第17話 四十七本の順番
二千台という数字は、口に出した瞬間から、ルカを追いかけてきた。
刻めない。
ヴェントとトトの二人で、一台に二日。休みなく刻んで、年に百八十台。二千台には十一年かかる。
サイカの鋼は倉に積み上がっている。金は八十一枚ある。職人は待っている。
だが、線を引ける手が、二組しかない。
「弟子を取りましょう」
ルカがそう言ったとき、ヴェントは首を振らなかった。反対されると思っていたので、それは意外だった。
「取る」
老人は言った。
「だが、小僧。陣師は十年かかると言ったな」
「はい」
「あれは、一人前になるのに十年という意味だ」
ヴェントは針を置いた。
「一人前とは、どんな陣でも刻めるということだ。湯沸かしも、暖房も、錠前も、灯りも。注文が来たら、何でも引き受けられる。それが陣師だ」
ルカは、少し考えた。そして、顔を上げた。
「うちは、灯りしか作りません」
老人の目が、細くなった。
「一つの陣だけを刻む人間を育てるなら、何年かかりますか」
ヴェントは、長いこと黙っていた。
それから、乾いた声で言った。
「……三年、いや、二年か」
「二年でも長い」
ルカは言った。
「もっと縮められませんか」
「無茶を言うな」
「ヴェントさん」
ルカは、板の前に立った。
「一台の灯りに、線は何本ありますか」
「四十七本だ」
「四十七本のうち、一番難しいのはどれですか」
老人は、口を開けた。
そして、閉じた。
それが、答えだった。
四十七本の線は、同じ難しさではなかった。
外周を閉じる一本と、中央で折り返す三本。この四本は髪一本の狂いも許されない。ここを外せば陣は死ぬ。
残る四十三本のうち、二十九本は「まっすぐ引くだけ」だった。深さと幅さえ揃っていれば、多少の歪みは陣が吸収する。
「なぜ、全部を同じように刻んでいたのですか」
「そういうものだからだ」
ヴェントは言った。
「一つの陣は、一人が一息で刻む。途中で人が替われば、手の癖が変わる。癖が変われば線が変わる」
「試したことは、ありますか」
老人が、睨んだ。
「……ない」
ルカは、板を一枚取った。
「試しましょう」
三日で、五枚を潰した。
四枚目までは、ヴェントの言う通りだった。トトが二十九本を引き、ヴェントが四本を入れると、継ぎ目で力が乱れる。
五枚目で、ルカが気づいた。
「深さです」
「なんだと」
「トトの線は、ヴェントさんより一分浅い。癖ではなく、深さの違いです」
ルカは溝を指した。
「揃えれば、乱れません」
「どうやって揃える」
ルカは、坂下の鍛冶場に三日通った。そして、机の上に、それを置いた。木の柄に、細い針が嵌まっている。だが、針は柄の先から、髪の毛三本ぶんほどしか出ていなかった。その根元を囲むように、薄い金属の輪が嵌めてある。
「なんだ、これは」
「板に当てて、押してみてください」
ヴェントは、針を寝かせ、板に押しつけた。
針先が食い込み——そして、止まった。輪が板の表面に触れて、それ以上入らない。老人は、力を込めた。震える手が板を押した。
針は、一分も沈まなかった。
「……止まる」
「止まります」
ルカは言った。
「針が輪から出ている分しか、彫れません。誰が持っても、どれだけ力を入れても、深さは同じです」
ヴェントは、その針を長いこと眺めていた。
「小僧」
老人は言った。
「これを、陣師に見せるな」
「なぜです」
「馬鹿にされる」
ヴェントは言った。
「陣師は、深さを手で覚えるのが仕事だ。道具で決めるのは、下手が使う道具だと言われる」
「言われますか」
「言われる。わしも、若い頃はそう言っとった」
老人は針を握り直し、板に一本引いた。
深さが、揃っていた。
ヴェントは、その線を長いこと見つめていた。
「四十年だ」
「はい」
「四十年、わしはこれが作れることに気づかんかった」老人は言った。「手が震えるようになった日から、深さが揃わんことに苦しんできた。それを、道具で直せるとは一度も考えんかった」
彼は針を置いた。
「お前は陣師じゃないから、これが作れたんだ」
そして、二十日後。
ルカは、失敗した板の山の前に座っていた。
三十七枚。
一枚も、使えなかった。
深さは、完璧に揃っていた。
トトが引いても、ルカが引いても、震えるヴェントが引いても、溝の深さは寸分違わない。そこは道具が保証した。
だが、線が曲がった。
四十七本のうち、最初の十本ほどはまっすぐ引ける。十五本目あたりから、少しずつ狂いはじめる。三十本を超えると、ほとんどの線が、どこか一点で不自然に折れた。
「見えない」
トトが泣きそうな顔で言った。
「針の先が」
ルカは、少年の手から針を取って、自分で引いてみた。すぐにわかった。
輪が針の根元を囲んでいるので、彫っている点そのものが輪の陰に入る。前の線を引いたときの削り屑が、輪の内側に溜まる。掃ってもすぐまた溜まる。
手元が見えない。見えないから、まっすぐ引いているつもりで、少しずつ逸れる。
そして、もうひとつ。
ルカが線を引いていると、途中で針が、かくんと横に引かれた。
輪が、前に引いた溝の縁に落ちたのだ。
輪は板の表面に触れて荷重を受けている。その状態で横に動かせば、当然すべる。溝を横切るとき、輪の縁が溝に落ち、針がそちらへ持っていかれる。
線が増えるほど、板の上は溝だらけになる。だから後の線ほど狂う。
「小僧」
ヴェントが、山を見下ろして言った。
「だから道具は駄目なんだ」
老人の声は、意地悪ではなかった。むしろ、諦めに近かった。
「深さは道具で決められる。だが、位置は手でしか決められん。手が覚えるまで十年かかるのは、そういう理由だ」
ルカは、答えなかった。
三十七枚の板を、一枚ずつ手に取っていた。
その夜から、彼は数え始めた。
失敗した板を、全部並べる。
そして、一本ずつ、どこで狂ったかを書き出した。
これができるのは、この街でルカだけだった。彼の目は、線のどの一点で溝の縁が乱れたかを見分ける。何本目の線が、どこで、どちらへ逸れたか。
三十七枚。掛ける四十七本。千七百三十九本。
四日かけて、全部を板に書き出した。
ネルが、途中で音を上げた。
「ねえ、これ何の意味があるの」
「わからん」
ルカは言った。
「だが、狂うなら、狂う理由がある」
「理由なんて、下手だからでしょ」
「下手なら、どの線も同じように狂うはずだ」
娘が、口をつぐんだ。
五日目の朝、ルカは炭を置いた。
そして、しばらく板を見つめてから、静かに言った。
「……順番だ」
「え?」
「狂った箇所を全部並べると、前に引いた溝と交わる点に集中している」ルカは指でなぞった。
「千七百三十九本のうち、狂いの八割が、交点から髪三本ぶん以内で起きている」
ヴェントが顔を上げた。
「当たり前だろう。輪が溝に落ちるんだからな」
「はい。ですが、交点の数は、線を引く順番で変わります」
老人が、止まった。
ルカは、新しい板に円を描いた。
「いま、私たちは外側から内側へ順に引いています。外周の線を引いてから、内側へ入っていく。すると内側の線は、外側の線を何度も横切ることになる」
彼は炭で数えた。
「この順で引くと、交点は、のべ二百十四回」
「別の順なら」
「内側から外へ引くと、百八十六回」ルカは書いた。「そして——」
彼は、円をもう一つ描いた。
「同じ方向を向いた線を、まとめて先に全部引く。それから向きを変える。この順にすると」
炭が止まった。
「九十一回です」
ヴェントが、身を乗り出した。
「半分以下か」
「半分以下です。線は同じ四十七本、引く長さも同じ。順番を変えただけです」
だが、九十一回でも、狂う。
「もう一つあります」
ルカは言った。
「輪です」
彼は、針を持ち上げた。
「輪が溝に落ちるのは、輪が小さいからです。溝の幅より輪の縁が細ければ、落ちる」
「太くすれば」
「はい。輪を大きくすれば、溝をまたぎます」
ルカは指で示した。
「橋と同じです。川より長い板を渡せば、落ちません」
「だが、大きくすれば、ますます見えん」
「ですから」
ルカは、鍛冶場から持ってきたもう一つを、机に置いた。
輪ではなかった。
輪の手前だけを切り落とし、左右と奥だけが板に触れる半月形にした。
「手前が開いています」
ルカは針を寝かせた。
「覗き込めば、針先が見えます」
ヴェントが、それを受け取った。
板に当てる。押す。深さは止まる。そして、老人は顔を近づけた。
針の先が、見えた。
彼は、ゆっくりと線を引いた。前の溝を横切る。輪——脚は、溝の上をまたいで通った。
針は、かくんと動かなかった。
その日から、六日で、七枚が通った。
七枚とも、狂いがなかった。
ヴェントは、七枚目を光にかざして、長いこと動かなかった。
「小僧」
「はい」
「わしは、四十年、線をまっすぐ引く稽古をしてきた」
老人は言った。
「お前は、まっすぐ引く稽古を一日もせんかった」
「はい」
「そして、引く順番を変えた」
彼は、板を置いた。
「わしらは、四十七本を一つの流れだと思っとった。始めから終わりまで、一息でな。だからその中身を並べ替えるという考えが、頭になかった」
老人は、笑った。
「お前は陣師じゃない。だから、四十七本を、四十七個の仕事だと思った」
ルカは、少し照れたように目を逸らした。
「私は線が引けません。できるのは、順番を決めることと、誰が何をやるかを決めることだけです」
「それを何と言うか、知っとるか」
「いいえ」
「商人だ」
ヴェントは言った。
六人を選んだ。
条件はルカが出した。指が細いこと。手が止まること。字は読めなくていい。年は十から十六。
スラムと下市の子供が四人、職人街から二人。職人街の二人は、目を悪くして仕事を辞めた者の子だった。灯りが親を仕事場に戻したのを、間近で見ていた。
ヴェントは、六人を前に座らせて、最初にこう言った。
「お前らは、陣師にはならん」
子供たちが顔を見合わせた。
「陣師は何でも刻める。お前らは、灯りしか刻めん」
老人は言った。
「一生、同じ陣を刻む。飽きるぞ」
一人が手を挙げた。
「じいちゃん、それって、つまんない仕事?」
「つまらん」
「なんでやるの」
ヴェントは、少し黙った。
「四十七本のうち、四本は、わしが引く」
老人は言った。
「残り四十三本を、お前らが引く。四十三本が狂っとったら、わしの四本は無駄になる」
彼は、六人を見渡した。
「お前らが引かんと、灯りは点かん」
一番小さな子が、小さく手を挙げた。
「……あたし、やる」
冬が明け、春が来た。
サイカからの本便が届いたのは、雪解けの直後だった。荷車が七台。ハーサが自分で押してきた。
「二十年ぶりに炉を焚いたよ」
女は笑った。
「町の連中が、みんな見に来た」
「町の様子は」
「三十人、戻ってきた」
ハーサは言った。
「峠の向こうに出稼ぎに行ってた連中だ。町が鋼を売ってるって噂を聞いてね」
彼女は荷を叩いた。
「言われた通り、坑道と深さを書き付けてある。全部で十四通りだ」
ルカは板を一枚ずつ見て、頷いた。
「九番と十一番が、灯りに一番向きます」
「わかるのかい」
「わかります」
「……あんた、ほんとに何なんだい」
製作が、始まった。
店の裏に小屋を建てた。一階が刻み場、二階が組み立て場。窓を大きく取り、白い灯りを八つ吊るした。
夜も昼も、明るい。
刻み場では、六人が並んで座り、決められた順に四十三本を引く。ルカが後ろを歩き、狂いを見る。ヴェントとトトが、上がってきた板に四本を入れる。
一日に、四枚。
月に、百二十台。
「小僧」
バルサが荷を運びながら言った。
「作りすぎだ。注文は百件しかないぞ」
「配ります」
「配る?」
ルカは帳面を開いた。
「職人街に四百人います。いま灯りを使っているのは八十七人。残り三百十三人のうち、二百人ほどは、月に銀貨二枚が出せない人たちです」
「じゃあ客じゃないだろう」
「客です」
ルカは言った。
「月に銀貨五分で貸します」
バルサが目を剥いた。
「五分だと? 原価も出んぞ」
「出ます。鋼が屑値だからです」
ルカは言った。
「それに——バルサさん。この街の職人が全員うちの灯りを使っていたら、連合はどうすると思いますか」
男の動きが、止まった。
「取り上げようとするでしょう。そのとき、取り上げられるのは誰ですか」
「……お前だ。貸してるからな」
「はい。職人は一人も罰せられません」
ルカは言った。
「そして、四百人が、いっせいに暗くなります」
バルサは、荷を置いた。
「お前、それを狙って」
「狙っています」
ルカは言った。
「私が潰されたときに、この街が困るようにしておきます。困る人が多いほど、潰しにくい」
夏が来る頃には、二百四十台が街に出ていた。
坂の上から見ると、白い点が散らばっている。散らばっているというより、集まりはじめている。通りが一本、まるごと白い。
刃物研ぎのゴードが、弟子を二人取った。彫金のマルタが工房を広げた。イルマは記録院からの写しの仕事を再開した。目が見えるからではない。夜に働けるから、量で勝てるようになったのだ。
そして職人たちは、ある日気づいた。
自分たちが、去年より二割多く稼いでいることに。
秋の初め、ドーラが帳場に数字を持ってきた。
貸出契約、四百七十一件。
月々の賃料収入、銀貨四百三十枚。金貨に直して四枚と三十。
「毎月だよ」
ドーラが言った。
「毎月、何もしなくても、これが入る」
ルカは帳面を見つめた。
一年前、月に金貨八枚を稼ぐのがやっとだった。それは働いて稼いだ金だ。働かなければ入らない。
これは、違う。
寝ていても入る。
「小僧」
ドーラが言った。
「これが千件になったら」
「月に金貨九枚です」
「五千件になったら」
「四十五枚」
女は帳場に肘をついた。
「……この街に、家は何軒ある」
「一万二千軒ほどです」
ルカは、答えを口にしなかった。
頭の中では、とうに出ていた。
月に金貨百八枚。年に千三百枚。
父と母の残債、四百三十一枚。
四か月で、返せる額だった。
「ルカ」
ネルが、帳場から呼んだ。
娘はいつのまにか、帳面を三冊同時に見るようになっていた。この店で数字を一番正確に把握しているのは彼女だった。
「今月、断りが十四件あった」
「断り?」
「貸してくれって言ってきた職人が、途中で取り消した」
ネルは帳面を指した。
「先月は三件。その前は一件」
「理由は」
「訊いても言わない。けど、一人だけ、こっそり教えてくれた」
彼女は声を落とした。
「組合の人が来たって」
店の中が、静かになった。
「『あの灯りは、いずれ使えなくなる。いま借りると損をする』って言われたって」
ルカは、動かなかった。
長い沈黙のあと、静かに言った。
「……始まったな」
「え?」
「まだ法は出していない」
ルカは言った。
「出すぞ、と匂わせているだけだ」
彼は帳面を閉じた。
「向こうも、まだ出せない。四百七十一件を一度に取り上げれば、街が騒ぐ。だから先に客を減らしにきた。減らしてから、出す」
ネルが拳を握った。
「じゃあ、どうすんの」
ルカは、しばらく考えた。
そして、顔を上げた。
「増やす」
「増やす?」
「向こうが減らそうとしているなら、増やす速さで勝つ」
ルカは立ち上がった。
「向こうが法を出せなくなる数まで、増やす」
「どこに増やすの。職人はもう四百人全部でしょ」
ルカは、窓の外を見た。
上市の屋根の向こう、坂の下。川の手前。
下市が、そこにあった。
二年前まで、彼が毎朝、暗闇の中で品物を掘り出していた場所。蝋燭一本の下で、誰も自分が何を売っているのかわからないまま、値をつけられていく場所。
彼の稼ぎの源だった、あの暗さ。
ルカは、長い間そこを見つめていた。
そして、言った。
「下市に、貸す」
ドーラが息を呑んだ。
「小僧。あそこが明るくなったら、あんたの目利きは」
「要らなくなります」
ルカは言った。
「私が下市で稼げたのは、あそこが暗かったからです」
彼は外套を取った。
「そろそろ、返す番です」




