↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二年で金貨五百枚 ~妹を買い戻すため、失われた魔法で商売を始める~  作者: 霧里 野蒜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/29

第13話 白い門の内側

 二年前まで、この応接間には母がいた。

 窓際の椅子に座って、ルカが庭で転ぶのを笑っていた。いまその椅子には布が掛けてある。使っていないのだ。

 ソレル家の当主は、机の向こうに座っていた。二月前に店へ来たときより、さらに痩せて見えた。

 ルカは革袋を机に置いた。重い音がした。

 「金貨八十一枚あります」

 叔父は、袋を見た。手を伸ばさなかった。

 「……どこで作った」

 「借りました。六十人ほどから、少しずつ」

 「返す当ては」

 「あります」

 叔父は、袋から目を離さなかった。長いこと、そうしていた。

 やがて、彼は引き出しを開け、一通の書状を取り出して、机の上を滑らせた。

 「読め」

 婚約契約書だった。


 三月前の日付。ソレル家と、フェルド家。連合理事の一族で、ヴァレンティの遠縁にあたる家だ。

 支度金、金貨八十枚。ソレル家の借財の肩代わり、別途。

 ルカは読み進めた。

 そして、第六条で、指が止まった。

 『ソレル家は、婚儀成立まで、および成立後において、ミナ・ソレルの血縁者がフェルド家ならびに商会連合加盟各社に対し、商業上の敵対行為を行わぬよう監督する義務を負う。これに反した場合、ソレル家は違約金として金貨二百枚を支払うものとする。』

 部屋の空気が、抜けた。

 「叔父上」

 「言うな」

 「これは、縁組ではありません」

 「言うなと言っとる!」

 叔父が、机を叩いた。

 そして、そのまま顔を覆った。

 「……三月前に気づいた」

 男の声は掠れていた。

 「向こうは、ミナが欲しいのではない。お前の首に縄をつけたいのだ。わしはその縄を、姪の首に巻く形で受け取った」

 「なぜ判を押されたのですか」

 「押したときは、そんな条項はなかった」

 ルカは、契約書を裏返した。

 第六条だけ、筆跡が違った。同じ墨、同じ手を装ってはいるが、字間がわずかに狭い。後から書き足されている。

 「差し替えられたのですね」

 「証明できん」

 叔父は力なく言った。

 「わしの判は、確かに末尾に押してある」

 父と同じだ、とルカは思った。

 読まずに判を押す。相手を信じるからではなく、断る余裕がないから。この街は、そうやって人を潰す。

 「八十一枚では、足りません」

 ルカは言った。

 「破棄すれば、違約金が二百枚」

 「そうだ」

 「それに、二百枚を積んでも」

 ルカは書状を置いた。

 「向こうは、受け取らないでしょう」

 叔父は、答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 フェルド家が欲しいのは金ではない。

 ルカは革袋を引き寄せた。ずしりと重かった。六十人の壺と、子供たちの銅貨と、詫びに来た三軒と、バルサの二割が入っている。

 それを、いま、使う先がない。

 「兄さま」

 扉のところに、その子は立っていた。

 ルカは立ち上がった。椅子が倒れたが、直す余裕がなかった。

 小さかった。記憶よりずっと小さくて、そして記憶よりずっと大きかった。髪が伸びて、結ってあった。着ている物が上等で、それが妙に他人のように見えた。

 「ミナ」

 九つになった妹は、部屋の入り口から動かなかった。

 「入っていいって言われたから」

 「入っていい」

 ミナは、三歩だけ入った。それから、机の上の革袋を見た。

 「それ、なに」

 「お金だ」

 「お金を持ってきたの」

 「うん」

 ミナは、しばらく袋を見ていた。それから、顔を上げた。

 「あたしを買いに来たの」

 叔父が息を呑む音がした。

 ルカは、自分の顔から血が引くのを感じた。

 そう言われるだろうと、わかっていた。

 わかっていて、それでも金を作った。他に方法がなかったからだ。だが、九つの子に一言でそう言われると、あの夜、板の前で自分が何と書いたかが、そのまま返ってきた。

 「……そうだ」

 ルカは言った。

 「買いに来た」

 ミナの目が、揺れた。

 「けど、買えなかった」

 ルカは続けた。

 「足りなかったんじゃない。売り物じゃなかったんだ」

 「どういうこと」

 「叔父上は、お前を売る気がない。向こうは、お前を買う気がない」

 ルカは膝をついて、妹と目の高さを合わせた。

 「向こうが欲しいのは俺だ。お前は、そのために使われている」

 ミナは、まばたきをした。

 「よくわかんない」

 「いま全部はわからなくていい。ただ、一つだけ覚えていてくれ」

 ルカは言った。

 「お前は、値段のつく物じゃない」

 長い沈黙があった。

 ミナは、じっと兄の顔を見ていた。それから、ぽつりと言った。

 「二年前、門のところにいたよね」

 ルカの喉が、詰まった。

 「見てた。窓から」

 「知ってる」

 「あのあと、乳母が『お兄さまは行ってしまわれました』って言った。次の月も、その次も、そう言った」ミナは淡々としていた。「あたし、兄さまは十二回来て、十二回帰ったんだって数えてた」

 「十四回だ」

 「十四回?」

 「二回は、女中さんが出てくる前に帰った」

 ミナは、少し黙った。

 「なんで帰ったの」

 「入れてもらえなかったからだ」

 「なんで入れてもらえないの」

 「俺が、金を持っていなかったからだ」

 言ってしまってから、ルカは後悔した。だがミナは、意外なほど落ち着いてそれを聞いていた。

 九つの子は、大人が思うより、ずっと世の中の仕組みを見ている。この二年、この屋敷で、彼女はそれを見続けたのだろう。

 「じゃあ、いま入れてもらえたのは」

 「金を持ってきたからだ」

 「……変なの」

 ミナは眉を寄せた。

 「兄さまは兄さまなのに」

 「そうだな」

 ルカは笑った。二年ぶりに、まともに笑った気がした。

 「変だ」

 帰り際、玄関で、ミナが袖を引いた。

 「兄さま」

 「なんだ」

 「お父さまとお母さまに、会いに行った?」

 ルカは、動けなくなった。

 「牢屋、面会できるんだって。月に一度」

 ミナは言った。

 「乳母が教えてくれた。あたしは子供だから一人で行けないけど、大人と一緒なら入れるって」

 「……ああ」

 「行った?」

 答えられなかった。

 行っていない。二年、一度も。

 理由なら、いくらでも並べられた。忙しかった。金がなかった。面会の手続きを知らなかった。

 だが本当の理由は、一つだけだった。

 手ぶらで会いたくなかった。

 何も持たずに、何も返せずに、痩せた顔で牢の前に立つのが怖かった。父に「すまなかった」と言われるのが怖かった。母に泣かれるのが怖かった。だから、何かを成し遂げてから行こうと決めて、その「何か」を、二年、更新し続けていた。

 ミナは、兄の顔を見上げていた。

 責めてはいなかった。ただ、待っていた。

 「行ってない」

 ルカは言った。

 「なんで」

 「怖かったからだ」

 ミナは、ゆっくりと頷いた。それから、ぶっきらぼうに言った。

 「じゃあ、連れてって」

 「え」

 「あたし、一人じゃ入れないもん」

 妹は袖を離さなかった。

 「兄さまと一緒なら入れる。……あたしも怖いから、一緒がいい」

 ルカは、しばらく声が出なかった。

 「叔父上が、許すかどうか」

 「訊いてみる」

 「ミナ」

 「なに」

 ルカは、膝をついて、妹の頭に手を置いた。

 「来月の一日に来る。門の前に立つ。入れてもらえなくても、立つ」

 「入れてもらえるよ」

 ミナは言った。

 「あたしが言うから」

 坂を下りながら、ルカは革袋の重さを抱えていた。

 金貨八十一枚。

 使い道が、消えた金だ。

 バルサには二割の利がつく。五十三人には、灯りの永久割引を約束してある。子供たちには、いつか仕事場を持ったときの一台を約束した。

 返す当てがない金ではない。だが、この金で妹を取り返すという一点のために、彼はこの半年を走った。その一点が、たったいま、消えた。

 坂の途中で、ルカは足を止めた。

 朝の街が、下に広がっている。上市の屋根が光り、その向こうに川があり、川の先に東の丘が見える。

 丘の上に、灰色の建物があった。

 債務者牢だ。

 二年間、ルカは一度も、その方角をまっすぐ見なかった。

 いま、見ていた。

 父と母は、あそこにいる。

 金貨五百枚。一年七か月で、四万三千枚まで減らした残債は、いま手元にある八十一枚を足しても、まだ届かない。

 だが、それは今日の話だ。

 ルカは、袋を抱え直した。

 ——この金は、返す金ではない。

 ——働かせる金だ。

 八十一枚。半年前、月に金貨八枚を稼ぐのがやっとだった商いに、いま八十一枚の元手がある。灯りが作れないのは材料がないからで、材料が買えないのは金がないからだった。

 金は、ある。

 問題は、この街のアルヴァ鋼を三つの商会が握っていることだ。

 ルカは坂を下りはじめた。歩調が速くなっていく。

 頭の中で、もう次の板に炭が走っていた。

 三つの商会。全部が連合。全部が売らない。

 ならば、この街の外から買えばいい。

 アルヴァ鋼は、北の山から来る。

 産地に行けばいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。