第18話 夜明け前の市
夜明け前の下市は、二年前と何一つ変わっていなかった。
凍った轍。地面に敷かれた布。獣脂の蝋燭が一本ずつ、その脇に立っている。蝋燭の届く範囲だけがぼんやり明るく、その外は影だ。
買い手は手で触り、重さを量り、勘で決める。売り手は自分が何を売っているのか、正確には知らない。
ルカは、通りの入口に立っていた。
外套は新しい。靴も新しい。二年前、袖の合わない古着で震えていた少年は、いま上市の登録商の身なりをしていた。
そして、誰も彼に気づかなかった。
暗いからだ。
話は、三つ目の敷布で止まった。
「灯りを、無償で置かせてください」
そう切り出したルカに、干物を売っていた中年の女は、まず「はあ?」と言った。
「通りに一つ、柱を立てて灯りを吊るします。一晩中つけます。金は要りません」
「なんで」
「使っていただきたいからです」
女は、ルカの身なりを上から下まで見た。それから、はっきりと言った。
「いらないよ」
「……理由を伺っても」
「明るくなったら、困るからさ」
彼女は、布の上の干物を指した。
「この鰊はね、端が黄ばんでる。古いんだ」
女は言った。
「暗けりゃわからない。明るけりゃわかる」
ルカは、動けなかった。
「あんた、いい服着てるね。上市の人だろ」
女は笑った。
「上市じゃ、いい品を明るいところに並べる。そりゃそうさ、いい品だからね」
彼女は、蝋燭の芯を切った。
「ここはね、そうじゃないんだよ」
四軒目も、七軒目も、断られた。
理由は全部同じだった。
明るくなれば、品の悪さがわかる。品の悪さがわかれば、値が下がる。値が下がれば、食えなくなる。
十一軒目で、初めて別の反応があった。
荷を下ろしたばかりの、若い行商人だった。峠の向こうの村から二日かけて来たという。
ルカが話し終えると、彼は勢いよく言った。
「頼む! 早く点けてくれ!」
「……いいのですか」
「いいも何も」
若者は自分の荷を叩いた。
「うちの村の鍬だ。鋼がいい。手をかけて打ってある。だが暗くて誰も見ちゃくれん。触って『まあ鍬だな』で終わりだ。銅貨八枚と言われる」
「上市なら」
「上市には出せん。登録がないからな」
若者は吐き捨てた。
「二日歩いて、いい物を持ってきて、暗いから値がつかん。見てもらえりゃ、負けん自信はあるんだ」
ルカは、その荷を見た。
彼の目には、その鍬の値打ちがはっきり見えていた。銅貨八枚どころではない。上市の金物屋なら、銀貨二枚は堪える。
そして、二年前、彼はそういう荷から一つずつ拾って生きていた。
四日目の朝、ルカは通りの中ほどに立った。
そして、初めて大きな声を出した。
「聞いてください」
蝋燭の並びの中で、いくつかの顔が上がった。
「クレイン商会の、ルカと申します」
ざわめきが走った。
「灯りの店だろ」
「上市の」
「あんた、二年前ここで拾ってた小僧じゃないか」
一人がそう言った。ルカは頷いた。
「はい。二年前まで、私はこの市で、鉄くずの箱から掘り出し物を拾って食っていました」
沈黙が落ちた。
「箱ごと銅貨四枚で買って、上市で銀貨二枚にしていました。五十倍です」
ルカは言った。
「私にそれができたのは、腕がいいからではありません。ここが、暗かったからです」
誰も、何も言わなかった。
「私は、この暗さで食っていました」
ルカは続けた。
「だから、この話を私がするのは、都合がいいと思われて当然です」
彼は、通りを見渡した。
「灯りを置きます。無償です。そして——」
ルカは、少し息を吸った。
「私は、この市で二度と物を買いません」
ざわめきが、大きくなった。
「小僧、そりゃ何の得があるんだ」
「得はありません」
「じゃあなんでやる」
ルカは、答えなかった。
代わりに、干物の女のほうを向いた。
「先日、断られました。明るくなると、古い鰊がばれると」
女が、気まずそうに目を逸らした。
「おっしゃる通りです」
ルカは言った。
「明るくなれば、古い鰊は売れなくなります。私は、それを誤魔化すつもりはありません」
「じゃあ、あたしは損するだろ」
「損します」
女が、口を開けた。
「ですが」
ルカは言った。
「奥さん。あなたは、どこで鰊を仕入れていますか」
「……浜の卸だよ」
「暗いところで買っていますね」
女が、止まった。
「夜明け前に浜へ行って、暗い中で、触って、勘で買っている」
ルカは言った。
「あなたが古い鰊を掴まされているのは、あなたも暗いところで買わされているからです」
女は、何も言わなかった。
「明るくなって困るのは、悪い品を売っている人です」
ルカは通りを見渡した。
「ですが、この市の九割は、悪い品を掴まされている人です」
話が変わったのは、そこからだった。
八日目に、四本の柱が立った。
一本目は、若い行商人のいた通り。二本目は、干物の女がいる通り。彼女が自分から言ってきた。
「あたしのところにも、置いとくれ」と。
灯りは、通りの真ん中に高く吊るした。
ひとつで、通りの三十歩ぶんが明るくなる。
九日目の夜明け前。
ルカは、通りの端に立って、それを見ていた。
白い光が、下市に落ちていた。
石畳の目地。布の織り目。並べられた品物の、一つ一つの傷と艶。
そして、人の顔。
二年間、彼はこの市の人たちの顔を、ろくに見たことがなかった。声と手しか知らなかった。
いま、全員の顔が見えた。
驚くほど、老いていた。
「……なんてこった」
誰かが言った。
干物の女が、自分の鰊を見下ろして、長いこと黙っていた。それから、黄ばんだ端の三尾を、自分の籠に戻した。
「これは、家で食う」
十日目、諍いが起きた。
ルカが通りに入ると、五人ほどが待ち構えていた。
先頭にいたのは、四十がらみの痩せた男だった。ルカはその顔を知っていた。下市の常連の買い手で、拾った品を上市に流している仲買だ。二年前、ルカの競争相手だった。
「小僧」
男は言った。
「お前、俺を殺す気か」
「ケイソさん」
「二十二年だ」
男の声が震えていた。
「二十二年、俺はここで拾って食ってきた。女房と子供が三人おる」
ルカは、黙って聞いた。
「お前と同じだ。暗いから食えたんだ」
男は言った。
「昨日、いつも銅貨三枚で買えてた砥石が、銅貨二十枚になった。売り手が値打ちに気づきやがった」
「はい」
「お前が明るくしたからだ」
「はい」
「認めるのか!」
「認めます」
ルカは言った。
「私は、あなたの商売を潰しました」
男が、拳を握った。
殴られると思った。ルカは避けなかった。だが、男は殴らなかった。
代わりに、掠れた声で言った。
「……じゃあ、どうしろってんだ」
ルカは、しばらく黙っていた。それから、言った。
「ケイソさん。あなたは、この市で二十二年、拾い続けてきた。どんな品が上市でいくらになるか、頭に入っていますね」
「そりゃそうだ」
「峠の向こうの村から来る行商人の顔も、覚えていますね」
「……覚えとる」
「では、逆をやってください」
男が、眉を寄せた。
「あなたはこれまで、村から来た品を安く買って、上市に流していました」
ルカは言った。
「これからは、上市から村へ流してください」
「何を」
「灯りです」
通りが、静かになった。
「うちの灯りは、いまカルディアの中にしかありません」
ルカは言った。
「ですが、この市に来る行商人は、峠の向こうから、川の上流から、海のほうから来ます。三日、五日、十日かけてです」
彼は、通りを指した。
「あの人たちは、この光を見て帰ります。そして村で言うでしょう。『カルディアの市には、白い灯りがあった』と」
ケイソが、口を開けた。
「村には、いくつ売れると思いますか」
ルカは言った。
「わかりません。私はカルディアしか知らない。ですが、あなたは知っている」
「……俺が、村を回るのか」
「回ってください。どの村に何軒あって、誰が金を持っていて、誰が仕事で目を悪くしているか」
ルカは言った。
「二十二年、この市で人の顔を覚えてきた人にしか、できない仕事です」
男は、動かなかった。
「歩合でお支払いします。契約一件につき、賃料の一割を、ずっと」
ケイソは、しばらく口を開けたまま立っていた。
やがて、後ろの四人を振り返った。そして、ルカに向き直った。
「……こいつらも、食えなくなる」
「四人とも、村を回れますか」
「回れる。全員、二十年この市におる」
「では、五人でお願いします」
その夜、ルカは店の板に、新しい地図を描いた。カルディアを中心に、道を引く。
北へ、鴉越の峠。サイカ。その先に、村が七つ。
東へ、川沿いに、宿場が四つ。
西へ、海まで五日。途中に、町が二つ。
南へ、街道沿いに、大きな町が一つ。
ネルが覗き込んだ。
「これ、なに」
「地図だ」
「見ればわかるけど。何の?」
ルカは、炭を置いた。
「この街の外に、どれだけ人がいるかだ」
彼は、カルディアの周りに丸を描いた。
「カルディアは一万二千軒。だが、この地図の中には——たぶん、四万軒ある」
ネルが、目を丸くした。
「そして」
ルカは言った。
「連合の法は、この壁の中にしか効かない」
娘が、息を呑んだ。
「安全基準は、カルディア商会連合が定めて、カルディアの領主が認可したものだ」
ルカは言った。
「峠の向こうの村には届かない。川の上流の宿場にも届かない」
「じゃあ」
「向こうがこの街で法を出したとしても」
ルカは言った。
「外に二千台あれば、それは負けじゃない」
下市に十四本目の柱が立った日。
ルカは、一番端の通りを歩いていた。
三本目の敷布の前で、足が止まった。
年老いた行商人が、鉄くずの箱を並べていた。
顔に、見覚えがあった。
白い光が、その顔をはっきり照らしていた。二年前より痩せて、背が丸くなっている。ルカは、膝を折って、箱を覗き込んだ。
「その箱、まとめていくらですか」
老人が顔を上げた。
そして、しばらくルカの顔を見て、それから目を細めた。
「……小僧か」
「覚えていてくださったんですか」
「四枚で買っていったろう。十枚出そうとして」
老人は笑った。
「俺は六枚返した。次に会うときの分だとな」
「はい」
「返せんかった」
老人は、埃だらけの箱を見下ろした。
「二年経った。会えんまま、こっちが先に、この歳だ」
ルカは、箱を見た。
彼の目には、その中身が見えていた。
全部、屑だった。
一つも、値打ちのある物は入っていなかった。
彼は、しばらく黙っていた。
それから言った。
「ハンヌさん、でしたね」
「名乗ったか、俺は」
「名乗っていません。ネルという娘が、下市の人の名前を全部覚えているんです」
ルカは立ち上がり、荷から一台を取り出した。
黒い筒。硝子。留め具。
「これを、置いていきます」
「……なんだ、そりゃ」
「灯りです。月に銅貨五枚で貸します」
老人は、首を振った。
「要らんよ。俺の箱は屑だ。明るくしたって、屑は屑だ」
「はい」
ルカは言った。
「ですが、次に仕入れるときに使えます」
老人の手が、止まった。
「あなたは、暗いところで仕入れています。だから屑を掴む」
ルカは言った。
「これを持って仕入れに行ってください。掴まなくなります」
ハンヌは、灯りを見た。
それから、震える手で受け取った。
留め具を回す。
白い光が、箱の中の錆びた金具を、一つずつ照らし出した。
老人は、長いこと、それを見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「……六枚、返すぞ」
「はい」
「今日じゃない。次に、いい物を掴んだときだ」
「待っています」
ルカは、頭を下げた。
そして、白く明るい通りを歩いていった。
背後で、行商人たちが、初めて自分の荷をまじまじと見つめている音がした。
紙をめくる音。木を叩く音。「おい、これ見ろよ」という声。
夜明け前の市が、明るかった。
二年前、この暗さで生きていた少年は、いま、その暗さを自分の手で終わらせた。
損得の帳面では、負けだった。
だが、板に書いた数字の下に、彼は新しい行を書き足すつもりだった。
下市 —— 四百三十二件。




