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二年で金貨五百枚 ~妹を買い戻すため、失われた魔法で商売を始める~  作者: 霧里 野蒜


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第29話 迎えに行く

 最後の一枚は、三月後に払った。

 窓口の書記は、いつもの男だった。三年半、毎月同じ顔を見てきた。

 「クレイン商会、代納です」

 「はい」

 「残額、全額」

 書記の手が、止まった。

 彼は、帳面をめくった。二度めくって、三度目でゆっくりと閉じた。

 「……金貨百四枚と、銀貨二十枚」

 「はい」

 ルカは、革袋を置いた。数えるのに、四半刻かかった。

 数え終わって、書記は受領証を書いた。手が震えていた。

 『エイム・クレインおよびリナ・クレインに係る債務、完済。両名の身柄拘束は、本日をもって解く。』

 彼は、その紙を差し出した。

 そして、初めて、事務的でない声で言った。

 「……三年八月です」

 「はい」

 「一度も、欠けませんでした」

 書記は言った。

 「私は、四百件の代納を扱っております。一度も欠けないのは、あなただけです」

 ルカは、頭を下げた。

 「ありがとうございます」

 「引き渡しは、明日の朝です」

 その夜、店は開かなかった。

 代わりに、全員が集まった。

 ヴェント。トト。六人の刻み手。ドーラ。バルサ。ネル。ミナ。イルマ。サドウ。ケイソ。

 ハーサが峠を越えて来ていた。

 「明日、迎えに行く」

 ルカは言った。

 「私一人で行きます」

 「なんでだい」

 ドーラが言った。

 「みんなで行こうよ」

 「三年八月ぶりです」

 ルカは言った。

 「あの二人は、痩せています。労役で手が荒れている。着ているものも、牢の物です」

 彼は、静かに言った。

 「大勢に見られたくないと思います」

 店の中が、しんとなった。

 ドーラが、目頭を押さえた。

 「……そうだね」

 「店で、待っていてください」

 ルカは言った。

 「連れて帰ります」

 ミナが、手を挙げた。

 「あたしは行く」

 「ミナ」

 「あたしは、大勢じゃない」

 ルカは、少し黙った。

 そして、頷いた。

 「そうだな」


 翌朝は、晴れていた。

 東の丘への道を、二人で歩いた。

 川を渡り、畑の間を上る。この道を、ルカは三年八月で四十回ほど歩いた。最初は一人で。途中から、月に一度、ミナと一緒に。

 「兄さま」

 「なんだ」

 「服、買ってきたんだよね」

 「昨日、届いた」

 ルカは、抱えた包みを見た。父の外套と、母の外套。それに、靴が二足。

 寸法は、覚えていなかった。

 だから、面会のたびに目で測っていた。この三年八月、少しずつ痩せていく二人の背丈と肩幅を、鑑定の目で覚えていた。

 「合うかな」

 「合う」

 ルカは言った。

 「合わなかったら、直す」

 灰色の建物の前に、二人は立った。

 門が開き、書記が出てきた。

 「クレイン殿」

 「はい」

 「お渡しします」

 彼は、後ろを振り返った。

 そして、二人が出てきた。

 父は、日に焼けていた。

 背は、三年八月前より、さらに伸びて見えた。労役で鍛えられた体だった。だが、頬は落ちていた。

 母は、髪をきちんと結っていた。

 三年八月、誰にも見られない場所で、この人はずっと髪を結い続けていた。

 ミナが、走った。

 母がその場に膝をついて、娘を受け止めた。二人とも声を出さなかった。母の背中が、大きく震えていた。

 ルカは、動けなかった。

 父が、こちらを見ていた。

 そして、真っ先にこう言った。

 「また、背が伸びたな」

 ルカの喉が鳴った。

 「はい」

 「いくつになった」

 「十八です」

 「そうか」

 父は、頷いた。

 それだけだった。


 外套を着せると、父は袖を見た。

 「合っとるな」

 「はい」

 「寸法を、いつ測った」

 「測っていません」

 ルカは言った。

 「見て、覚えました」

 父は、少し笑った。

 「相変わらず、見るのがうまいな」

 母が、ルカの外套を掴んだ。そして、顔を上げた。

 「ルカ」

 「はい」

 母は、何か言おうとして、言葉にならなかった。代わりに、息子の頬に手を当てた。

 その手は、荒れていた。ひび割れて、爪が割れていた。三十年、帳場で算盤を弾いていた手だった。

 ルカは、その手を、両手で包んだ。

 そして、初めて、泣いた。

 三年八月、一度も泣かなかった男が、母の手を握って、声を上げて泣いた。

 母は、何も言わずに、その頭を撫でていた。

 坂を下りる道で、父が足を止めた。

 「ルカ」

 「はい」

 「街が、変わっとるな」

 四人は、丘の中腹に立っていた。

 眼下に、カルディアが広がっていた。

 昼だった。灯りは点いていない。だが、父の目は、別のものを見ていた。

 「あそこの通りだ」

 父は指した。

 「職人街だな」

 「はい」

 「昔は、日が暮れると死んどった」

 父は言った。

 「いまは、屋根が新しい」

 ルカは、目を細めた。

 言われて、初めて気づいた。

 職人街の屋根が、去年より新しくなっている。修理された屋根。増築された二階。広がった工房。

 「稼いどるな」

 父は言った。

 「あれは、稼いどる屋根だ」

 ルカは、答えられなかった。三年八月、この人は牢にいた。それでも、街を一目見て、屋根で稼ぎを読んだ。

 「父上」

 「なんだ」

 「なぜ、わかるのですか」

 父は、少し笑った。

 「商人だからな」

 店に着いたのは、昼過ぎだった。通りに、人が立っていた。

 ドーラ。バルサ。ヴェント。トト。子供たち。イルマ。サドウ。ケイソ。ハーサ。

 そして、その後ろに、見たことのない顔が並んでいた。

 職人街の職人。下市の行商人。取次店の主人たち。

 三百人ほどが、通りを埋めていた。

 ルカは、足を止めた。

 「……ドーラさん」

 「あたしのせいじゃないよ」

 女は言った。

 「みんな、勝手に来たんだ」

 母が、口元を押さえた。

 父は、その人垣を見ていた。

 そして、静かに言った。

 「ルカ」

 「はい」

 「この人たちは」

 「うちの、取引先です」

 父は、しばらく黙っていた。

 そして、言った。

 「三十年やって、わしの店にはこんな数、集まらんかったぞ」

 人垣が、割れた。

 誰も、拍手をしなかった。歓声も上げなかった。

 ただ、道が開いた。

 父と母は、その間を歩いた。

 ヴェントの前で、父が足を止めた。

 老人は、震える手を体の脇に垂らして立っていた。

 長い沈黙があった。

 そして、父が言った。

 「ヴェント」

 「……エイムさん」

 「済まんかった」

 老人は、首を振ろうとして、できなかった。

 「あんたを守るつもりで、断った」

 父は言った。

 「断って、それきりにした。あんたを、七年、放り出した」

 ヴェントは、俯いた。

 「……いいんです」

 「よくない」

 父は、頭を下げた。

 深く、長く。

 老人は、震える手で、その肩に触れた。そして、掠れた声で言った。

 「エイムさん。あんたの倅が、迎えに来ました」

 彼は、顔を上げた。

 「橋の下にね。四年前です」


 店の中で、母は帳場に触れた。指で、木肌を撫でた。

 「小さいね」

 「はい」

 「けど、きれいにしてある」

 母は言った。

 「毎日、拭いてるでしょう」

 「ネルが拭いています」

 「そう」

 母は、二階を見上げた。

 「部屋は、いくつ」

 「一つです」

 ルカは言った。

 「ヴェントさんが使っています。父上と母上には、隣に家を借りました。二軒隣です」

 「借家かい」

 「はい」

 母は、頷いた。そして、少し笑った。

 「屋敷は、いいよ」

 「え」

 「あの屋敷はね」

 母は言った。

 「掃除が大変だったの」


 父は、店の中を歩いていた。棚を見て、作業台を見て、壁の帳面を見た。そして、灯りの前で足を止めた。昼だが、ルカは一台に留め具を入れた。

 白い光が、店内に落ちた。

 父は、動かなかった。

 長いこと、その光を見ていた。

 そして、言った。

 「これか」

 「はい」

 「魔石を、食わんそうだな」

 「米粒ほどです」

 父は、しばらく黙った。

 「ルカ」

 「はい」

 「この街の魔石屋は、どうなった」

 ルカは、その質問を待っていた。牢を出て、半日で、この人はそこを訊く。

 「四十軒のうち、三十四軒が、うちの取次になっています」

 ルカは言った。

 「灯りを配って、集金して、修理を預かる。看板を変えた店もあります」

 「残り六軒は」

 「大通りの大店です」

 ルカは言った。

 「まだ、魔石を売っています」

 「潰れるか」

 「潰れます」

 ルカは言った。

 「二年以内に」

 父は、頷いた。

 「引き受けるのか」

 「引き受けます」

 ルカは言った。

 「働いている人は、うちで使います。店の名は、消えます」

 「消えるな」

 「消えます」

 父は、目を伏せた。

 「そうか」

 それから、彼は言った。

 「ルカ。一つ、訊いていいか」

 「はい」

 「お前は、何人潰した」

 店の中が、静かになった。

 ネルが、帳場で手を止めた。ミナが、父を見た。

 ルカは、答えた。

 「数えています」

 「言え」

 「魔石の小売で、廃業したのが六軒。うち二軒は、主人が街を出ました」

 ルカは言った。

 「下市の仲買で、四人が食えなくなりました。三人はうちで使っています。一人は、行方がわかりません」

 彼は、続けた。

 「灯りを真似て作って、通らなかった工房が八軒。三軒は畳みました」

 「魔石の卸は」

 「まだです。ですが、二年以内に、七社のうち四社が立ち行かなくなります」

 ルカは言った。

 「その下に、荷役が四百人、倉番が八十人」

 「鉱山は」

 「魔石鉱山が三つ。千二百人です」

 ルカは言った。

 「サイカで受け入れられるのは、四百人が限度です」

 彼は、目を上げた。

 「残り八百人の答えを、まだ持っていません」

 父は、長いこと黙っていた。そして、椅子に座った。

 「数えとるか」

 「はい」

 「よろしい」

 彼は、それだけ言った。そして、続けた。

 「わしはな、ルカ」

 「はい」

 「三十年、一人も潰さんかった」

 父は言った。

 「一人も潰さず、自分が潰れた」

 彼は、荒れた手を見た。

 「それは、立派なことだと思っとった」

 彼は、顔を上げた。

 「牢で三年八月、考えた」

 父は言った。

 「わしが潰れたとき、うちの職人が二十人、路頭に迷った。弟子のトマスは行方知れずだ。ヴェントは橋の下だ。女房は牢で、娘は他人の家だ」

 彼は、静かに言った。

 「わしは、一人も潰さんかったんじゃない。数えとらんかっただけだ」

 ルカは、動かなかった。

 「数えれば、痛い」

 父は言った。

 「痛いから、数えん商人が多い。わしもそうだった」

 彼は、息子を見た。

 「お前は、数えとる。八百人の答えがないことを、答えがないと言える」

 彼は、頷いた。

 「それでいい」


 その夜、通りに酒樽が出た。

 三百人が飲んだ。歌った。誰かが泣いた。母は、女たちに囲まれていた。ドーラとイルマが、両側から離さなかった。

 ミナは、ネルと並んで、大人たちの間を縫っていた。

 父は、樽の脇に座って、サドウと話していた。魔石屋の主人と、潰れた魔道具屋の主人が、何を話しているのかはわからなかった。

 ルカは、少し離れて立っていた。

 ヴェントが、隣に来た。

 「小僧」

 「はい」

 「終わったな」

 「はい」

 老人は、酒を舐めた。

 「板は、どうする」

 ルカは、答えなかった。

 三年八月、毎晩書いてきた数字が、今日、消えた。

 金貨五百枚。四百三十一枚。百二十枚。ゼロ。

 明日から、何を書くのか。

 「ヴェントさん」

 「なんだ」

 「ひとつ、決めました」

 老人が、顔を上げた。

 ルカは、騒がしい通りを見ていた。

 「峠を、越えます」

 「サイカか」

 「もっと先です」

 ルカは言った。

 「魔石の鉱山が三つあります。一番大きいのは、南の街道を五日です」

 ヴェントが、目を細めた。

 「八百人か」

 「はい」

 「答えは、あるのか」

 「ありません」

 ルカは言った。

 「ですから、見に行きます」

 彼は、盃を置いた。

 「見ないと、値打ちはわかりません」


第一部 完

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