第16話 百二年前の判
雪の峠を越えて店に戻ると、白い光の下でイルマが待っていた。
老女は帳場に紙の束を積み上げ、その脇で腕を組んでいた。ルカが外套の雪を払うより先に、彼女は言った。
「入れたよ」
「地下に?」
「三つの棚のうち、一つだけね」
イルマは紙を叩いた。
「『商事訴訟・旧記』。閲覧の許可は下りない。だから、書架の整理を手伝うという名目で入った」
「それは」
「訊くんじゃないよ」
老女は片眉を上げた。
「四十年勤めた場所だ。鍵の掛かってない扉くらい知ってる」
ルカは荷を下ろし、帳場に座った。
「何がありましたか」
イルマは、一番上の紙を押し出した。
「あんたが探してた家の名前だ」
カルディア商事裁判記録・百二年前・第七十九号。
『原告 カルディア商会連合』
『被告 ラウ・ヴェント、ならびにヴェント工房』
ルカは、その名前を三度読んだ。
指先が、冷たくなっていった。
「イルマさん」
「気づいたかい」
「これは」
「同じ姓だね」
老女は静かに言った。
「別人だよ、もちろん。百二年前だからね。けど、この街でヴェントって姓は多くない」
ルカは、ゆっくりと振り返った。
作業台の前で、老人が針を持ったまま、こちらを見ていた。
震える手が、止まっていた。
「ヴェントさん」
「……読め」
老人は言った。
「わしは、その紙を見たことがない」
訴訟の内容は、簡潔だった。
ヴェント工房が製造販売した照明用魔道具は、連合の定める安全基準第一条に違反する。すなわち、規定の魔石消費量を下回っている。よって同工房に対し、製造の停止、在庫の没収、既販売品の回収、および違約金金貨千二百枚の支払いを求める。
判決は、原告全面勝訴。
判決日は、訴状の提出から九日後だった。
「九日」
バルサが唸った。
「弁ずる暇もないぞ」
「弁じています」
イルマが次の紙を出した。
「被告答弁書。写しが残ってた」
ルカは、それを受け取った。
古い、細い字だった。
『当工房の灯りは、魔石の消費が少ない。それは事実である。だが、消費が少ないことがなぜ危険なのか、原告は一言も説明していない。暴走の恐れがあるという。百年、一度も起きていない。規定量を下回ってはならぬという規則は、灯りを安全にするためのものではない。魔石を売るためのものである。当工房は、この灯りを三代にわたって作ってきた。我らは、街を明るくしたかっただけである。』
紙の下の方に、署名があった。
ラウ・ヴェント
そして、その隣に、判が三つ押してあった。
「判が三つ?」
ルカは顔を上げた。
「同業者だよ」
イルマが言った。
「被告に味方した陣師が、三人いたんだ。連名で答弁書に判を押してる」
「その三人は」
老女は、次の紙を出した。
「六月後に、三人とも組合を除名されてる」
ルカは、判決文に戻った。
裁判官の名を探した。
カルディア商事裁判所 主席判事 オルモ・フェルド
指が、止まった。
フェルド。
ミナの婚約相手の家名だった。
「イルマさん」
「気づいたね」
「同じ家ですか」
「同じ家だよ」
老女は言った。
「フェルド家は代々、商事裁判所に判事を出してる。いまの当主の高祖父だね」
ルカは、紙を置いた。
長い時間、動けなかった。
——百二年前、ヴェントの家を潰した判事の家に、いま妹が嫁がされようとしている。
——偶然ではない。フェルド家は、いまも同じ場所に座っている。
「もう一つある」
イルマが言った。
「一番奥にあった」
彼女は、いちばん下から一枚を引き抜いた。
『連合理事会 議事録 百二年前 第十一回』
短い文書だった。
『議題一 照明用魔道具の安全基準について
理事バルサム・ヴァレンティより提案。近年、魔石消費の著しく少なき照明具が市中に流布し、加盟各社の魔石取扱高は前年比で三割四分の減となる。このまま推移せば、五年内に魔石卸は成り立たず、加盟四十七社のうち十一社が立ち行かぬ見込み。
よって、魔道具の安全性を担保する基準を制定し、消費量の下限を定めることを提案する。
理由書に安全上の懸念を記すことにつき、異議なし。
賛成十一、反対〇。』
ルカは、その文を三度読んだ。
そして、笑った。
自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。
「バルサさん」
「なんだ」
「彼らは、議事録に本当の理由を書いています」
男が紙を覗き込んだ。
「……魔石が売れなくなるから、と」
「はい」
ルカは言った。
「そして、『理由書に安全上の懸念を記すことにつき、異議なし』とあります。つまり表向きの理由を作ることを、全員一致で決議している」
「馬鹿か、こいつらは」
「馬鹿ではありません」
ルカは首を振った。
「百二年前、彼らはこれが表に出るとは思っていなかった。理事会の議事録を読む人間など、理事しかいませんから」
彼は紙を置いた。
「隠す必要がなかったんです。それが、この街だったからです」
ヴェントは、作業台の前から動かなかった。
ルカは紙を持って、老人の前に立った。
「読みますか」
「いい」
「ヴェントさん」
「いいと言っとる」
老人は、俯いたまま言った。震える手が、膝の上で握られていた。
「わしは、七つのときに祖父から聞いた。うちの家は昔、灯りを作っとった。それを取り上げられた。それだけだ」
老人は言った。
「祖父は、それ以上言わんかった。父も言わんかった。言うと、また来ると思っとったんだ」
「百年経っています」
「百年経っても、フェルドは判事だ。ヴァレンティは理事だ」
老人は顔を上げた。
「何が変わった」
ルカは、答えなかった。答えられなかった。
ヴェントは、震える手を持ち上げて、自分の目の前にかざした。
「小僧。この手をな」
「はい」
「わしが二十二の年だ」
老人は言った。
「一人前と言われた年に、組合の抱えにならんかと声がかかった。条件は一つ。『ヴェントの家に伝わる古い陣を、連合に提出せよ』とな」
ルカの背中が、こわばった。
「断った。理由は簡単だ。うちには、そんなものは伝わっとらんかった」老人は笑った。「祖父も父も、灯りの陣なんぞ知らん。取り上げられた家というだけで、中身は普通の陣師だ」
「では、なぜ」
「連中は信じんかった」
老人は、手を下ろした。
「三月後、工房の帰りに、四人に囲まれた。何も訊かれんかった。ただ、両手を石に押しつけて、上から踏まれた」
店の中が、静まり返った。
ネルが、口を押さえた。
「骨は折れんかった。医者に見せても『どこも悪くない』と言われた」
ヴェントは言った。
「悪くないんだ。ただ、その日から、線が引けんようになった」
彼は、銅板を見た。
「わしは、伝わっとらん陣のために、手を潰された」
老人は言った。
「そして、四十年経って、お前が持ってきた」
ルカは、動けなかった。
「あの筒を見たとき、わしは何を思ったと思う」
「……」
「やっと来たか、と思ったよ」
老人は、初めて笑った。泣きそうな、ひどく歪んだ笑い方だった。
「四十年、わしは何のために手を潰されたのか知らんかった。誰も持っとらん物のために、痛い目に遭ったんだと思っとった。それが一番、堪えた」
彼は言った。
「あの筒が本物だとわかったとき、わしはな。……ざまあみろ、と思ったんだ」
「ヴェントさん」
「橋の下で、四十年、覚えとらん陣を彫り続けとったわけじゃない」
老人は言った。
「祖父が死ぬ前に、ひとつだけ描いて見せた。『これが、うちが作っとった灯りだ』とな。わしはそれを、忘れんように彫っとった」
彼は、震える手を、ゆっくりと開いた。
「祖父は、こう言った。『いつか、これを見て何かを言う奴が来る』」
老人は、ルカを見た。
「来たよ、じいさん」
夜が明ける頃、ルカは板の前に座っていた。
炭を持って、書いた。
百二年前・魔道具安全基準
第一条 消費量の下限
第二条 製造・販売・使用の禁止
第三条 所持の禁止、過料銀貨三枚
第四条 材料の買入規格
そして、その下に。
廃止 —— なし
四つの条文は、いまも生きている。
彼はしばらくそれを見つめてから、隣に別の列を書いた。
議事録・理由 —— 魔石の売上減
判事 —— フェルド家
提案者 —— ヴァレンティ家
判決までの日数 —— 九日
答弁書に判を押した陣師 —— 三名、六月後に除名
炭を置いた。
ネルが、そっと横に立った。
「ねえ。これ、どうするの」
「どうすると思う」
娘は、板を見つめた。
「……これを街中にばらまいたら、みんな怒るんじゃない?」
「怒るだろうな」
「じゃあ」
「だが、それで法は消えない」
ルカは言った。
「みんなが怒っても、条文は残る。残っていれば、連合はいつでも使える」
彼は、板の一番上を指した。
廃止 —— なし
「法を消せるのは、法を作れる者だけだ」
「連合でしょ」
「連合が作った。だが、連合の上に、誰がいる」
ネルが、首を傾げた。
「……領主さま?」
ルカは頷いた。
「百二年前、この基準を認可したのは、当時の領主だ」
彼は紙を繰った。
「認可の記録が、ここにある。そして、認可には条件がついている」
彼は一行を指した。
『本基準は、市中の安全に資する限りにおいて認可する』
ネルが読んだ。
「……安全に、資する限り」
「資していなかったと示せば」
ルカは言った。
「認可の前提が、初めから存在しなかったことになる」
「証明できるの?」
「議事録がある」
ルカは笑った。
「彼ら自身が、書いてくれている」
だが、彼はそこで表情を消した。
「ただし、いまはまだ出せない」
「なんで!」
ネルが声を上げた。
「証拠あるじゃん!」
「三つ足りない」
ルカは指を折った。
「ひとつ。この紙は、イルマさんが許可なく持ち出したものだ。出せば、イルマさんが罰せられる。正式な閲覧許可を取る道を作らないと、証拠として使えない」
「ふたつ」
「ふたつ。領主に届く道がない。私は上市の小商人だ。領主の前に立つ資格がない」
「みっつ」
ルカは、少し黙った。
「みっつ。いま法が消えると、困る」
ネルが目を丸くした。
「なんで!」
「法が消えれば、誰でも灯りを作れる」
ルカは言った。
「いまこの街で古代の陣を刻めるのは、ヴェントさんとトトだけだ。だが法が消えて、この陣が公になれば、連合は金と職人を注ぎ込んで、半年で追いつく」
彼は板を叩いた。
「先に、追いつかれない大きさになる。それから、法を消す」
ネルは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……ずるいね、あんた」
「よく言われる」
その朝、ルカは店の裏で、サイカから運んだ板を一枚ずつ並べた。黒い、鈍い金属。百二年、雨に打たれていた屑。
ヴェントがその一枚を持ち上げた。震える手で光にかざす。
そして、言った。
「小僧」
「はい」
「これは、うちの家が使っとった鋼だ」
ルカは、顔を上げた。
「祖父が言っとった。『南の坑道の鋼でなければ、あの灯りは持たん』とな」老人は板を撫でた。「わしはずっと、それが何のことかわからんかった」
彼は板を置き、針を取った。
「トト」
作業台の下から、少年が転がり出てきた。
「はい!」
「今日から、休みはない」
ヴェントは言った。
「二千台、刻む」




