だが、上市にはおらん」
職人は顎で坂の下を示した。
「商会が潰れて、あの男は保証人の連帯には入っとらんかったが、行き場をなくした。組合はクレインに関わった職人を一人も抱えなかったからな」
「なぜ」
「見せしめだろうよ」
ルカは礼を言って、鍛冶場を出た。
坂を下りながら、拳を握った。父が潰れたのは、弟子の借金のせいだと思っていた。だが借金が済んだあとも、職人一人が食えなくなるまで締め上げる者がいる。それは借金の取り立てではない。
消し方だ。
製粉小屋に戻ると、二階に先客がいた。
十二くらいの娘が、ルカの寝床の麻袋をめくっていた。振り返り、ルカと目が合い、逃げようとして、床板の抜けた穴に足を取られて転んだ。
「そこは抜けてる」
「知ってる」
娘は起き上がりながら言い返した。
「あんたが持ってると思ったのに、何も置いてないじゃない」
「置いてたら、とっくに取られてる」
娘は舌打ちして、埃を払った。痩せているが目の動きが速い。この辺りでよく見る顔だった。
「あんた、下市の子でしょ。銅貨で買って銀貨で売るって噂の」
「二枚がいいところだよ」
「それでもここじゃ大金だよ」
娘は座り込み、あっさりと居直った。
「ネル。あたし、この辺の家、全部どこに誰が住んでるか言える」
ルカは足を止めた。
「……全部?」
「全部。名前も。いつ来たかも。何してた人かも」
ネルは鼻の下を擦った。
「覚えるのは得意なの。他に何もできないから」
心臓が、一度、強く打った。
ルカは膝をつき、娘の目の高さに顔を下げた。
「ヴェントという男を知らないか。年寄りだ。もとは陣師で、たぶん手のどこかに、古い火傷か墨の跡がある」
ネルの目が、すっと細くなった。
「情報には値段があるんだけど」
「銅貨十五枚ある。全部でいい」
娘はしばらくルカの顔を見ていた。それから、少し困ったように視線をそらした。
「……知ってる。けど、やめといたほうがいいよ」
「なぜ」
「川の下の橋桁のところに、そういうじいさんがいる」
ネルは膝を抱えた。
「けど、あの人、誰が話しかけても返事しないんだ。去年、あたしがパンを持ってったときも、こっちを見もしなかった」
ルカは立ち上がった。窓の穴の向こうで、上市の魔石灯が丘の上まで橙色に連なっている。
「案内してくれ」
「聞いてた? 返事しないって言ったんだけど」
「聞いてた」
ルカは外套の下から筒を取り出した。
「返事をさせる物ならここにある」




