第24話 二人の帳面
バルド・ヴァレンティは、供を連れずに来た。
夜半、店を閉めたあと。通りに人はなく、上市の魔石灯はすべて消えている。扉が開いたとき、その男は、地味な外套を着た老人にしか見えなかった。
「夜分に」
「どうぞ」
ルカは、帳場の前に椅子を二つ置いていた。灯りは、二人の間の机に一台だけ。
理事は、店内を見回した。
棚。作業台。壁に掛かった帳面。奥に積まれた鋼の板。
「小さいな」
「はい」
「三千台を貸している商会の店とは思えん」
ヴァレンティは椅子に座った。
「大きくせんのか」
「大きくすると、潰れたときに、たくさんの人が沈みます」
老人は、それを聞いて、少し笑った。
「父上のことか」
「はい」
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、ヴァレンティが言った。
「私は明後日、証人として法廷に立つ」
「はい」
「君は、私に何を訊く気だ」
「ひとつだけです」
ルカは言った。
「『百二年前、基準は何のために作られたか』」
理事は、頷いた。
「答えは、知っているだろう」
「はい」
「では、なぜ訊く」
「あなたが、答えるからです」
老人の目が、細くなった。
「私が嘘をつくとは思わんのか」
「思いません」
ルカは言った。
「あなたは一度も、私に嘘をついていません」
「買いかぶりだ」
「いいえ」
ルカは言った。
「あなたは、嘘をつく必要がなかっただけです。この街では、本当のことを言っても、あなたが負けなかったからです」
ヴァレンティは、答えなかった。
そして、言った。
「その通りだ」
理事は、机の上の灯りを見た。
白い光が、二人の顔を等しく照らしていた。皺も、隈も、指の傷も。
「よくできている」
「ありがとうございます」
「君の陣師は、震える手で、これを刻むそうだな」
「はい」
「私が、二十六年前に『預かる』と言った男だ」
ルカは、動かなかった。
「あのときの使いは、私が出した」
ヴァレンティは言った。
「私は三十二だった。理事になったばかりでな。父から引き継いだ帳面に、『ヴェント家、要監視』と書いてあった」
彼は、指を組んだ。
「意味はわからんかった。だが、書いてあるから、そうした」
「監視して、どうするつもりだったのですか」
「わからん」
理事は言った。
「本当だ。わからんまま、二十六年やってきた」
彼は、少し笑った。乾いた笑いだった。
「君が来て、初めて調べた。半年前だ」
ルカは、顔を上げた。
「議事録を読まれたのですか」
「読んだ」
「では」
「消したのは私ではない」
ヴァレンティは言った。
「三十年前だ。私は理事ですらなかった」
彼は机を見た。
「読んだのは、写しだ。連合の本部に一部ある。理事しか触れん」
ルカの喉が鳴った。
「ではいま」
「持ってきた」
理事は、懐から一枚の紙を出した。
そして、机に置いた。
ルカは、それを見た。
『連合理事会 議事録 百二年前 第十一回』
見覚えのある文面だった。イルマが記録院から持ち出した写しと、一字も違わない。
魔石の売上が三割四分減った。五年で十一社が立ち行かぬ。よって基準を制定し、消費量の下限を定める。
理由書に安全上の懸念を記すことにつき、異議なし。
賛成十一、反対〇。
ルカは、その紙を長いこと見つめた。
そして、顔を上げた。
「……なぜ」
「明後日、法廷でこれを出す」
ヴァレンティは言った。
「私が、証人として」
「理事」
「言っておくが、君のためではない」
老人は言った。
「私は、負けに来たのではない」
彼は、身を乗り出した。
「取引に来た」
「条件は、三つだ」
理事は、指を折った。
「ひとつ。基準は、無効になる。私が証言すれば、フェルドは無効と判断せざるを得ん。あの男は、書いてある通りにしか読めんからな」
「はい」
「ふたつ。基準が無効になれば、灯りは誰でも作れる。連合も作る」
ヴァレンティは言った。
「君の陣を真似た品が、半年で市場に出る。それを止める権利は、君にはない」
ルカは、頷いた。
「承知しています」
「みっつ」
理事は、少し間を置いた。
「魔石屋を、四十軒とも君に渡す」
ルカが、動きを止めた。
「連合の取次制度を、やめる」
ヴァレンティは言った。
「四十軒には、好きな相手と組めと言う。君のところへ行くだろう。君のほうが条件は悪いが、品が良い」
「……なぜ」
「引き換えに、ひとつ求める」
老人は、まっすぐルカを見た。
「君に、理事になってもらう」
店の中が、静かになった。
「断ったはずです」
「あのときは、権利を売れと言った」
ヴァレンティは言った。
「今度は違う。権利は君のものだ。君ごとこちらに来い」
「同じことです」
「同じではない」
理事は、机を叩いた。初めて、その声に熱があった。
「君は、四十軒を落とした。百四十一人が食っている。その数字は見た」
老人は言った。
「見事だ。だが君は、四十七社のうち、魔石小売の四十軒しか見ていない」
ルカは、口を開けた。
「卸が七社ある」
ヴァレンティは言った。
「その七社の下に、荷役が四百人いる。倉番が八十人いる。峠道の宿が十一軒、それで食っている。魔石を掘る鉱山が三つ、そこに千二百人いる」
彼は、指を折り続けた。
「君の灯りが街に行き渡れば、この人々の仕事が消える。君の商売には、この人たちを吸収する先がない」
「取次を増やせば」
「増やしても、四十軒だ」
理事は遮った。
「街に必要な取次は四十軒で足りる。荷役四百人は要らん。倉番も要らん。峠の宿も、魔石を運ばんのなら閑古鳥だ」
ルカは、答えられなかった。
「君は正しい。灯りは正しい」
ヴァレンティは言った。
「だが正しい物が広まるとき、必ず誰かが要らなくなる」
彼は、椅子に座り直した。
「私は三十年、それを遅らせてきた。遅らせたのは、代わりの仕事を作れんかったからだ」
ルカは、長いこと黙っていた。
そして、言った。
「理事」
「なんだ」
「ひとつ、伺います」
「どうぞ」
「あなたは、なぜ私に来てほしいのですか」
ルカは言った。
「基準を守るなら、私を潰せばいい。あなたにはできる」
ヴァレンティは、答えなかった。
そして、しばらくしてから言った。
「三十年、遅らせた」
「はい」
「遅らせている間に、私は何も作らんかった」
老人は言った。
「魔石屋を守り、卸を守り、荷役を守り、鉱山を守った。一人も飢えさせんかった。それは誇っていい」
彼は、白い光を見た。
「だが、この街は三十年、何も新しくならんかった」
ルカは、動かなかった。
「君の灯りを見た夜、私は窓から白い点を数えた」
ヴァレンティは言った。
「九つあった。三十年ぶりに、この街で見たことのない光だった」
彼は、目を上げた。
「あれは、私が潰した光だ。三十年、誰にも作らせんかった光だ」
老人は、言った。
「私は、間違っていたのかもしれん」
ルカは、椅子から立ち上がった。
そして、帳場の奥から、一冊の帳面を持ってきた。
机に置く。
「これは」
「取次店の帳面です」
ルカは言った。
「二十九軒分。誰が、どの区を、何軒回っているか」
彼は、頁をめくった。
「サドウ灯店。第七区。三百二十軒」
「知っている」
「サドウさんは、いま息子と二人で回っています」
ルカは言った。
「三百二十軒を、月に一度」
彼は、指を置いた。
「回りきれていません。実際に集金できているのは、二百四十軒です」
ヴァレンティが、眉を寄せた。
「残り八十軒は」
「取りこぼしています」
ルカは言った。
「街全体では、三千百四十件のうち、四百件ほどが未収です。取次店の手が、足りていません」
彼は、顔を上げた。
「荷役が四百人、要ります」
老人が、動きを止めた。
「灯りは、貸し物です」
ルカは言った。
「三千台が街にあるということは、三千台が壊れるということです。修理に出し、代わりを届け、また戻す。運ぶ仕事が、毎日あります」
彼は、帳面をめくった。
「いま、この街に灯りが三千台。二年後に一万二千台。壊れるのが年に一割としても、千二百台が動きます。運ぶ人が要ります」
「倉番は」
「要ります」
ルカは言った。
「修理待ちの品を置く倉が要ります。うちの店の裏ではもう入りません」
「峠の宿は」
「サイカから鋼を運びます」
ルカは言った。
「いま荷車が七台。二年後には月に二十台になります。魔石より、鋼のほうが重い」
ヴァレンティは、口を開けたまま、動かなかった。
「鉱山の千二百人は」
ルカは、そこで初めて、言葉を止めた。
「……そこが、いま、答えのないところです」
彼は、正直に言った。
「魔石鉱山の人が、そのままアルヴァ鋼を掘れるとは限りません。山が違います。場所も違う」
ルカは言った。
「サイカが受け入れられるのは、せいぜい四百人です。ハーサさんに訊きました」
「残り八百人は」
「わかりません」
ルカは言った。
「二年、考えます」
ヴァレンティは、長いこと帳面を見ていた。
そして、静かに言った。
「君は、私が三十年やらんかったことを、二年半でやったのだな」
「いいえ」
ルカは言った。
「あなたが三十年、誰も飢えさせなかったから、いま渡す先の人がいるんです」
老人が、顔を上げた。
「三十年前に魔石屋が全部潰れていたら、私はいま、二十九軒の帳面を持っていません」
ルカは言った。
「サドウさんの二十二年分の帳面もなかった」
彼は、机の上の紙を見た。
「あなたが守った人たちを私が引き受けます」
ヴァレンティは、動かなかった。
その顔から、初めて、理事の顔が消えていた。
やがて、老人は言った。
「理事の話は断るな」
「断ります」
「なぜだ」
「理事になれば、私が判を押す側になります」
ルカは言った。
「四十七社の代表として、誰かを守り、誰かを潰す判を押すことになる」
彼は、首を振った。
「私は、まだ十七です」
「若さは理由にならん」
「はい」
ルカは言った。
「ですから、本当の理由を言います」
彼は、まっすぐ言った。
「私は、まだ両親を出していません」
ヴァレンティが、息を呑んだ。
「残債、金貨四百三十一枚。私はいま、月に二十六枚の賃料収入があります。一年半で返せます」
ルカは言った。
「返し終わるまで、私は借金取りに追われている商人です。その男が理事になれば、連合の名で借金を消せる」
彼は、言った。
「それをやったら、私は父を裏切ります」
老人は、長いこと黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……そうか」
彼は、立ち上がった。
「明後日、証言する」
「はい」
「取引は、成立せんな」
「ひとつだけ、成立します」
ルカは言った。
「魔石屋四十軒の件です」
「理事の話は断ると言ったろう」
「はい」
ルカは言った。
「ですが、あの四十軒は、あなたが渡さなくてもいずれうちに来ます」
ヴァレンティが、扉の前で振り返った。
そして、笑った。
三十年、この街を握ってきた男が心から笑った顔だった。
「……その通りだ」
扉が閉まる前に、ルカは声をかけた。
「理事」
「なんだ」
「もうひとつだけ」
ルカは、机の上の灯りを持ち上げた。
そして、老人に差し出した。
「持って帰ってください」
ヴァレンティは、それを見た。
長い時間、見ていた。
「……いくらだ」
「貸します。月に銀貨二枚です」
「買わせろ」
「売っていません」
老人は、少し笑った。
そして、灯りを受け取った。
震えてはいなかった。だが、その手は、ひどくゆっくりと動いた。
「丘の上は、まだ橙色でな」
「知っています。毎晩、見ていました」
「そうか」
ヴァレンティは、灯りを抱えて扉を出た。
そして、夜の通りで、一度だけ振り返った。
「クレイン殿」
「はい」
「君の父上に、会ってみたかった」
扉が閉まった。




