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二年で金貨五百枚 ~妹を買い戻すため、失われた魔法で商売を始める~  作者: 霧里 野蒜


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18/29

第18話 夜明け前の市

 夜明け前の下市は、二年前と何一つ変わっていなかった。

 凍った轍。地面に敷かれた布。獣脂の蝋燭が一本ずつ、その脇に立っている。蝋燭の届く範囲だけがぼんやり明るく、その外は影だ。

 買い手は手で触り、重さを量り、勘で決める。売り手は自分が何を売っているのか、正確には知らない。

 ルカは、通りの入口に立っていた。

 外套は新しい。靴も新しい。二年前、袖の合わない古着で震えていた少年は、いま上市の登録商の身なりをしていた。

 そして、誰も彼に気づかなかった。

 暗いからだ。

 話は、三つ目の敷布で止まった。

 「灯りを、無償で置かせてください」

 そう切り出したルカに、干物を売っていた中年の女は、まず「はあ?」と言った。

 「通りに一つ、柱を立てて灯りを吊るします。一晩中つけます。金は要りません」

 「なんで」

 「使っていただきたいからです」

 女は、ルカの身なりを上から下まで見た。それから、はっきりと言った。

 「いらないよ」

 「……理由を伺っても」

 「明るくなったら、困るからさ」

 彼女は、布の上の干物を指した。

 「この鰊はね、端が黄ばんでる。古いんだ」

 女は言った。

 「暗けりゃわからない。明るけりゃわかる」

 ルカは、動けなかった。

 「あんた、いい服着てるね。上市の人だろ」

 女は笑った。

 「上市じゃ、いい品を明るいところに並べる。そりゃそうさ、いい品だからね」

 彼女は、蝋燭の芯を切った。

 「ここはね、そうじゃないんだよ」


 四軒目も、七軒目も、断られた。

 理由は全部同じだった。

 明るくなれば、品の悪さがわかる。品の悪さがわかれば、値が下がる。値が下がれば、食えなくなる。

 十一軒目で、初めて別の反応があった。

 荷を下ろしたばかりの、若い行商人だった。峠の向こうの村から二日かけて来たという。

 ルカが話し終えると、彼は勢いよく言った。

 「頼む! 早く点けてくれ!」

 「……いいのですか」

 「いいも何も」

 若者は自分の荷を叩いた。

 「うちの村の鍬だ。鋼がいい。手をかけて打ってある。だが暗くて誰も見ちゃくれん。触って『まあ鍬だな』で終わりだ。銅貨八枚と言われる」

 「上市なら」

 「上市には出せん。登録がないからな」

 若者は吐き捨てた。

 「二日歩いて、いい物を持ってきて、暗いから値がつかん。見てもらえりゃ、負けん自信はあるんだ」

 ルカは、その荷を見た。

 彼の目には、その鍬の値打ちがはっきり見えていた。銅貨八枚どころではない。上市の金物屋なら、銀貨二枚は堪える。

 そして、二年前、彼はそういう荷から一つずつ拾って生きていた。


 四日目の朝、ルカは通りの中ほどに立った。

 そして、初めて大きな声を出した。

 「聞いてください」

 蝋燭の並びの中で、いくつかの顔が上がった。

 「クレイン商会の、ルカと申します」

 ざわめきが走った。

 「灯りの店だろ」

 「上市の」

 「あんた、二年前ここで拾ってた小僧じゃないか」

 一人がそう言った。ルカは頷いた。

 「はい。二年前まで、私はこの市で、鉄くずの箱から掘り出し物を拾って食っていました」

 沈黙が落ちた。

 「箱ごと銅貨四枚で買って、上市で銀貨二枚にしていました。五十倍です」

 ルカは言った。

 「私にそれができたのは、腕がいいからではありません。ここが、暗かったからです」

 誰も、何も言わなかった。

 「私は、この暗さで食っていました」

 ルカは続けた。

 「だから、この話を私がするのは、都合がいいと思われて当然です」

 彼は、通りを見渡した。

 「灯りを置きます。無償です。そして——」

 ルカは、少し息を吸った。

 「私は、この市で二度と物を買いません」

 ざわめきが、大きくなった。

 「小僧、そりゃ何の得があるんだ」

 「得はありません」

 「じゃあなんでやる」

 ルカは、答えなかった。

 代わりに、干物の女のほうを向いた。

 「先日、断られました。明るくなると、古い鰊がばれると」

 女が、気まずそうに目を逸らした。

 「おっしゃる通りです」

 ルカは言った。

 「明るくなれば、古い鰊は売れなくなります。私は、それを誤魔化すつもりはありません」

 「じゃあ、あたしは損するだろ」

 「損します」

 女が、口を開けた。

 「ですが」

 ルカは言った。

 「奥さん。あなたは、どこで鰊を仕入れていますか」

 「……浜の卸だよ」

 「暗いところで買っていますね」

 女が、止まった。

 「夜明け前に浜へ行って、暗い中で、触って、勘で買っている」

 ルカは言った。

 「あなたが古い鰊を掴まされているのは、あなたも暗いところで買わされているからです」

 女は、何も言わなかった。

 「明るくなって困るのは、悪い品を売っている人です」

 ルカは通りを見渡した。

 「ですが、この市の九割は、悪い品を掴まされている人です」

 話が変わったのは、そこからだった。


 八日目に、四本の柱が立った。

 一本目は、若い行商人のいた通り。二本目は、干物の女がいる通り。彼女が自分から言ってきた。

 「あたしのところにも、置いとくれ」と。

 灯りは、通りの真ん中に高く吊るした。

 ひとつで、通りの三十歩ぶんが明るくなる。


 九日目の夜明け前。

 ルカは、通りの端に立って、それを見ていた。

 白い光が、下市に落ちていた。

 石畳の目地。布の織り目。並べられた品物の、一つ一つの傷と艶。

 そして、人の顔。

 二年間、彼はこの市の人たちの顔を、ろくに見たことがなかった。声と手しか知らなかった。

 いま、全員の顔が見えた。

 驚くほど、老いていた。

 「……なんてこった」

 誰かが言った。

 干物の女が、自分の鰊を見下ろして、長いこと黙っていた。それから、黄ばんだ端の三尾を、自分の籠に戻した。

 「これは、家で食う」

 十日目、諍いが起きた。

 ルカが通りに入ると、五人ほどが待ち構えていた。

 先頭にいたのは、四十がらみの痩せた男だった。ルカはその顔を知っていた。下市の常連の買い手で、拾った品を上市に流している仲買だ。二年前、ルカの競争相手だった。

 「小僧」

 男は言った。

 「お前、俺を殺す気か」

 「ケイソさん」

 「二十二年だ」

 男の声が震えていた。

 「二十二年、俺はここで拾って食ってきた。女房と子供が三人おる」

 ルカは、黙って聞いた。

 「お前と同じだ。暗いから食えたんだ」

 男は言った。

 「昨日、いつも銅貨三枚で買えてた砥石が、銅貨二十枚になった。売り手が値打ちに気づきやがった」

 「はい」

 「お前が明るくしたからだ」

 「はい」

 「認めるのか!」

 「認めます」

 ルカは言った。

 「私は、あなたの商売を潰しました」

 男が、拳を握った。

 殴られると思った。ルカは避けなかった。だが、男は殴らなかった。

 代わりに、掠れた声で言った。

 「……じゃあ、どうしろってんだ」

 ルカは、しばらく黙っていた。それから、言った。

 「ケイソさん。あなたは、この市で二十二年、拾い続けてきた。どんな品が上市でいくらになるか、頭に入っていますね」

 「そりゃそうだ」

 「峠の向こうの村から来る行商人の顔も、覚えていますね」

 「……覚えとる」

 「では、逆をやってください」

 男が、眉を寄せた。

 「あなたはこれまで、村から来た品を安く買って、上市に流していました」

 ルカは言った。

 「これからは、上市から村へ流してください」

 「何を」

 「灯りです」

 通りが、静かになった。

 「うちの灯りは、いまカルディアの中にしかありません」

 ルカは言った。

 「ですが、この市に来る行商人は、峠の向こうから、川の上流から、海のほうから来ます。三日、五日、十日かけてです」

 彼は、通りを指した。

 「あの人たちは、この光を見て帰ります。そして村で言うでしょう。『カルディアの市には、白い灯りがあった』と」

 ケイソが、口を開けた。

「村には、いくつ売れると思いますか」

 ルカは言った。

 「わかりません。私はカルディアしか知らない。ですが、あなたは知っている」

 「……俺が、村を回るのか」

 「回ってください。どの村に何軒あって、誰が金を持っていて、誰が仕事で目を悪くしているか」

 ルカは言った。

 「二十二年、この市で人の顔を覚えてきた人にしか、できない仕事です」

 男は、動かなかった。

 「歩合でお支払いします。契約一件につき、賃料の一割を、ずっと」

 ケイソは、しばらく口を開けたまま立っていた。

 やがて、後ろの四人を振り返った。そして、ルカに向き直った。

 「……こいつらも、食えなくなる」

 「四人とも、村を回れますか」

 「回れる。全員、二十年この市におる」

 「では、五人でお願いします」

 その夜、ルカは店の板に、新しい地図を描いた。カルディアを中心に、道を引く。

 北へ、鴉越の峠。サイカ。その先に、村が七つ。

 東へ、川沿いに、宿場が四つ。

 西へ、海まで五日。途中に、町が二つ。

 南へ、街道沿いに、大きな町が一つ。

 ネルが覗き込んだ。

 「これ、なに」

 「地図だ」

 「見ればわかるけど。何の?」

 ルカは、炭を置いた。

 「この街の外に、どれだけ人がいるかだ」

 彼は、カルディアの周りに丸を描いた。

 「カルディアは一万二千軒。だが、この地図の中には——たぶん、四万軒ある」

 ネルが、目を丸くした。

 「そして」

 ルカは言った。

 「連合の法は、この壁の中にしか効かない」

 娘が、息を呑んだ。

 「安全基準は、カルディア商会連合が定めて、カルディアの領主が認可したものだ」

 ルカは言った。

 「峠の向こうの村には届かない。川の上流の宿場にも届かない」

 「じゃあ」

 「向こうがこの街で法を出したとしても」

 ルカは言った。

 「外に二千台あれば、それは負けじゃない」

 下市に十四本目の柱が立った日。

 ルカは、一番端の通りを歩いていた。

 三本目の敷布の前で、足が止まった。

 年老いた行商人が、鉄くずの箱を並べていた。

 顔に、見覚えがあった。

 白い光が、その顔をはっきり照らしていた。二年前より痩せて、背が丸くなっている。ルカは、膝を折って、箱を覗き込んだ。

 「その箱、まとめていくらですか」

 老人が顔を上げた。

 そして、しばらくルカの顔を見て、それから目を細めた。

 「……小僧か」

 「覚えていてくださったんですか」

 「四枚で買っていったろう。十枚出そうとして」

 老人は笑った。

 「俺は六枚返した。次に会うときの分だとな」

 「はい」

 「返せんかった」

 老人は、埃だらけの箱を見下ろした。

 「二年経った。会えんまま、こっちが先に、この歳だ」

 ルカは、箱を見た。

 彼の目には、その中身が見えていた。

 全部、屑だった。

 一つも、値打ちのある物は入っていなかった。

 彼は、しばらく黙っていた。

 それから言った。

 「ハンヌさん、でしたね」

 「名乗ったか、俺は」

 「名乗っていません。ネルという娘が、下市の人の名前を全部覚えているんです」

 ルカは立ち上がり、荷から一台を取り出した。

 黒い筒。硝子。留め具。

 「これを、置いていきます」

 「……なんだ、そりゃ」

 「灯りです。月に銅貨五枚で貸します」

 老人は、首を振った。

 「要らんよ。俺の箱は屑だ。明るくしたって、屑は屑だ」

 「はい」

 ルカは言った。

 「ですが、次に仕入れるときに使えます」

 老人の手が、止まった。

 「あなたは、暗いところで仕入れています。だから屑を掴む」

 ルカは言った。

 「これを持って仕入れに行ってください。掴まなくなります」

 ハンヌは、灯りを見た。

 それから、震える手で受け取った。

 留め具を回す。

 白い光が、箱の中の錆びた金具を、一つずつ照らし出した。

 老人は、長いこと、それを見ていた。

 そして、ぽつりと言った。

 「……六枚、返すぞ」

 「はい」

 「今日じゃない。次に、いい物を掴んだときだ」

 「待っています」

 ルカは、頭を下げた。

 そして、白く明るい通りを歩いていった。

 背後で、行商人たちが、初めて自分の荷をまじまじと見つめている音がした。

 紙をめくる音。木を叩く音。「おい、これ見ろよ」という声。

 夜明け前の市が、明るかった。

 二年前、この暗さで生きていた少年は、いま、その暗さを自分の手で終わらせた。

 損得の帳面では、負けだった。

 だが、板に書いた数字の下に、彼は新しい行を書き足すつもりだった。

 下市 —— 四百三十二件。

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