第28話 十二の帳面
三年半前、二階の窓からカーテン越しに見ていた妹は、いま、庭の石段に座って本を読んでいた。
背が伸びていた。髪は結わずに、後ろで一つに束ねてある。着ているものは上等だが、膝のあたりに草の汁がついていた。
ルカが近づくと、彼女は顔を上げた。
そして、本を閉じた。
「兄さま」
「ミナ」
「聞いた」
妹は言った。
「破棄になったって」
「ああ」
「ふうん」
彼女は、また本を開いた。ルカは、その場に立ち尽くした。
沈黙が、長かった。
やがて、ミナが言った。
「座らないの」
彼は、石段に腰を下ろした。
隣に座ると、妹の背丈がよくわかった。三年半前、膝をついて目の高さを合わせた。いまは、座れば肩が近い。
「その本は」
「帳面」
ミナは言った。
「乳母が捨てるって言うから、もらった」
彼女は、頁を見せた。数字が並んでいた。
「ソレル家の、去年の出入り」
妹は言った。
「あたし、勝手に見てる」
ルカは、目を見開いた。
「叔父上は」
「知らない」
ミナは言った。
「見てもわかんないと思ってる」
彼女は、指で一行をなぞった。
「ここ、変なの。薪の代金が、冬でもないのに月に銀貨四枚も出てる」
ミナは言った。
「三月も、四月も、五月も。同じ額」
ルカは、その行を見た。
同じ額が、毎月。
架空の支出だ。
「……誰かが、抜いている」
「たぶん、番頭さん」
ミナは言った。
「気づいたの、去年。でも言えなかった」
「なぜ」
妹は、少し黙った。
「言ったら、あたし、この家で嫌われるでしょ」
ルカは、しばらく言葉が出なかった。
「ミナ」
「なに」
「いつから、そういうことを考えている」
「ずっと」
彼女は、あっさりと言った。
「兄さまが来て、追い返されるようになってから」
ミナは言った。
「あたし、この家で、何なのかなって思ったの」
彼女は、庭を見た。
「客じゃない。娘でもない。使用人でもない」
「……」
「たぶん、荷物だと思った」
ルカの喉が、詰まった。
「荷物は、荷物のふりをしてないと、置いてもらえない」
ミナは言った。
「だから、おとなしくしてた」
彼女は、帳面を膝に置いた。
「でも、荷物にも目はあるでしょ」
ルカは、長いこと黙っていた。そして、言った。
「済まなかった」
「なんで謝るの」
「三年半、迎えに来なかった」
「来たじゃん」
ミナは言った。
「十四回」
「入れなかった」
「入れなかったのは、あの人たちのせいでしょ」
彼女は、兄を見た。
「兄さま。あたし、怒ってないよ」
「……」
「一回も怒ってない」
ミナは言った。
「怒ったのは、乳母が『お兄さまは行ってしまわれました』って言ったときだけ。あれは嘘だから」
彼女は、少し笑った。
「兄さまは、いつも門の外にいたもん」
風が吹いて、庭の木が鳴った。ルカは、懐から書状を出した。
「これが、破棄の証書だ」
ミナは、受け取って読んだ。読むのが、速かった。
「違約金、フェルド家が払うんだ」
「そうだ」
「兄さまが払うんじゃなくて?」
「ああ」
「なんで」
「破棄を言い出したのが、向こうだからだ」
ルカは言った。
「契約書に破棄の条項がなかった。だから、話し合いになる」
ミナは、書状をもう一度読んだ。そして、言った。
「兄さま、うまいね」
「うまくはない」
「うまいよ」
妹は言った。
「三年半かかってるけど」
ルカは、思わず笑った。
「ミナ」
「なに」
「うちに来ないか」
彼は、そう言った。言ってから、自分の声がひどく硬いことに気づいた。
「店の二階に部屋が一つある。いまは陣師の爺さんが寝ているが、家を探している」
ルカは言った。
「まだ屋敷は買えない。父と母が出てくるまでは借家だ」
彼は、続けた。
「お前が住むには、狭い」
ミナは、答えなかった。しばらく、帳面を撫でていた。そして、言った。
「兄さま。あたし、質問していい?」
「ああ」
「兄さまのお店、いま何人いるの」
ルカは、少し驚いた。
「……刻み手が六人。取次が二十九軒。うちの店には、九人だ」
「帳面は、誰がつけてるの」
「ネルという娘だ。十五になる」
「一人で?」
「一人で」
ミナは、目を細めた。
「六千件でしょ」
ルカの動きが、止まった。
「……なぜ知っている」
「乳母が言ってた。『クレインの倅が、街中に灯りを貸してる。六千だそうだ』って」
ミナは言った。
「六千件を一人でつけてたら、絶対どこか抜けてる」
彼女は、自分の膝の帳面を叩いた。
「この家の出入り、一年で七十件しかないの。それでも番頭さんに抜かれてた」
妹は、兄を見た。
「七十件で気づけないんだよ。六千件で、気づける?」
ルカは、妹の顔を見た。
十二歳だった。だが、その目は、彼が毎晩板の前で数字を睨むときの目と同じだった。
「ミナ」
「なに」
「お前、うちで働くつもりか」
「だめ?」
「だめじゃない」
ルカは言った。
「だが、お前は」
「あたし、なに?」
彼は、言葉に詰まった。お前は、クレインの娘だ。
そう言おうとした。屋敷に住み、家庭教師がついて、いずれどこかに嫁ぐ。父と母が牢から出れば、そういう暮らしに戻れるかもしれない。
そう言おうとして、彼は口を閉じた。
それは、フェルド家が用意した未来とどこが違う。
「……なんでもない」
「言いかけたじゃん」
「言いかけて、間違いだと気づいた」
ミナは、少し首を傾げた。そして、笑った。
「兄さま、そういうとこ、変わってないね」
叔父は、玄関で待っていた。
ミナは、荷物を一つしか持っていなかった。布の袋に、着替えが二枚と、帳面が三冊。
「……それだけか」
「うん」
「もっと、持っていけ」
叔父は言った。
「服も、靴も、この家の物もだ」
「いらない」
ミナは言った。
「あれ、ソレルのお嬢さまの服だから」
男の顔が、歪んだ。
ミナは、玄関で立ち止まって、振り返った。
「叔父さま」
「なんだ」
「番頭さんの帳面、見たほうがいいよ」
叔父が、動きを止めた。
「薪代、おかしい」
ミナは言った。
「三年で、たぶん金貨二枚くらい抜かれてる」
「……お前」
「言わなかったのは、あたしが荷物だったから」
ミナは言った。
「もう荷物じゃないから言う」
彼女は、頭を下げた。
「三年半、置いてくれてありがとう」
叔父は言った。
「……帰ってこいとは言わん。だが、いつでも来い」
そして、門を出た。
坂を下りながら、ミナは何度も振り返った。
「兄さま」
「なんだ」
「あの家、潰れる?」
「潰れないだろう。金貨百二十枚が入る」
「ふうん」
「気になるか」
ミナは、少し考えた。
「叔父さまね」
彼女は言った。
「あたしが風邪ひいたとき、医者を呼んでくれた。二回」
「そうか」
「あと、去年の冬、あたしの部屋だけ薪を多く入れてくれた」
ミナは言った。
「番頭さんに怒られてた」
彼女は、前を向いた。
「悪い人じゃないんだと思う。弱いだけで」
ルカは、その言葉を聞いて、しばらく黙った。
弱いだけ。
父もそうだった。断れずに判を押した。
叔父もそうだった。断れずに判を押した。
フェルドもそうだった。
そして、この街は、弱い人から順に潰れていく。
「ミナ」
「なに」
「いいことを言うな、お前」
「褒めた?」
「褒めた」
店に着いたのは、日が暮れてからだった。
上市の店が一軒ずつ閉まっていく中で、クレイン商会だけが、留め具を回した。
白い光が、通りに溢れ出た。ミナが、足を止めた。
「……これ」
「うちの灯りだ」
妹は、その光の中に立っていた。
石畳の目地。壁の亀裂。自分の手の甲。全部が、隠れる場所もなく、そこにあった。彼女は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「明るいね」
「白いから、嫌がる人もいる」
「あたしは、好き」
ミナは言った。
「これなら、帳面が読める」
ルカは、笑った。店の中で、ネルが帳場に座っていた。
顔を上げて、ミナを見た。
二人は、しばらく見つめ合った。
「……妹?」
「ミナだ」
ルカは言った。
「明日から、帳面を手伝う」
ネルの目が、丸くなった。
「え、あたし、いらなくなるの?」
「増やすんだ」
ルカは言った。
「六千件を一人で見るのは、無理だ」
「無理じゃないもん!」
「先月、四十件抜けていた」
ネルが、固まった。
ミナが、帳場に近づいた。
そして、帳面を覗き込んだ。
「これ、区ごとに分けてないの?」
「……分けてない」
「分けたほうがいいよ」
ミナは言った。
「取次ごとにすれば、抜けたときにどこか一目でわかる」
ネルは、しばらく黙っていた。
そして、ぼそりと言った。
「……あんた、いくつ」
「十二」
「あたし、十五」
「うん」
ネルは、帳面を閉じた。そして、椅子を一つ、隣に置いた。
「座りな」
その夜、ルカは板の前に座った。炭を持って、いつもの数字を書く。
残債、金貨百二十枚。
いまの収入なら、二月半。
彼は、その下に線を引いた。
そして、三年半前から一度も書かなかった、もう一つの数字を書いた。
ミナ —— 帰宅。
彼は、しばらくその文字を見ていた。
奥から、二人の娘の声が聞こえていた。ネルとミナが、まだ帳面を広げている。数字を読み上げる声。反論する声。笑う声。
ヴェントが、作業台から言った。
「にぎやかになったな」
「はい」
「小僧」
「なんですか」
老人は、針を置いた。
「あと二月半か」
ルカは、頷いた。
「はい」
「そのあと、どうする」
彼は、答えなかった。答えを、まだ持っていなかったからだ。
三年半、彼は一つの数字だけを追ってきた。金貨五百枚。それが四百三十一枚になり、百二十枚になった。二月半で、ゼロになる。
ゼロになったあと、何を数えるのか。
ヴェントが、笑った。
「顔に書いてあるぞ」
「はい」
「小僧。わしはな」
老人は言った。
「四十年、次の日のことを考えたことがなかった」
彼は、震える手を見た。
「橋の下で、明日も同じ陣を彫るとしか思っとらんかった」
彼は、顔を上げた。
「お前が来て、初めて、来年のことを考えた」
老人は、針を握り直した。
「考えろ。それが、お前の仕事だ」




