第19話 地面と壁
セヴェルは、雨の日に来る男だった。
その日も雨だった。黒い外套の肩を濡らして、男は白い光の中に立ち、いつもの穏やかな声で言った。
「二通、お持ちしました」
帳場に紙が置かれた。
一通目。
『下市第三区ないし第十七区に設置された照明用支柱十四基は、組合の管理地に無許可で設置されたものである。三日以内に撤去されたい。従わぬ場合、組合において撤去し、費用を請求する。』
二通目。
『上市登録商クレインは、組合規約第八条に定める区域外営業の疑いがある。理事会において登録の適否を審査する。保証人二名の出頭を求める。』
ルカは、二通目を二度読んだ。
「保証人が、なぜ出頭を」
「保証人は、被保証人の行状につき責を負います」セヴェルは微笑んだ。「クレイン殿の登録が取り消された場合、保証人にも相応の処分が及びます。ドーラ魔道具店の登録、および仲買バルサの鑑札につきまして」
ルカの指が、紙の上で止まった。
それが本命だった。
柱の撤去は、嫌がらせにすぎない。二通目こそが刃で、しかも刃先はルカではなく、判を押した二人に向いていた。
「セヴェルさん」
「はい」
「これは、私を潰すための書類ではありませんね」
男は、少しだけ首を傾げた。
「私に、判を押してくれる人間を、二度と作らせないための書類です」
セヴェルの表情は、変わらなかった。
だが、彼は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「上等じゃないか!」
バルサが吼えた。倉庫の樽が震えた。
「二十年連合の犬をやって、最後に鑑札を取り上げられるってか! やれるもんならやってみやがれ!」
「バルサさん」
「怒鳴らせろ! 一回怒鳴ったら落ち着く!」
男は肩で息をして、それから座り込んだ。
「……で、勝てるのか」
「勝てます」
ルカは言った。
「二通とも、答えは出ています」
ドーラが、帳場から顔を上げた。この人は、書類が来てから一言も動じていなかった。
「言ってごらん」
「一通目。柱は、組合の地面に立っています」
ルカは言った。
「ですから、地面から離します」
「離す?」
「下市の通りは、両側が建物の裏です」
ルカは地図を広げた。
「壁は、その建物の持ち主のものです。組合の地面ではありません」
ドーラが、目を丸くした。
「……壁に、吊るすのかい」
「はい。三十軒に、月銅貨十枚で、壁の金具一つ分を借ります」
ルカは言った。
「月に銀貨三枚。安いものです」
バルサが、口を開けた。
「待て。じゃあ組合が撤去しようとしたら」
「他人の家の壁から、私物を外すことになります」
ルカは言った。
「それは、組合の権限ではありません。三十人の家主に、いちいち承諾を取らねばならない」
「取ったら?」
「取らせません」ルカは言った。
「壁を貸してくれた三十軒には、灯りを一台、無償で貸します」
「二通目です」
ルカは、規約の写しを開いた。
「第八条。登録商は、登録区域外において営業してはならない」
「下市に灯りを貸しとるだろうが」
バルサが言った。
「四百三十二件だぞ」
「では、営業とは何かを見ます」
ルカは条文を指した。
「第八条の但し書きにこうあります。『営業とは、当該区域内において取引を成立させることをいう』」
「取引を、成立させる」
「はい。契約を結ぶ場所の話です」
ルカは言った。
「品物がどこにあるかは、書いてありません」
ドーラが、ゆっくりと身を乗り出した。
「つまり」
「下市で契約を結ばなければいい」
ルカは言った。
「うちの店に来ていただいて、そこで判を押していただきます。灯りも店で受け取っていただく」
「四百三十二人が、上市まで来るのかい」
「来ます」
ルカは言った。
「うちの店は、夜しか開いていません。下市の人が上市に来られる、唯一の時間です」
三日で、事は動いた。
ネルが仕切った。
下市の四百三十二人に、通りごとに順番を割り振り、夜ごとに三十人ずつ店に呼ぶ。ルカが説明し、契約書に判を押させ、灯りを渡す。渡した灯りを、その足で下市へ持ち帰ってもらう。
書類の上では、四百三十二件すべてが、上市のクレイン商会店頭で成立した取引になった。
同時に、下市の三十軒の家主と、壁の賃貸契約を結んだ。
十四本の柱は、三日目の夕方に抜かれた。
そして同じ夜、十四の灯りが、建物の壁の高いところに掛け直された。
光の位置は、地面から測って、ほとんど同じだった。
理事会は、七日後だった。
長い机に、六人の理事。中央にバルド・ヴァレンティ。
ルカ、ドーラ、バルサの三人が、机の手前に立たされた。
セヴェルが、朗々と読み上げた。
「クレイン商会は、下市第三区ないし第十七区において、多数の市民と賃貸契約を結んでおります。これは明白な区域外営業であり——」
「契約書の写しは、提出しております」
ルカが言った。
理事の一人が、書類をめくった。
そして、眉を寄せた。
「……全件、上市クレイン商会店頭にて締結、とありますな」
「はい」
「四百三十二件、全部が、か」
「はい」
セヴェルの声が、初めてわずかに強張った。
「品物は下市にございます」
「第八条に、品物の所在は書かれておりません」
ルカは言った。
「もし品物の所在で区域を判断するなら——上市の店が下市の行商人に売った品も、区域外営業になります」
理事たちが、顔を見合わせた。
「上市の魔道具屋は、下市に型落ち品を流しています。三百年、そうしています」ルカは言った。
「私が違反なら、上市の四十七社すべてが違反です」
沈黙が落ちた。
理事の一人が、咳払いをした。
「……理事、これは、その」
「柱の件はどうなった」
ヴァレンティが、初めて口を開いた。
セヴェルが答えた。
「三日以内に撤去されております。ただし現在、灯りは民家の外壁に設置されておりまして」
「壁は誰のものだ」
「家主のものでございます」
「では、組合の管轄ではないな」
「……はい」
ヴァレンティは、書類を閉じた。
「本件、審査を終える」
理事は言った。
「クレイン商会の登録は、これを維持する。保証人二名につき、処分はない」
バルサが、大きく息を吐いた。
ドーラは、まっすぐ前を見たまま、微動だにしなかった。
「クレイン殿」
三人が退出しかけたとき、ヴァレンティが呼び止めた。
「少し、残ってもらえるかね」
部屋には、二人だけになった。
理事は立ち上がり、窓辺に寄った。
昼のカルディアが、そこにあった。上市の屋根が並び、坂が下り、川があり、その向こうに東の丘が見える。
「座りたまえ」
ルカは、座らなかった。
ヴァレンティは、それを咎めなかった。
「君は、規則をよく読む」
「はい」
「私が三十年で会った商人の中で、規則を最後まで読む男は、四人だ」
理事は振り返った。
「うち三人は、いま連合の理事をしている」
「四人目は」
「君だ」
沈黙があった。
「単刀直入に言おう」
ヴァレンティは言った。
「君の灯りを、連合が買い取りたい」
ルカは、動かなかった。
「陣の権利。製法。職人。すべてだ」
理事は言った。
「連合は君を理事として迎える。年に金貨三百枚を保証する。十七歳の理事は前例がないが、前例は作ればいい」
「……お断りします」
「まだ条件を言っていない」
ヴァレンティは、机に戻り、一枚の書類を置いた。
ルカは、それを見た。
そして、息が止まった。
『エイム・クレインおよびリナ・クレインに係る債務金貨四百三十一枚につき、カルディア商会連合がこれを代位弁済し、両名の身柄を解放する。』
日付が、空白になっていた。
「明日にでも、判を押せる」ヴァレンティは静かに言った。「明後日には、君の両親は家に帰れる」
部屋の中の空気が、なくなったようだった。
ルカは、その紙を見つめていた。
四百三十一枚。
彼が二年半、毎月一日も欠かさず窓口に運んできた金。あと何年かかるかを、毎晩板に書いてきた数字。
明後日。
「なぜ」
ルカは、掠れた声で言った。
「なぜ、いまですか」
「いまでなければ意味がないからだ」
ヴァレンティは言った。
「一年前の君なら、金がなかった。二年後の君なら、自分で払える。いまの君だけが、これを欲しがる」
正確だった。
この男は、正確に人を測る。
「ひとつ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ、灯りが要るのですか」
ルカは言った。
「連合は、灯りを潰したいはずです。買い取って、しまい込むおつもりですか」
ヴァレンティは、少し笑った。
「そう思うかね」
「百年前は、そうしました」
理事の目が、わずかに動いた。
「ほう。そこまで調べたか」
「はい」
「では、話が早い」
ヴァレンティは、窓の外を指した。
「あの街に、魔石を扱う商会が四十七ある」
理事は言った。
卸が七社、小売が四十社。働いている者は、家族を入れて三千人ほどだ」
ルカは、動かなかった。
「君の灯りが街に行き渡れば、魔石は売れなくなる。三千人が、職を失う」
ヴァレンティは静かに言った。
「百年前、私の曾祖父が基準を作ったのは、そのためだ。議事録を読んだのなら、書いてあっただろう」
「書いてありました」
「隠さなかったのだ。当時は、それが正しいと信じていたからな」
理事は言った。
「そして私も、いまだにそう信じている」
彼は、ルカを見た。
「君は、正しい」
ルカは、顔を上げた。
「君の灯りは、優れている。魔石を食わず、揺れず、職人の目を救う。私はあれを見た。あれが街を明るくするのが、この街にとって良いことだというのは、疑いようがない」
ヴァレンティは、言った。
「だが、君は三千人の食い扶持のことを、一度でも考えたかね」
ルカは、答えられなかった。
「君は職人を四百人救った。立派だ」
理事は言った。
「私は、三千人を守っている。どちらが正しいか、君は言えるかね」
「……」
「言えまい。私にも言えん」
ヴァレンティは、書類を指で押した。
「だから、買い取ると言っている。連合が権利を持てば、二十年かけて、ゆっくり切り替えられる。魔石屋を少しずつ灯り屋に変えていける。誰も飢えん」
彼は言った。
「君が一人でやれば、五年で済む。だが五年で切り替えれば、三千人は間に合わん」
正論だった。
反論を、ルカは持っていなかった。
「両親と、三千人だ」
ヴァレンティは言った。
「両方が手に入る。差し出すのは、君の手柄だけだ」
ルカは、長い間、黙っていた。
窓の外で、鳶が鳴いた。
やがて、彼は言った。
「ひとつだけ、確かめさせてください」
「どうぞ」
「私が権利を渡したあと、ヴェントは、どうなりますか」
ヴァレンティの動きが止まった。
一瞬だった。ほんの一瞬、その老練な顔から表情が抜けた。
そして、彼は答えた。
「連合が預かる」
ルカは目を閉じた。
預かる。
二十六年前、父に向かって、この家の使いが言った言葉と、一字も違わなかった。
父は三日考えて、断った。断って、潰れた。
ルカは、目を開けた。
「理事」
「なんだ」
「三千人の話は、本当だと思います」
ルカは言った。
「それについては、私に答えがありません。考えます。時間をください」
「結構」
「ですが」
彼は、書類を机に押し戻した。
「人を預かる商会には、渡せません」
ヴァレンティは、書類を見下ろした。そして、静かに言った。
「君の父上も、同じことを言ったよ」
「知っています」
「あの人は、それで潰れた」
「知っています」
ルカは言った。
「ですが、父は、断り方を間違えました」
理事が、顔を上げた。
「断ったあと、どうするかを考えていなかった」
ルカは言った。
「だからヴェントは、七年、橋の下にいました」
彼は、頭を下げた。
「私は、考えてから来ます」
会館を出ると、雨は上がっていた。
石畳が濡れて光っている。ドーラとバルサが、門の外で待っていた。
「どうだった」
ドーラが言った。
ルカは、答えなかった。
坂を下りながら、彼は考えていた。
三千人。
灯り四百七十一件。下市四百三十二件。あと二年で、この街は白くなる。そのとき、三千人が職を失う。
いままで一度も、計算に入れていなかった。
私は、四百人を明るくして、三千人を暗くする。
ルカは足を止め、坂の下を見た。
上市の屋根が、昼の光に濡れている。あの屋根の下に、魔石を量り売りする店が四十軒ある。店番の女がいて、荷を運ぶ小僧がいて、子供がいる。
彼らは、何も悪いことをしていない。
「ドーラさん」
「なんだい」
ルカは、まっすぐ前を見たまま言った。
「魔石屋を、何軒知っていますか」
女が、眉を寄せた。
「……そりゃ、二十軒は知ってるけど」
「紹介してください」
「なんでだい」
ルカは、少しだけ笑った。
「客になってもらいます」




