第14話 東の丘
月の初めの朝、ルカは白い門の前に立った。
入れてもらえなくても立つ、と言った。だから半刻早く着いて、立っていた。
扉が開いたのは、日が屋根の高さに届いた頃だった。
出てきたのは女中ではなく、叔父だった。外套を着て、履物を履いている。その後ろから、厚手の外套に埋もれたミナが顔を出した。
「わしも行く」
叔父は目を合わせずに言った。
「子供二人では、門を通れん」
「叔父上」
「勘違いするな」
男は歩き出した。
「姉に、顔を見せる義理がわしにもあるだけだ」
ミナがルカの隣に並んで、そっと袖を掴んだ。
「言ったでしょ。あたしが言えば入れるって」
東の丘への道は、川を渡って、畑の間を上っていく。
債務者牢は、灰色の石を積んだ長い建物だった。窓は高く、小さい。牢というより倉庫に似ていた。
門の脇の小屋で、書記が帳面を開いた。
「エイム・クレインおよびリナ・クレイン。面会は四半刻」
「四半刻ですか」ルカは訊いた。
「規則です」
叔父が銀貨を一枚、机に置いた。書記は帳面に何かを書き足して、言った。
「半刻です」
ルカは、その動きを黙って見ていた。この街のどこにも、金で動かないものはない。
「働けば、債務は減るのですか」
ルカは訊いた。
「減ります」
書記は事務的に答えた。
「労役一日につき、銅貨六枚」
「一日六枚」
「はい」
ルカは、頭の中で数えた。
金貨五百枚。銀貨五万枚。銅貨五百万枚。
一日六枚で、二人で十二枚。
四十一万日。
「……千年以上ですね」
「そうなります」
書記は帳面を閉じた。
「ですが最近、減っております」
ルカの手が、止まった。
「毎月、代納が入っておりますので」
書記は事務的に続けた。
「本日時点で、残債は金貨四百三十一枚」
叔父が、驚いた顔でルカを見た。
ルカは何も言わなかった。
一年七か月、彼は毎月、稼ぎの一部を裁判所の窓口に運んでいた。板に書いていた数字は、頭の中の計算ではない。実際に払った分だった。
面会室は、石の床に長机が一つあるだけの部屋だった。
扉が開いて、二人が入ってきた。
母が先だった。
痩せていた。だが、髪はきちんと結ってあった。誰にも見られない場所で、それでも結っていた。
「ミナ」
母の声が割れた。
九つの妹は、一瞬固まって、それから走った。机を回り込んで、母の腰にぶつかるように抱きついた。母は膝をついて、その頭を抱え込んだ。二人とも、しばらく声にならなかった。
ルカは、扉のところに立ったまま動けなかった。
その後ろから、父が入ってきた。
エイム・クレイン。
ルカが最後に見たとき、この人は屋敷の玄関で背を丸めていた。いまは、背が伸びていた。痩せて、日に焼けて、手が荒れていた。労役の手だった。
父は、息子を見た。
そして、真っ先にこう言った。
「背が伸びたな」
ルカの喉の奥で、何かが割れた。
謝られると思っていた。すまなかったと言われると思っていた。そう言われたら、どう答えるか、二年考えていた。
背が伸びたな。
その一言に対する答えを、彼は一つも用意していなかった。
「……はい」
それだけしか、出てこなかった。
母とミナが隅で話している間、ルカと父は机を挟んで座った。
父は、息子の手を見ていた。
「指の腹が硬いな」
「針を持ちますので」
「陣か」
「刻むのは別の人です。私は見るだけです」
父は、ゆっくりと頷いた。
「お前は、見るのがうまかった」
しばらく沈黙があった。やがて父が言った。
「一年半ほど前からな。ここの帳面から、毎月、金が引かれとる」
ルカは、顔を上げなかった。
「誰が払っとるのか、書記に訊いた。教えてくれん。規則だそうだ」
父は言った。
「わしは、トマスかと思った。あいつがどこかで立ち直って、少しずつ返しとるんじゃないかとな」
「トマスさんではありません」
「わかっとる」
父は静かに言った。
「トマスなら、一度に返そうとして、また潰れる。毎月同じ日にきっちり入るのは、そういう性分の人間じゃない」
彼は、息子の顔を見た。
「一日も欠けとらんそうだな」
ルカは、俯いた。膝の上で、拳を握った。指が白くなった。言いたいことが、ありすぎた。
上市に店を出したこと。ヴェントを見つけたこと。灯りのこと。六十人が壺を出してくれたこと。ミナのために八十一枚を作って、使えなかったこと。
だが、口を開けば全部が崩れる気がして、何も言えなかった。
父は、それ以上訊かなかった。
代わりに、こう言った。
「ルカ。訊きたいことがあって来たんだろう」
ルカは、顔を上げた。
「……はい」
「言え。半刻しかない」
「なぜ、誰も貸してくれなかったのですか」
父の目が、少しだけ細くなった。
「屋敷を売って、在庫を全部吐いて、それでも足りなかった。父上は街中を回られたはずです」
ルカは言った。
「クレイン商会は三十年、この街で信用を積みました。恩を売った相手も、数え切れないほどいたはずです。それが、一軒も貸さなかった」
「一軒、あった」
ルカの息が、止まった。
「貸すと言った家が、一軒だけあった」
父は言った。
「金貨五百枚、耳を揃えて出すとな」
「どこですか」
父は、答えなかった。
代わりに、机の上で両手を組んだ。荒れた、労役の手だった。
「条件が、一つあった」
「……条件」
「うちの陣師を寄越せと」
部屋の空気が抜けた。ルカは動けなかった。
「ヴェント、という男だ」
父は言った。
「知らんだろうな。工房の奥にいた爺さんだ。お前が小さい頃、銅板の切れ端をよく貰っとった」
「知っています」
父の眉が上がった。
「知っとるのか」
「いま、うちにいます」
父は、しばらく黙った。
それから、ゆっくりと息を吐いた。長い、長い息だった。
「……そうか」
その一言に、二年分の何かが入っていた。
「なぜ、断られたのですか」
ルカは訊いた。
「陣師一人と、商会と、父上と母上の身柄です。天秤にかけたら」
「かけたよ」
父は言った。
「三日、考えた」
「それで」
「向こうの使いが、こう言った。『あの老人には、いま世に出てはならん知識がある。連合が預かるのが筋だ』とな」父は目を上げた。「預かる、と言った。雇うとは言わんかった」
ルカの背筋が、冷たくなった。
「わしは商人だ。言葉の選び方には敏い」父は続けた。「あれは、人を雇う言い方じゃない。物をしまう言い方だ」
「……」
「渡せば、あの爺さんは二度と外に出てこん。それがわかった」
父は肩をすくめた。
「だから断った」
「商会が潰れるのに」
「潰れるからといって、人を渡していい理由にはならんだろう」
あっさりと、父は言った。
ルカは、言葉を失った。
これだ、と思った。
この人が街中から愛され、そして誰にも助けられなかった理由が、この一言の中にある。天秤にかけて、三日考えて、それでも自分が損をする側を選ぶ。理屈ではなく、癖なのだ。
ヴァレンティは正しかった。この人は商いをしていなかった。
そして、その癖のおかげで、いまルカの店にヴェントがいる。
「父上」
「なんだ」
「私は、その判断を、間違いだと思っていました」
父は、笑った。
「間違いだよ」
「……え」
「間違いだ。わしはあのとき、断り方を間違えた」
父は真顔になった。
「断るのはいい。だが、断ったあとにどうするかを考えてなかった。ヴェントを守るなら、守り切る算段をつけてから断らねばならん。わしは断って、それで終わりにした」
彼は、息子をまっすぐ見た。
「だからあの男は、七年、橋の下におった」
ルカは、息を呑んだ。
七年。
父が知っていたということだ。ヴェントがどこにいるか、どんな暮らしをしているか、知っていて、牢の中から何もできずにいたということだ。
「ルカ」
父は言った。
「善いことをするのは易しい。善いことを続けるのが商売だ」
半刻は、あっという間に過ぎた。
書記が扉を叩いた。母がミナの頬を両手で挟んで、何度も何度も名前を呼んだ。ミナは泣かなかった。歯を食いしばって、母の目を見ていた。
立ち上がりぎわ、父が言った。
「ルカ」
「はい」
「毎月の代納はやめろ」
ルカは、足を止めた。
ルカは意味が分からなかった。
二年。
毎月欠かさず運んできた金だった。
「……なぜですか」
「金貨四百三十一枚だ。お前が毎月出しとる額では、届くのに二十年かかる」
父は言った。
「二十年、お前は自分の商いを大きくできん。返済に食われるからな。返しながら育つ商売はない」
「では」
「先に、育てろ」
父は言った。
「わしと母さんは、ここで待てる。ここは飯が出る。屋根もある。労役はきついが、死にはせん」
父は笑った。
「二十年かけて助けられるより、五年で助けられるほうが、こっちも嬉しい」
ルカは、俯いた。
肩が震えた。二年、堪えていたものが、そこで一度だけ、緩んだ。
「……はい」
「泣くな。妹が見とる」
「見ていません」
「見とるよ」
坂を下りながら、ミナが袖を引いた。
「兄さま」
「なんだ」
「お父さま、なんて言ってた?」
ルカは、少し考えた。
「先に育てろ、と」
「なにを?」
「商売を」
ミナは、しばらく黙って歩いた。それから言った。
「じゃあ、次に来るときは、もっと大きくなってるの?」
「そのつもりだ」
「どのくらい」
ルカは、丘の上を振り返った。灰色の建物が、夕日の中に沈もうとしていた。
「二人を、家に連れて帰れるくらいだ」
店に戻ったのは、夜半近くだった。
灯りが四隅で白く燃えていた。ネルが帳場で数を数え、トトが作業台の下で寝ていた。
ヴェントは、いつもの場所にいた。震える手で、銅板に線を引いている。
ルカは、その背中をしばらく見ていた。
七年。
この人は、自分を守るために潰れた家があることを、知っていた。知っていて、川の下に座り、誰にも口をきかず、同じ陣を彫り続けていた。
言おうと思った。
父上から聞きました、と。あなたのせいではありません、と。
だが、言葉が出る前に、老人が振り返った。
「遅かったな」
「はい」
「エイムは、生きとったか」
「生きていました」
ヴェントは頷いた。それだけだった。針が、また動きはじめる。
ルカは、何も言わなかった。
言えば、この老人は針を置く。七年ぶりに握った針を、置いてしまう。
だから、代わりにこう言った。
「ヴェントさん。北へ行こうと思います」
老人の手が、止まった。
「北?」
「アルヴァ鋼の産地です」
ルカは外套を脱いだ。
「この街の三商会が売らないなら、掘っている場所から買います。金貨八十一枚あります。運ぶ算段さえつけば、灯りは百台でも二百台でも作れる」
「峠は」
「冬が来る前に往復します」
ヴェントは、長いこと少年を見ていた。
そして、初めて、笑った。
歯の抜けた、乾いた笑いだった。
「エイムは、そういうことをせんかった」
老人は言った。
「あの男は、いつも街の中で何とかしようとした」
「私は、外へ行きます」
「ああ」
ヴェントは針を握り直した。
「行ってこい」




