第1話 下市の目利き
値打ちは物についとる。値段は人についとる。
父はそう言って、金貨五百枚の借金を残し、母と二人で東の丘の債務者牢に入った。
残されたルカ・クレインが持っているのは、物の値打ちが見える目だけだ。
その目は、一枚の証文も読み替えられなかった。
商都カルディアの朝は、この裏通りから始まる。城壁の外から夜通し荷を運んできた行商人たちが、上市の店が開くまでのわずかな間、地面に布を敷いて商品を並べる。持ち帰る余裕のない者たちの市だ。だから値は安く、そして品はたいてい酷い。
ルカ・クレインは凍った轍を踏み越えて、三本目の通りに入った。十五になったばかりの体は、去年の外套にもう合っていない。袖から出た手首を擦り合わせ、白い息を吐く。
歩きながら、彼は見ている。
布の上に並んだ物のひとつひとつが、ルカの目には二重に映る。表側には、錆びた金具や欠けた皿や擦り切れた革帯がある。その奥に、もうひとつの姿がある。何でできているか。どう作られたか。誰の手を経てきたか。この世に出てきたとき、それがどれほどのものであったか。
物の値打ちが見える。生まれつきそうだった。
そして、それは何の役にも立たなかった。父の商会が潰れたとき、ルカの目は一枚の証文も読み替えられなかったからだ。
四つ目の敷布の前で、足が止まった。
年老いた行商人が、鉄くずを箱ごと並べている。折れた蝶番、曲がった釘、用途のわからない金具。その中に、指先ほどの黒い部品が一つ混じっていた。
ルカの目に、それは違って見えた。
アルヴァ鋼。北の山でしか採れない鉱石を、いまはもう伝わっていない古い工法で鍛えたもの。魔力を通しても歪まない。魔道具の心臓部にだけ使われる、上市の店なら一つで銀貨が動く代物だ。おそらく百年前の魔道具の残骸で、他の部品が朽ちたあとにこれだけが残った。
「その箱、まとめていくらだ」
老人は顔を上げ、少年を見て、それから箱を見た。
「銅貨三枚でいい。どうせ鍛冶屋に量り売りする屑だ」
ルカは懐から布袋を出し、銅貨を十枚数えて敷布に置いた。
老人の手が止まった。皺の寄った目が、ゆっくりとルカの顔に戻ってくる。
「聞き違いか。三枚と言ったんだが」
「十枚です」
「小僧、俺をからかっているのか」
「この中に一つ、屑ではないものが混じっています」
ルカは黒い部品を指した。
「あなたはそれを知らずに三枚と言った。私はそれを知っていて買う。三枚で持っていったら、次にあなたが同じ物を持ってきたとき、私に見せてくれなくなる」
老人はしばらく黙っていた。それから、銅貨を一枚だけつまみ上げて、残りをルカの方へ押し戻した。
「四枚でいい。上乗せの分は、次に会うときの分だ」
「では、四枚で」
ルカは箱を抱えて立ち上がった。老人が背中に声を投げた。
「小僧、名は」
「ルカです」
家名は言わなかった。この街で「クレイン」と名乗れば、返ってくるのは二種類の目のどちらかだ。憐れみか、面白がりか、どちらも要らない。
問題は、ここからだった。
ルカの目に見えるのは、その物が「本来どれほどのものか」だけだ。いま、この街で、誰が、いくらで買うか——それは見えない。
値打ちと値段は別物だ。三年前、まだ商会の帳場に座らせてもらえた頃、父はよくそう言った。
「値打ちは物についとる。値段は人についているのだ。いいか、ルカ。物を見る目だけで商人になれると思うたら大間違いだ。要るのは、その物を要る人間を見つけてくる足だ」
思い出すと、いつも腹の底が冷える。父はその足で街中を駆け回り、困っている者を見つけては手を貸し、そして弟子の店の保証人になった。
エイム・クレイン。魔道具商クレイン商会の主人。人が良すぎた、と誰もが言う。
弟子のトマスが独立するとき、父は迷わず判を押した。トマスは開店から半年で、ヴァレンティ商会の口車に乗った。破格の条件で魔石を仕入れる契約——その裏には、仕入れ値を後から吊り上げられる一条が埋めてあった。トマスは支払えず、店を畳み、姿を消した。
残った債務は、保証人のところへ来た。
父は工面しようとした。母も走り回った。商会の在庫を全部吐き出し、屋敷を売り、それでも足りなかった。金を借りようとした先はどこも、なぜか揃って口をつぐんだ。
いまは二人とも、東の丘の債務者牢にいる。
残債、金貨五百枚。
ルカは箱を抱え直して歩き出した。頭の中で、いつもの計算が回る。今日、この部品が銀貨二枚で売れたとする。銀貨百枚で金貨一枚。五百枚まで、五万枚。一日に銀貨二枚として、二万五千日。
六十八年。
父も母も、とうに死んでいる。
上市に着いた頃には、日が屋根の高さまで昇っていた。
石畳が磨かれ、看板が金で縁取られ、店先には魔石灯が灯っている。柔らかく明滅する橙色の光。魔道具商が売る灯りは、みなこの色だ。魔石を食い、揺らめきながら、夜を昼に変える。カルディアの富の色である。
ルカは三軒の店を回った。
一軒目は、扉の内側に入れてもらえなかった。二軒目は主人が出てきたが、部品を一瞥しただけで
「うちは屑鉄を扱わん」
と言った。ルカが何でできているかを説明しようとすると、遮られた。
「クレインの倅だろう。悪いが、あんたと帳面をつけたと知れたら、うちが困る」
誰が困らせるのかは、言わなかった。言う必要もなかった。
三軒目で、ようやく話が通った。裏通りの、間口の狭い鍛冶場だ。老いた職人が部品を受け取り、指で撫で、爪で弾き、音を聞いた。それから顔を上げた。
「どこで拾った」
「下市です」
「アルヴァだな。それも、いまの鍛え方じゃない」
職人はもう一度弾いた。
「銀貨二枚。それ以上は出せん。うちにこれを使う仕事は月に一つあるかないかだ」
ルカは頷いた。銅貨四枚が、銀貨二枚になった。五十倍。
上出来だ、と自分に言い聞かせる。
六十八年が、六十七年と少しになった。
ソレル家の門は、白い石でできている。
母の実家だ。カルディアの南、静かな坂の途中に建つ、古いが手入れの行き届いた屋敷。ルカは門柱の前で外套の埃を払い、髪を撫でつけ、それから呼び鈴を鳴らした。
出てきた女中は、ルカの顔を覚えていた。覚えていて、困った顔をした。
「……ルカ様。申し訳ありませんが」
「今日は五分でいいんです。顔を見るだけで」
「旦那様が、もう取り次ぐなと」
「先月も同じことを言われました。その前も」
「ルカ様」
女中は声を落とした。
「ミナ様は、もうクレインの名を名乗っておられません。ソレルのお嬢様として、お行儀の稽古を受けておいでです。……そういうお話が、進んでおりますので」
ルカの喉の奥で、何かが引っかかった。
「そういう話、というのは」
女中は答えなかった。答えないことが、答えだった。
八歳だ。ミナは八歳になったばかりだ。
ソレル家も傾いている。それはルカも知っていた。だから娘を——姪を、名家との縁組に使う。あと数年、体裁が整うまで待って、そして送り出す。
「いつです」
「私の口からは」
「いつですか」
女中は目を伏せた。
「……二年、と聞いております」
門の内側、二階の窓に、白いものが動いた。
ルカは顔を上げた。カーテンの隙間から、小さな顔がこちらを見ていた。目が合った。ミナの口が、何か言おうとして、動いた。
そして、後ろから伸びてきた手が、カーテンを閉めた。
門が閉まる音を、ルカは背中で聞いた。
坂を下りながら、彼は歯を食いしばっていた。泣くのは早いうちにやめた。泣いても誰も来ないことを、この一年で覚えた。
二年。
六十八年ではなく、二年だ。
歩調が速くなる。何かをしなければならない。銅貨を銀貨に変える暮らしでは、二年後にミナは知らない家へ行き、父と母は牢で朽ちる。
いまのやり方では、届かない。
わかっている。ずっとわかっている。だが、元手がない。人手もない。名前は使えず、名前を使えば扉が閉まる。ルカ・クレインが持っているものは、物の値打ちが見えるという、それだけだ。
坂の下に、廃品商の小屋がある。
ダゴという男が、屋敷の取り壊しや遺品の始末から出た物を、まとめて買い叩いては積み上げている。値打ちのある物は先に抜かれているから、残っているのは本当の屑だ。ルカがここで何かを見つけたことは、半年で二度しかない。
それでも、彼は足を止めた。まっすぐ帰る気になれなかっただけかもしれない。
積み上がった山を、目でなぞる。割れた壺。脚の折れた椅子。焦げた織物。錆びた——。視線が、止まった。
山の裾に、黒ずんだ金属の筒が転がっていた。掌より少し長い。片側に硝子の嵌まっていた跡があり、いまは枠だけが残っている。形からして、灯りの魔道具だ。それも、ずいぶん古い。
ルカは膝をついて、それを拾い上げた。
そして、息を止めた。
見えない。
筒の側面に、細い線が刻まれている。魔法陣だ。魔道具を見れば、その陣がどれほどの品かはすぐにわかる。三流の職人が写した粗い陣か、名工が引いた精緻な陣か。ルカの目は、これまで一度も外したことがない。
だが、この陣は読めなかった。
見えるのは、それが恐ろしく古いということ。二百年か、三百年か。そして、いま街の工房で刻まれているどの陣とも、線の運びが違うということ。まるで別の言語で書かれた文章を眺めているような感覚だった。文字であることはわかる。美しいこともわかる。意味だけがわからない。
——これは、いまの世にない。
背筋を、冷たいものが上っていった。
「おい、小僧」
ダゴが小屋から顔を出した。
「そんな屑を触るな。手を切るぞ」
ルカは筒を握ったまま、立ち上がった。声が掠れないように、少し息を整えてから言った。
「これ、いくらですか」
「ああ? そんなもん」
ダゴは面倒くさそうに手を振った。
「銅貨五枚でいい。硝子も割れてる、動きもせん。屑鉄と一緒に量るつもりだった」
銅貨五枚。ルカの懐には、銀貨二枚と銅貨が数枚ある。今日一日の稼ぎのすべてだ。明日の朝、下市で何かを仕入れる元手でもある。
彼は迷わなかった。
銅貨を五枚数えて、ダゴの手に載せる。
「毎度」
小屋の戸が閉まった。
ルカは筒を外套の内側に押し込み、坂を下りきったところで、もう一度取り出して見た。
黒ずんだ金属。読めない陣。動くかどうかもわからない。
これがいくらで売れるのか、まるで見当がつかなかった。父の言葉が耳の奥で響く。値打ちは物についとる。値段は人についとるんや。
ならば、この物を要る人間を、自分で見つけてこなければならない。
日が傾き、上市の方角で魔石灯が一斉に灯りはじめた。橙色の光が、街を丘の上まで押し上げていく。その明かりの中に、かつて父の店があった。
「二年で金貨五百枚。やるしかない」
ルカ・クレインは筒を握りしめ、スラムへ向かって歩き出した。




