第23話 九日
第一回の期日は、訴状受理から九日後だった。
「百二年前と同じだ」ネルが言った。
「同じにするつもりだろう」
ルカは言った。
「九日で結審して、判決を出す」
商事裁判所は、上市の中心にある古い石造りの建物だった。傍聴席は三十席ほどしかない。
その三十席が、埋まっていた。
イルマがいた。マルタがいた。ゴードがいた。サドウがいた。下市のケイソと、行商人が四人。ドーラとバルサが最前列にいた。
そして、席に入りきらない者たちが、廊下に立っていた。
書記が、困った顔で数えていた。
「……百人を超えております」
オルモ・フェルドは、六十がらみの男だった。
痩せて、背が高い。所作が静かで、声も静かだった。
彼は、法壇に着くと、まず傍聴席を見た。
「傍聴は三十名までです。廊下の者は退去させなさい」
役人が動きかけた。そのとき、廊下から声が上がった。
「公開の審理だろう!」
誰かが叫んだ。別の誰かが続いた。
「入れんのなら、扉を開けとけ!」
フェルドは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「扉を、開けておきなさい」
審理は、被告の答弁から始まった。
連合の代理人は、セヴェルだった。
「原告の請求は、失当でございます」
男は淀みなく述べた。
「魔道具安全基準は、百二年前に領主府の認可を受けた正当な規則であり、以後百二年、一度も無効とされておりません。百二年間有効であった規則が、なぜ今日無効になるのか。原告はそれを説明できておりません」
彼は、書面を置いた。
「以上でございます」
フェルドが、ルカを見た。
「原告」
ルカは、立ち上がった。
「認可の条件を、読み上げます」
彼は、写しを開いた。
「『本基準は、市中の安全に資する限りにおいて認可する』」
彼は、顔を上げた。
「認可には、条件がついています。安全に資すること。この条件を満たしていなければ、認可の効力は初めから生じていません」
「原告」
フェルドが言った。
「基準は、安全のために作られたものです」
「そう書いてあります」
ルカは言った。
「書いてあるだけです」
法廷が、ざわめいた。
セヴェルが立った。
「原告は、基準の目的が安全でなかったと主張されるのですか」
「はい」
「根拠は」
「制定した者たちが、そう書き残しています」
「どこにでございますか」
ルカは、紙を出した。
「記録院地下第三棚、目録番号一一四七番。標題『カルディア商会連合 理事会議事録 第十一回』。日付、百二年前・霜月三日」
法廷が、静かになった。
「この文書の提出を、求めます」
セヴェルは、答えなかった。
フェルドが、口を開いた。
「原告は、その文書の内容を知っているのですか」
ルカは、その質問の意味を理解した。
知っていると答えれば、無許可閲覧を問われる。
彼は、まっすぐ答えた。
「知りません」
「では、なぜその文書が必要だと」
「目録に、標題があります」
ルカは言った。
「『第十一回』の議題が何であったかは、目録には載っていません。ですが、基準の制定日は、その四日後です」
彼は、日付を並べた。
「制定の四日前に、連合理事会が開かれている。その記録が、記録院にある」
ルカは言った。
「基準が安全のために作られたのなら、その議事録には安全の議論が書いてあるはずです」
彼は、フェルドを見た。
「書いてあるなら、被告に有利な証拠です。被告は、なぜ自ら提出しないのですか」
セヴェルの沈黙は、七呼吸ほど続いた。
それは、この男が初めて見せた長い沈黙だった。
やがて、彼は言った。
「当該文書は、連合の内部記録でございます。提出の義務はございません」
「記録院にあります」
ルカは言った。
「記録院は、連合の建物ではありません」
「保管を委ねているにすぎません」
「では、返却を求めればよろしい」
ルカは言った。
「返却して、この場で読み上げてください」
「必要を認めません」
「必要を認めないのは、中身をご存じだからですね」
「異議あり」
セヴェルの声が鋭くなった。
「憶測でございます」
「認めます」
フェルドが言った。
「原告は、憶測を述べないように」
ルカは、頭を下げた。
そして、座った。
それでよかった。
傍聴席の百人が、いま何を思ったか。それだけで充分だった。
フェルドは、しばらく書面を見ていた。
そして、言った。
「文書提出の申立てにつき判断します」
法廷が、静まり返った。
「本件の争点は、基準の有効性であります。基準の制定過程は、争点に関連します」
セヴェルが、顔を上げた。
「よって——」
判事は、そこで一度、言葉を切った。
長い、不自然な間だった。
ルカは、その顔を見ていた。
この人は、迷っている。
「よって、当該文書の提出を命じます」
セヴェルの手から筆が落ちた。
傍聴席が、どよめいた。
「静粛に」フェルドは言った。
「提出期限は、次回期日まで。次回は、十日後とします」
彼は、木槌を置いた。
「本日は、これまで」
廊下で、ルカは百人に囲まれた。
「勝ったのか?」
「まだです」
「けど、あの判事、出せって言ったろう!」
「はい」
ルカは言った。
「ですが、フェルドは連合側の家です。なぜ命じたのか、わかりません」
イルマが、腕を組んだ。
「わからないのは、危ないよ」
「はい」
「けどね」
老女は言った。
「あんた、あの人の顔を見たかい」
「見ました」
「あたしはね、四十年、記録院であの手の顔を見てきたよ」
イルマは言った。
「書いてあることを、書いてある通りにしか読めない人間の顔だ」
十日後。
議事録は、提出されなかった。
代わりに、記録院から回答書が届いていた。
『目録番号一一四七番の文書は、紛失している。』
法廷が、爆発した。
怒号が上がった。役人が制止した。ルカは動かなかった。
フェルドが、木槌を三度打った。
「静粛に」
そして、回答書を読み上げた。
「『三十年前の書架整理の際、所在不明となったものと思われる。以後の目録には記載が残るが、現物は確認されていない』」
判事は、書面を置いた。
「原告。何かありますか」
ルカは、立ち上がった。
そして、少し間を置いてから、言った。
「……ございません」
セヴェルが、わずかに眉を動かした。
「では」
「ひとつだけ、別の申立てがございます」
ルカは、紙を出した。
「証人尋問を申請します」
「証人は」
「二名」
ルカは言った。
「一人目、ヴェント。陣師。百二年前の被告、ラウ・ヴェントの曾孫です」
法廷がざわめいた。
「二人目」
ルカは顔を上げた。
「カルディア商会連合 理事、バルド・ヴァレンティ」
セヴェルが、立ち上がった。
「異議あり。理事は本件の当事者であり、証人適格を——」
「被告は、連合という商会でございます」
ルカは言った。
「理事個人は、当事者ではありません」
「実質的に」
「実質は問いません」
ルカは言った。
「書いてある通りに読めば、そうなります」
フェルドの目が、初めてルカを正面から見た。
判事は、長い間、黙っていた。
そして、言った。
「両名の尋問を、許可します」
その夜、店は静かだった。
ヴェントが、いつもの場所で針を持っていた。
ルカは、その隣に座った。
「議事録は、消えました」
「消したんだろう」
「三十年前に紛失したと言っています」
ルカは言った。
「三十年前の書架整理を担当したのは、当時の記録院長です。名を調べました」
「誰だ」
「フェルド家の縁者です」
老人は、鼻を鳴らした。
「予想通りか」
「はい」
ルカは言った。
「ですが、フェルドは提出を命じました。命じた記録は残ります」
彼は、板を見た。
「命じた判事の家が、三十年前に消していた。この二つが、同じ書面に残ります」
ヴェントは、針を置いた。
「小僧。証拠がないぞ」
「はい」
「議事録がなけりゃ、『安全のためではなかった』と言い切れん」
老人は言った。
「わしの証言は、家の話だ。手を潰されたのは四十年前で、基準の話とは別だ」
「はい」
「じゃあ、どうする」
ルカは、しばらく黙っていた。そして、言った。
「ヴァレンティさんに話していただきます」
老人が、顔を上げた。
「あの男が喋るか」
「喋ります」
ルカは言った。
「あの人は、嘘をつきません」
「なんだと」
「一度もつかれていません」
ルカは言った。
「『魔石が売れなくなるから基準を作った』と、私に言いました。『ヴェントを預かる』とも言いました。隠しますが、嘘はつかない」
彼は、紙を見た。
「あの人は、自分が正しいと思っています。三千人を守っていると」
ヴェントは、しばらく黙った。
「……正しいのか」
「正しいです」
ルカは言った。
「私は、それに答えを出しました。ですが、まだ足りません」
「足りん?」
「四十軒のうち、二十九軒です」
彼は、立ち上がった。
「残り十一軒を、次の期日までに落とします」
期日まで、十四日あった。
ルカは、寝なかった。
十一軒のうち、四軒は大通りの大店だった。ここは動かない。連合の中核だ。
残る七軒に、彼は毎日通った。
条件は出さなかった。金の話もしなかった。
代わりに、こう言った。
「次の期日に、傍聴に来てください」
「なんでだ」
「見ていただきたいものがあります」
七軒のうち、五軒が首を横に振った。
二軒が、来ると言った。
そして、期日の三日前。
ルカのもとに、一通の手紙が届いた。
差出人の名を見て、彼は手が止まった。
バルド・ヴァレンティ。
短い手紙だった。
『クレイン殿
証人として出廷せよとのこと、承知した。
出廷の前に、一度お会いしたい。
貴殿の店に、私から伺う。
明日の夜、店を閉めたあとに。』
ルカは、その手紙を長いこと見つめた。
そして、ネルを呼んだ。
「明日の夜、店を閉めたら、みんな帰らせてくれ」
「なんで」
「客が来る」
「客?」
ルカは手紙を畳んだ。
「灯りを一台、用意しておいてくれ」




