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二年で金貨五百枚 ~妹を買い戻すため、失われた魔法で商売を始める~  作者: 霧里 野蒜


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第25話 書いてある通りに

 その朝、商事裁判所の前に、四百人が並んでいた。役人が数えるのを諦めた。

 職人街の職人。下市の行商人。魔石屋の主人と、その女房と、小僧。灯りを借りている家の者たち。

 誰も声を上げなかった。ただ、立っていた。

 扉が開いたとき、フェルド判事は、その列を見た。

 そして、言った。

 「……扉は、開けたままにしなさい」

 証人尋問は、ヴェントから始まった。

 老人は、震える手を隠さずに証言台に立った。

 「氏名を」

 「ヴェントです」

 「職業を」

 「陣師です」

 「ラウ・ヴェントとの関係を」

 「曾孫です」

 法廷が、ざわめいた。

 ルカが立ち上がった。

 「ヴェントさん。あなたの家に、灯りの陣は伝わっていましたか」

 「伝わっとりません」

 「ひとつも?」

 「ひとつも」

 老人は言った。

 「祖父も、父も、陣を知らんかった。うちは、普通の陣師でした」

 「では、なぜ祖父上は、あなたに陣を描いて見せたのですか」

 ヴェントは、少し黙った。

 「死ぬ前に、一度だけ描きました」

 老人は言った。

 「『これが、うちが作っとった灯りだ』と。紙にではなく、指で、床に描いたんです」

 法廷が、静かになった。

 「祖父は、こう言いました。『書いたら、また来る』と」

 「二十二年前のことを、伺います」

 ルカは言った。

 「あなたは、組合から声をかけられましたか」

 「かけられました」

 「条件は」

 「『ヴェントの家に伝わる古い陣を、連合に提出せよ』と」

 「あなたは」

 「断りました」

 老人は言った。

 「持っとらんものは、出せませんから」

 「その後、何が起きましたか」

 ヴェントは、両手を持ち上げた。震える手を、法廷に向けて開いた。

 「三月後、帰り道に、四人に囲まれました」

 老人は言った。

 「何も訊かれんかった。両手を石に押しつけて上から踏まれました」

 法廷が、どよめいた。

 「骨は折れとりません。医者は『どこも悪くない』と言いました」

 ヴェントは言った。

 「その日から、線が引けんようになりました」

 セヴェルが、立ち上がった。

 「異議あり。証人の負傷と、本件の争点との関連が」

 「関連はあります」

 ルカは言った。

 「証人は、持っていない陣のために手を潰されました」

 彼は、フェルドを見た。

 「持っていない物のために人が襲われるのは、その物を恐れている者がいるからです。百二年前に禁じられ、二十二年前にもまだ恐れられていた。基準が何を封じたかったのかが、そこに表れています」

 フェルドは、しばらく黙っていた。

 「……異議を、却下します」

 次に、ヴァレンティが立った。

 法廷が、水を打ったように静まった。

 三十年、この街を握ってきた男が、証言台に立つ。誰も見たことのない光景だった。

 セヴェルの顔が、白かった。

 「氏名を」

 「バルド・ヴァレンティ」

 「職業を」

 「カルディア商会連合、理事です」

 フェルドが、ルカを見た。

 「原告、尋問を」

 ルカは、立ち上がった。

 そして、ひとつだけ訊いた。

 「理事」

 「はい」

 「百二年前、魔道具安全基準は、何のために作られましたか」

 沈黙は、長かった。

 法廷の四百人が、息を止めていた。

 ヴァレンティは、まっすぐ前を見ていた。

 そして、言った。

 「魔石が、売れなくなるからです」

 法廷が爆発した。

 怒号ではなかった。声にならない音だった。四百人が、いっせいに息を吐いた音だった。

 フェルドが、木槌を三度打った。

 「静粛に」

 ヴァレンティは、懐から紙を出した。

 「連合本部に保管されている、理事会議事録の写しです」

 書記が受け取り、判事に渡した。

 フェルドは、それを読んだ。

 一度。二度。

 そして、三度目を、ゆっくりと読んだ。

 判事の顔から、血の気が引いていくのが、傍聴席からも見えた。

 「……読み上げます」

 彼は、立ち上がった。

 「『理事バルサム・ヴァレンティより提案。近年、魔石消費の著しく少なき照明具が市中に流布し、加盟各社の魔石取扱高は前年比で三割四分の減となる。このまま推移せば、五年内に魔石卸は成り立たず、加盟四十七社のうち十一社が立ち行かぬ見込み』」

 彼は、そこで一度、息を継いだ。

 「『よって、魔道具の安全性を担保する基準を制定し、消費量の下限を定めることを提案する』」

 法廷は、静まり返っていた。

 「『理由書に安全上の懸念を記すことにつき、異議なし』」

 フェルドの声が、わずかに揺れた。

 「『賛成十一、反対〇』」

 セヴェルが、立ち上がった。

 「異議あり!」

 その声は、初めて余裕を失っていた。

 「当該文書は、連合の内部記録であり、証人が独断で持ち出したものです! 連合として提出したものではございません!」

 「私は理事です」

 ヴァレンティが言った。

 「連合の記録を持ち出す権限があります」

 「本件は連合が被告であり、証人はその理事です! 被告に不利な証拠を——」

 「セヴェル」

 老人が、初めてその名を呼んだ。

 「私は、証人として宣誓した」

 ヴァレンティは言った。

 「宣誓した者が偽りを述べたら、それは何になる」

 セヴェルの口が閉じた。

 「三十年、私は君に汚れ仕事をさせてきた」

 老人は言った。

 「済まなかったと思っている」

 彼は、判事を見た。

 「以上です」

 フェルドは、動かなかった。

 長い時間、判事は書面を見つめていた。

 法廷の誰も、声を出さなかった。

 やがて、彼は言った。

 「……原告に、確認します」

 ルカが、立ち上がった。

 「請求の趣旨は、基準第一条ないし第四条の無効確認と、過料の返還ですね」

 「はい」

 「基準が無効となれば、あなたの灯りは自由に作れる。同時に、他の者も自由に作れる」

 「はい」

 「あなたの商会は、この二年半で三千台を貸し出している。基準が無効になれば、連合は同じ品を作るでしょう」

 フェルドは言った。

 「それでも、無効を求めますか」

 ルカは、答えた。

 「求めます」

 「なぜ」

 「基準が有効なままなら、私だけが灯りを作れます」

 ルカは言った。

 「連合は作れない。私は罰金を払い続けながら、この街の灯りを独り占めできます」

 法廷が、ざわめいた。

 「三千台の罰金は、年に金貨九十四枚です。うちの賃料収入は、月に二十六枚」

 ルカは言った。

 「払えます。払い続けて、私はこの街でただ一人の灯り屋になれます」

 彼は、まっすぐ判事を見た。

 「それが、百二年前に彼らがやったことです」

 法廷が、静まり返った。

 「一つの家だけが灯りを作れる。他は作れない。それを法で決める」

 ルカは言った。

 「向きが逆なだけで、同じことです」

 彼は、少し息を吸った。

 「私は、灯りを売る商売をしています。ですが、灯りを独占する商売はしません」

 フェルドは、長いこと少年を見ていた。

 そして、書面に目を落とした。

 「本件、審理を終える」

 判事は言った。

 「判決は、七日後」


 七日後。

 法廷に入りきらない人々が、通りまで溢れていた。

 フェルドは、法壇に立ち、判決文を読んだ。

 「主文」

 法廷が、静止した。

 「一、魔道具安全基準第一条ないし第四条は、無効であることを確認する」

 声にならない音が、法廷を走った。

 「二、被告は、原告に対し、銀貨九千四百二十枚を支払え」

 木槌が、鳴った。

 判事は、そこで書面を置いた。

 そして、顔を上げた。

 「以下、理由を述べる」

 法廷が、また静まった。

 「本基準の認可には、条件がある。『市中の安全に資する限りにおいて認可する』」フェルドは言った。「したがって、本基準が安全に資するものでなかったとすれば、認可の効力は初めから生じていない」

 彼は、議事録の写しを持ち上げた。

「制定者は、制定の理由を、自ら記録に残している。魔石の売上減である。安全上の懸念は、理由書に記すために作られたものである」

 判事は、書面を置いた。

 「よって、本基準は、認可の条件を欠く」

 彼は、そこで一度、口を閉じた。

 そして、続けた。

 「なお」

 法廷が、ざわついた。判決理由に「なお」がつくのは、異例だった。

 「本件審理において、記録院地下第三棚、目録番号一一四七番の文書が紛失していることが判明した」

 フェルドは言った。

 「三十年前の書架整理によるものとされる」

 彼は、顔を上げた。

 「当時の記録院長は、私の伯父である」

 法廷が、どよめいた。

 「私は、この事実を、判決に記す」

 判事は言った。

 「記録は消えても、消えたという記録は残る。それが記録院の役目である」

 彼は、木槌を取った。

 「閉廷」


 通りに出たとき、四百人が待っていた。

 誰も、歓声を上げなかった。

 ただ、ルカが扉から出てきたとき、一番前にいた老人が——刃物研ぎのゴードが、帽子を取った。

 それを見て、隣の男が帽子を取った。

 その隣も。その隣も。

 石畳の上で、四百の帽子が、いっせいに取られた。

 ルカは、階段の上で立ち止まった。

 何か言おうとして、言葉が出てこなかった。

 隣で、ヴェントが震える手で自分の帽子を取ろうとして、うまくいかず、諦めた。

 老人は、代わりに空を見上げた。

 「じいさん」

 小さな声だった。ルカにしか聞こえなかった。

 「百二年、かかった」

 その夜、店は開かなかった。

 代わりに、通りに酒樽が出された。ドーラが仕切り、バルサが金を出した。

 職人が来た。行商人が来た。魔石屋が来た。サドウは息子を連れてきた。ハーサが峠を越えて来ていた。

 イルマは、記録院の書記長ヤコブと並んで座り、二人で何度も乾杯していた。

 ネルが、酔った大人たちの間を縫って帳面をつけていた。誰が何を飲んだかを数えているらしい。トトは、樽の陰で子供たちと騒いでいた。

 ルカは、その輪の少し外に立っていた。

 「小僧」

 ドーラが、盃を押しつけてきた。

 「飲みな」

 「十七です」

 「今日くらい飲みな」

 彼は、少しだけ舐めた。喉が焼けた。

 「なあ」

 ドーラが言った。

 「これで、終わりかい」

 ルカは、首を振った。

 「まだです」

 「そうかい」

 「金貨四百三十一枚」

 ルカは言った。

 「一年半、かかります」

 女は、盃を傾けた。

 「一年半だね」

 「はい」

 「じゃあ」

 ドーラは言った。

 「一年半後に、もう一回やろうか」

 ルカは、輪を抜けて、坂の上に出た。

 夜の街が、下に広がっていた。

 職人街が白い。下市が白い。上市の外れが白い。魔石灯の橙色は、まだ大通りに残っている。それはそれで、悪くない眺めだった。

 そして、丘の上を見た。

 白い点が、一つ、灯っていた。

 ヴァレンティの屋敷だった。

 ルカは、しばらくそれを見ていた。

 それから、東を見た。

 灰色の建物が、闇の中にある。債務者牢だ。

 明かりは、一つもなかった。

 彼は、そこをまっすぐ見た。

 金貨四百三十一枚。

 一年半。

 三年前、坂を下りながら六十八年と計算した少年は、いま、一年半後の日付を数えていた。

 そして、その先も、数えていた。

 鉱山の八百人。ミナの婚約。サイカの町。まだ十一軒残っている魔石屋。三十年、この街が新しくならなかったという老人の言葉。

 終わりではない。

 彼は、外套の襟を立てた。

 背後で、通りの騒ぎが続いている。誰かが歌い出し、誰かが笑い、樽が転がる音がした。

 ルカは、坂を下りはじめた。

 明日も、店は日没に開く。

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