第27話 白い門の外
フェルド家から、使いが来た。
判決から一年二月。ルカが灯りの製法を公開して、印が二十二軒に広がった頃だった。
使いは、若い書生だった。
「当主が、お会いしたいと申しております」
「用件を伺えますか」
「婚儀の件と、承っております」
ルカは、その言葉を聞いても、動かなかった。
三年半、この件は動かないまま置かれていた。式は延期され、破棄もされず、宙に吊るされたままだった。
「日時は」
「明日の午後、当家にて」
ルカは、少し考えた。
そして、言った。
「お断りします」
書生が、目を見開いた。
「……は?」
「フェルド家には参りません」
ルカは言った。
「うちの店に、お越しください」
「小僧、正気か」
バルサが呆れた。
「相手は連合理事の一族だぞ。判事の家だぞ」
「はい」
「呼びつける気か」
「呼びつけません」
ルカは言った。
「うちの店に来ていただくだけです」
「同じことだろうが!」
「違います」
ルカは、帳面を閉じた。
「三年半前、私は白い門の前に立ちました。八十一枚を抱えて、開けてもらうのを待った」
彼は言った。
「あの門をもう一度叩いたら、私はあのときの少年に戻ります」
彼は、店内を見回した。
棚。帳場。作業台。壁の帳面。
「ここなら、私は商人です」
フェルド家の当主は来た。
三日後の夜だった。日が沈み、店の四隅に白い光が灯ってから、少し経った頃。
五十がらみの男だった。オルモ・フェルド判事の弟にあたる。判事より肉付きがよく、目つきが柔らかい。だが、その柔らかさは、商人が客に向ける類のものだった。
供は、外に待たせた。
「よい店だ」
「ありがとうございます」
「明るいな」
「はい」
男は、椅子に座った。
そして、いきなり本題を切り出した。
「婚約を、破棄したい」
ルカは、動かなかった。
「理由を伺えますか」
「言わねばならんか」
「伺いたいです」
フェルドは、少し笑った。
「貴殿を縛る必要が、なくなったからだ」
彼は、率直だった。
「三年半前、我々は貴殿を縛るために縁組を用意した。ソレル家に判を押させ、条項を差し替え、貴殿の血縁を我が家に取り込んだ」
男は言った。
「あのとき貴殿は、上市の小商人だった。潰す価値もない。だが、灯りは目障りだった」
「はい」
「いまは違う」
フェルドは言った。
「貴殿の灯りは、六千台を超えた。街の外にも広がった。基準は無効になった。兄が判決を書いた」
彼は、肩をすくめた。
「縛る意味がない」
「では、破棄していただけるのですね」
「条件がある」
ルカは、少し目を細めた。
「違約金は、金貨二百枚だ」
フェルドは言った。
「契約書に書いてある」
「ソレル家が払うのですか」
「本来はな」
男は言った。
「だが、ソレル家に二百枚はない。貴殿は知っているだろう」
「知っています」
「では、貴殿が払うか」
ルカは、答えなかった。
しばらく、白い光の中で、二人は向かい合っていた。
やがて、ルカは言った。
「フェルドさん」
「なんだ」
「違約金は、破棄する側が払うものです」
男の眉が動いた。
「破棄を言い出したのは、あなたです」
ルカは言った。
「ソレル家からではありません」
「……ほう」
「契約書の第六条は、ソレル家が敵対行為の監督を怠った場合の違約金です」
ルカは言った。
「監督を怠ってはいません。叔父は、私に一度も手を出していない」
彼は、続けた。
「そして、婚儀そのものの破棄については、条項がありません」
フェルドは、しばらく黙っていた。そして、笑った。
「兄と同じことを言うな」
「え」
「書いてある通りに読め、と」
男は言った。
「あの人は、うちの家では変わり者でな。ずっと言っておった」
彼は、目を上げた。
「そして、うちの家を判決に書いた」
「フェルドさん」
ルカは言った。
「違約金は払いません。ですが、別の話をさせてください」
「別の話?」
「商売の話です」
彼は、帳面を出した。
「フェルド家は、うちの灯りを三台借りておられます。先々月からです」
男が、動きを止めた。
「……調べたか」
「帳面にあります」
ルカは言った。
「うちは貸し物ですから、誰に貸しているかは全部わかります」
彼は、頁をめくった。
「三台のうち、二台は書斎に。一台は、二階の東の部屋に置かれています」
フェルドの顔から笑みが消えた。
「なぜそこまで」
「取次の者が、設置に伺いますので」
ルカは言った。
「東の部屋のお嬢さまは、目を悪くしておられるとか」
長い沈黙があった。
「……娘だ」
男は言った。
「十九になる。三年前から細かい字が読めん」
「刺繍をなさるそうですね」
「やめた」
フェルドは言った。
「見えんからな」
彼は、机を見た。
「二月前から、また針を持っておる」
ルカは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「フェルドさん。私は、その灯りを取り上げることができます」
男が顔を上げた。
「貸し物です。契約は、うちの都合で解約できます」
ルカは言った。
「明日、取次の者に引き上げさせることもできる」
「……脅す気か」
「いいえ」
ルカは言った。
「そうしない、と申し上げています」
彼は、帳面を閉じた。
「違約金は払いません。ですが、灯りも引き上げません。この二つは、別の話です」
フェルドは、動かなかった。
「私は、灯りを貸す商売をしています」
ルカは言った。
「借りたい方に貸します。フェルド家であっても、ヴァレンティ家であっても、下市の行商人であっても、同じ値です」
彼は、まっすぐ男を見た。
「娘さんの目と、妹の縁組は、混ぜません」
男は、長いこと黙っていた。
やがて、彼は言った。
「貴殿は、私を軽蔑しているか」
「いいえ」
「妹を、駒に使われたのだぞ」
「使われました」
ルカは言った。
「腹は立ちます。三年半、腹が立っていました」
「では」
「ですが、あなたも、当時はそうするしかなかったのでしょう」
ルカは言った。
「連合の一族です。灯りが目障りだと言われれば、動かねばならない」
彼は、少し言葉を選んだ。
「私の父は、弟子の保証人になって潰れました。人が良すぎたと、誰もが言います」
ルカは言った。
「あの人は、断れなかったんです。あなたも断れなかった」
フェルドが、目を見開いた。
「同じだとは申しません」
ルカは言った。
「ですが、断れない人が、断れないまま判を押すのを、私は一度見ています」
男は、椅子に深く沈んだ。
そして、外套の内から、一通の書状を出した。
机に置く。
『婚約解消証書』
日付が、入っていた。
三月前の日付だった。
ルカは、それを見た。
「これは」
「三月前に、書いた」
フェルドは言った。
「判決の後だ。兄が家の名を判決に書いた日から、うちは変わらざるを得んかった」
彼は、書状を指した。
「だが、出せんかった」
「なぜです」
「違約金二百枚を、うちが払わねばならんからだ」
男は言った。
「破棄する側が払う。貴殿の言う通りだ」
彼は、苦笑した。
「うちも、そこまで潤沢ではない」
ルカは、書状を見つめた。
そして、言った。
「フェルドさん」
「なんだ」
「二百枚は、ソレル家に払ってください」
男が、顔を上げた。
「え」
「ソレル家は、三年半前に支度金八十枚を受け取っています。借財の肩代わりも含めて」
ルカは言った。
「破棄となれば、返さねばなりません。返せば、あの家はまた傾く」
彼は、続けた。
「二百枚をソレル家に払えば、返す八十枚と差し引いて、百二十枚が残ります」
「なぜ、私が」
「あなたが破棄する側だからです」
ルカは言った。
「契約書に、破棄の条項はありません。ですから、話し合いで決めることになります」
彼は、静かに言った。
「私は、ソレル家の代理として、そう申し上げます」
フェルドは、口を開けたまま、動かなかった。
「……貴殿は、ソレル家に八十枚を出そうとした男だと聞いた」
「はい」
「あの家は、貴殿の妹を売ろうとした家だ」
「はい」
「なぜ、庇う」
ルカは、少し黙った。そして、言った。
「叔父は、三年半前、私に契約書を読ませました」
男が、動きを止めた。
「第六条を、私に見せたんです」
ルカは言った。
「差し替えられていることも、自分が嵌められたことも、話しました」
彼は、目を伏せた。
「あの人は、断れなかった。ですが、私に読ませることはした」
彼は、顔を上げた。
「それだけで、充分です」
フェルドは、長い時間、黙っていた。
そして、書状を取り、日付を書き直した。今日の日付だった。
「百二十枚だな」
「はい」
「うちの家を、よく調べたな」
男は言った。
「二百枚なら、うちは出せる。三百なら出せん」
「調べました」
「商人め」
彼は、書状を押し出した。
そして、立ち上がりかけて、止まった。
「ひとつ、訊いてよいか」
「どうぞ」
「貴殿は、うちを恨まんのか」
ルカは、少し考えた。そして、正直に答えた。
「恨みます」
男が、目を丸くした。
「三年半、妹は自分の家に帰れませんでした。九つで、値をつけられました」
ルカは言った。
「それは、消えません」
彼は、書状を手に取った。
「ですが、私はそれで、あなたの娘さんの目を暗くはしません」
彼は、頭を下げた。
「恨むことと、商売は、別です」
扉が閉まったあと、ルカはしばらく座っていた。
書状を、帳場の上に置いたまま。
ネルが、奥から出てきた。
「終わった?」
「終わった」
娘は、書状を覗き込んだ。読んで、そして、口を開けた。
「……終わったじゃん!」
「ああ」
「なんでそんな顔してんの!」
ルカは、答えなかった。
三年半だ。
三年半、この紙のために走ってきた。八十一枚を作り、使えず、峠を越え、法廷に立った。
その紙が、いま、目の前にある。
だが、彼は嬉しさより先に、別のことを考えていた。
ミナは、何と言うだろう。
九つで値をつけられ、十二になった妹は、いま何を思っているのか。
三年半、彼は妹の年齢を数えていた。だが、妹が何を考えているかは、数えていなかった。
彼は、書状を折って、懐に入れた。
「ネル」
「なに」
「明日、ソレル家に行く」
翌朝、ルカは白い門の前に立った。呼び鈴を鳴らす。
出てきたのは、あの女中だった。三年半で、髪に白いものが増えていた。
「ルカ様」
「叔父上に」
「……はい。少々」
扉が閉まりかけて、そして、止まった。女中が、振り返った。
「あの」
「はい」
「今日は、金貨は」
ルカは、少し笑った。
「持っていません」
女中は、しばらくルカの顔を見ていた。そして、初めて、笑った。
「どうぞ、お入りください」
応接間で、叔父は書状を三度読んだ。そして、震える手で、それを置いた。
「……百二十枚」
「はい」
「なぜ、こんな」
「あなたが、私に契約書を読ませたからです」
ルカは言った。
「それだけです」
男は、俯いた。肩が、震えていた。長い時間、そうしていた。
やがて、彼は掠れた声で言った。
「わしはな。三年半、お前が来るたびに、追い返そうとした」
「はい」
「追い返して、そのあと、庭に出て吐いた」
ルカは、何も言わなかった。
「姉に、顔向けできんと思っとった」
男は言った。
「いまも、思っとる」
彼は、顔を上げた。目が赤かった。
「ミナを、連れて行くか」
ルカは、頷いた。
「はい」
「そうか」
叔父は、立ち上がった。そして、扉に向かいかけて、振り返った。
「ルカ」
「はい」
「うちの灯りは、二台借りとる」
男は言った。
「先月からだ」
「知っています」
「……解約せんでくれ」
ルカは、少し笑った。
「しません」




