第15話 規格外の山
出発の前夜、バルサが荷車を二台引いて店の前に来た。
「俺も行く」
ルカは驚かなかった。
「金貨四十枚、貸しとるからな」男は縄を締めながら言った。「お前が峠で野垂れ死んだら、俺の金も死ぬ。それだけだ」
「助かります」
「礼を言うな。腹が立つ」
バルサは荷台を叩いた。
「言っとくが、鴉越の峠は雪が来たら閉まる。十日で往復せんと、春まで戻れんぞ」
峠は、三日かかった。
畑が終わり、林が終わり、木が低くなり、やがて岩ばかりになった。空気が薄く、乾いていた。荷車を押して上る坂の途中で、ルカは何度も振り返った。カルディアはもう見えなかった。
生まれて十六年、彼はあの街の外に出たことがなかった。
「小僧」
バルサが息を切らしながら言った。
「怖いか」
「はい」
「素直だな」
「街の中では、誰が敵かわかっています」
ルカは荷を押した。
「ここでは、何もわかりません」
四日目の昼、峠を越えた。
眼下に、灰色の谷が広がっていた。
サイカは、死にかけた町だった。
家は百軒ほど。半分が空き家で、屋根が落ちている。山肌に開いた坑道の入り口が三つ見えたが、動いているのは一つだけだった。
人通りがない。子供がいない。
「二十年前は、二千人おったそうだ」
バルサが呟いた。
「いまは三百切っとるらしい」
差配の家は、町で一番大きな建物だった。それでも、屋根の一部に板が打ちつけてある。
出てきたのは、五十がらみの女だった。日に焼けて、腕が太い。ハーサと名乗った。
「カルディアから?」
「はい。アルヴァ鋼を買いに参りました」
女は、ルカの顔を見た。それからバルサを見て、荷車を見て、また少年に視線を戻した。
そして、笑った。
「悪いね。売れないよ」
「うちの鋼はね、百年前から、行き先が決まってるんだ」
ハーサは、埃をかぶった木箱から一通の書状を出した。
『サイカ鉱山およびその後継者は、産出するアルヴァ鋼の全量を、カルディア商会連合の指定する三商会に対してのみ売り渡すものとする。期間、百年——』
ルカは日付を見た。
百三年前。
「切れているじゃないですか」
「二十年ごとに更新されてる」
ハーサは肩をすくめた。
「最後の更新は、六年前」
「なぜ更新するんです。買値はいくらですか」
女の口元が歪んだ。
「一貫あたり、銀貨三枚」
バルサが唸った。
「カルディアじゃ、一貫が銀貨二十枚だぞ」
「知ってるよ」
「なぜ更新した」
「他に買い手がいないからさ」
ハーサは書状を畳んだ。
「三商会が買わなくなったら、この町は三月で消える。三枚でも、ゼロよりましだ」
彼女は椅子に沈み込んだ。
「それにね。掘っても、半分は売れないんだよ」
ルカは、顔を上げた。
「……売れない?」
山は、町の裏にあった。
黒い岩の山だ。人の背の三倍はある。それが、坂に沿って何百歩も続いていた。
ルカは、その前に立って、動けなくなった。
全部、アルヴァ鋼だった。
彼の目に、それは見えていた。純度に幅はある。だが、どれも間違いなくアルヴァだ。掌に載る量を集めるのに四十日かけた鋼が、山になって、雨ざらしになっていた。
「規格外だよ」
ハーサが言った。
「規格」
「連合の買入規格。硫分がいくつ以下、燐分がいくつ以下、って決まってるんだ」
女は岩を蹴った。
「うちの山は、南側の坑道から出るのが硫分が高くてね。規格に一分でも外れたら、一貫も買わない。だから捨てる」
ルカは、岩を一つ拾い上げた。
「これは、使えないのですか」
「使えないんだろうね」
「試したことは」
ハーサが、少し黙った。
「……ないよ」
彼女は言った。
「規格外を打っても、買ってくれる先がないんだ。試す金も暇もない」
ルカは、岩を握りしめた。
指が震えていた。
誰も、試していない。
規格に外れているから使えないではない。規格に外れているから、誰も試さなかったのだ。
彼は振り返った。
「ハーサさん。この規格は、いつ決まったものですか」
女は眉を寄せた。
「さあね。書き付けはあるよ。うちの婆さんの婆さんの代からのが」
その夜、ルカは差配の家の板の間で、古い書き付けの束を広げた。
蝋燭を三本立て、それでも足りず、荷から自分の灯りを出した。
白い光が、部屋を満たした。
ハーサが息を呑んだ。
「なんだいそれは」
「あとでお話しします」
ルカは紙を繰った。
『カルディア商会連合・魔道具安全基準』
百二年前。
『第一条 魔道具は、その用途に応じ、定められた魔石消費量を下回ってはならない。』
ルカの指が、止まった。
もう一度読んだ。
下回ってはならない。
「バルサさん」
「なんだ」
「これを読んでください」
男は紙を受け取り、目を走らせ、そして眉を寄せた。
「……逆じゃないか。少ないほうがいいだろうが」
「はい」
「消費量が多いほど安全、なんてことがあるか」
「ありません」
ルカは言った。
「これは安全の話ではありません」
彼は次の条を読んだ。
『第二条 魔石を規定量下回る消費で作動する魔道具は、術式の暴走の恐れがあり、これを製造・販売・使用してはならない。』
『第三条 前条に違反する魔道具は、所持を禁ずる。所持者は速やかに届け出るものとし、違反者には銀貨三枚の過料を科す。』
銀貨三枚の過料。
ヴェントが橋の下で言った額と寸分違わなかった。
三日で、街から灯りが消えた。
「ルカ」
バルサの声が低くなった。
「これは」
「私の灯りは」
ルカは、乾いた声で言った。
「この街では、違法です」
部屋が、静まり返った。
「百二年前から、ずっと。誰も廃止していません」
ルカは紙を置いた。
「連合はいつでも、この条文を持ち出せる。私が大きくなるのを待って、一番効く日に出せばいい」
「……お前、それを知らずに商売しとったのか」
「知りませんでした」
ルカは言った。
「知らずに済んでいたのは、私が小さかったからです」
彼は、白い灯りを見つめた。
そして、もう一枚の紙を手に取った。
第四条があった。
『第四条 前三条の実施のため、連合は魔道具の材となる金属につき、買入規格を定める。規格に適合せざる金属は、魔道具の材として用いてはならない。』
ルカは、顔を上げた。
「ハーサさん」
「なんだい」
「あなたの町が捨てている山は」
彼は言った。
「灯りを潰すために、規格外にされたんです」
女の顔から、表情が消えた。
「同じ紙です。同じ年に、同じ人間が書いた」
ルカは紙を並べた。
「この規格が決まった年から、サイカの山から出る鋼の半分は屑になった。百二年、あなたたちは掘った鋼の半分を捨て続けてきた」
ハーサは、動かなかった。
長い沈黙のあと、彼女は掠れた声で言った。
「……うちの婆さんが言ってた」
「はい」
「昔は、この町に二千人おった。もっと昔は、五千人おったって」
女は俯いた。
「なんで減ったのか、誰も知らないんだ。鉱脈は死んでない。まだいくらでも出る。掘っても掘っても半分は捨てるだけで」
彼女は顔を上げた。目が赤かった。
「あんた。うちの鋼を買うのかい」
「買います」
「規格外を?」
「規格外を、です」
交渉は、夜通しかかった。
ルカが最初に出した値は、一貫あたり銀貨五枚だった。
ハーサが目を剥いた。
「連合が三枚だよ。五枚も出したら、あんたが損する」
「損しません」
ルカは言った。
「連合が三枚で買うのは規格品です。私が買うのは、あなたが捨てている山です。捨てている物を五枚で売って、損する人はいません」
「……あんた、それでいいのかい。もっと叩けるよ」
「叩きません」
ルカは、紙を広げた。
「三つ、お願いがあります」
「言ってごらん」
「ひとつ。鉱石のままでは買いません」
ハーサが眉を寄せた。
「峠を越えるのに、荷車二台で運べる鉱石はたかが知れています。溶かして、不純物を落として、板にしてください。同じ重さで十倍の量が運べます」
ルカは言った。
「精錬の炉は、この町にありますね」
「あるよ。二十年動かしてないけど」
「動かしてください。その手間の分は、値に乗せて構いません。一貫八枚でも十枚でも」
女の口が、開いた。
「ふたつ。規格外を選り分けないでください」
ルカは続けた。
「硫分が高かろうが低かろうが、全部買います。ただし、板ごとに、どの坑道の、どの深さから出たかを書き付けてください」
「なんでそんな面倒を」
「性質が違うはずです。私はそれを見分けられます」
ルカは言った。
「どの層の鋼がどの陣に向くかは私が調べます。あなたたちが百年『屑』と呼んできた物には、たぶん十種類くらいの違いがあります」
ハーサは、口元を押さえた。
「みっつ」
ルカは、少し間を置いた。
「この取引を、連合には言わないでください」
「そりゃそうだろうね」
「ですが、いつかは知られます」
ルカは言った。
「そのとき連合は、あなたに規格品の買入を止めると言ってくるでしょう。三商会が買わなければ、この町は三月で消える。私はその脅しを、消せません」
女は、じっとルカを見た。
「じゃあ、どうしろと」
「決めるのは、あなたです」
ルカは言った。
「私は、隠しません。あなたが背負うものを、正確に伝えてから、判を押していただきます」
部屋が静かになった。
バルサが、ぼそりと言った。
「小僧。それを言ったら、断られるぞ」
「言わずに判を押させたら、それは第四条と同じです」
ハーサは、長いこと黙っていた。
やがて、彼女は立ち上がり、窓を開けた。
夜の谷が、そこにあった。家々に灯りはほとんどなく、山肌の黒い影だけが月に光っている。三百人が寝ている町だった。
「あんた、いくつだい」
「十六です」
「十六か」
女は、窓の外を見たまま言った。
「うちの町はね、百年、待たされてたんだよ」
彼女は振り返った。
「三枚で買われて、半分捨てて、それでも文句を言わずに掘ってきた。なんでかって、そういうもんだと思ってたからさ」
ハーサは、机の上の白い灯りを指した。
「けど、あんたはさっき言ったね。これは百二年前に禁じられた灯りだって」
「はい」
「禁じられたのに、いま点いてる」
女は笑った。歯を見せて、豪快に笑った。
「そういうもんじゃなかったんだ」
彼女は机に戻り、印を取り出した。
「判を押すよ」
帰路。
荷車二台に、精錬した板が積まれていた。第一便は少ない。炉を動かすのに十日かかるからだ。本便は春になる。
峠にかかったとき、初雪が降りはじめた。
「ぎりぎりだな」
バルサが空を見上げた。
ルカは、荷台の板に手を置いていた。
黒い、鈍い光の金属。百年、雨に打たれていた屑。これで灯りが何台作れるか、頭の中でとうに数え終えていた。
二千台。
この街の職人街の全員に配って、まだ余る。
だが、彼の頭を占めていたのは、その数ではなかった。
懐に、写しがあった。
『第二条 魔石を規定量下回る消費で作動する魔道具は、術式の暴走の恐れがあり、これを製造・販売・使用してはならない。』
ルカは、雪の降る峠道で、荷車を押しながら考えていた。
——連合は、いつでもこれを出せる。
——出さないのは、まだ出す価値がないからだ。
——私が二千台配ったその日に、出してくる。
雪が、外套の肩に積もりはじめた。
彼は、荷車を押す手に力を込めた。
知られている罠は、もう罠ではない。
「バルサさん」
「なんだ」
「街に戻ったら、イルマさんのところへ行きます」
「あの婆さんに?」
「記録院の地下です」
ルカは言った。
「百二年前に、誰がこの条文を書いたのか。なぜ書けたのか。そこまで辿らないと、この紙は消せません」
バルサは、しばらく黙って歩いた。
それから、低い声で言った。
「小僧。お前、灯りを売る商売をしとると思っとったが」
「はい」
「法を潰す商売をしとるんだな」
ルカは、答えなかった。
答えなかったが、雪の中で、少しだけ笑った。




