第13話 白い門の内側
二年前まで、この応接間には母がいた。
窓際の椅子に座って、ルカが庭で転ぶのを笑っていた。いまその椅子には布が掛けてある。使っていないのだ。
ソレル家の当主は、机の向こうに座っていた。二月前に店へ来たときより、さらに痩せて見えた。
ルカは革袋を机に置いた。重い音がした。
「金貨八十一枚あります」
叔父は、袋を見た。手を伸ばさなかった。
「……どこで作った」
「借りました。六十人ほどから、少しずつ」
「返す当ては」
「あります」
叔父は、袋から目を離さなかった。長いこと、そうしていた。
やがて、彼は引き出しを開け、一通の書状を取り出して、机の上を滑らせた。
「読め」
婚約契約書だった。
三月前の日付。ソレル家と、フェルド家。連合理事の一族で、ヴァレンティの遠縁にあたる家だ。
支度金、金貨八十枚。ソレル家の借財の肩代わり、別途。
ルカは読み進めた。
そして、第六条で、指が止まった。
『ソレル家は、婚儀成立まで、および成立後において、ミナ・ソレルの血縁者がフェルド家ならびに商会連合加盟各社に対し、商業上の敵対行為を行わぬよう監督する義務を負う。これに反した場合、ソレル家は違約金として金貨二百枚を支払うものとする。』
部屋の空気が、抜けた。
「叔父上」
「言うな」
「これは、縁組ではありません」
「言うなと言っとる!」
叔父が、机を叩いた。
そして、そのまま顔を覆った。
「……三月前に気づいた」
男の声は掠れていた。
「向こうは、ミナが欲しいのではない。お前の首に縄をつけたいのだ。わしはその縄を、姪の首に巻く形で受け取った」
「なぜ判を押されたのですか」
「押したときは、そんな条項はなかった」
ルカは、契約書を裏返した。
第六条だけ、筆跡が違った。同じ墨、同じ手を装ってはいるが、字間がわずかに狭い。後から書き足されている。
「差し替えられたのですね」
「証明できん」
叔父は力なく言った。
「わしの判は、確かに末尾に押してある」
父と同じだ、とルカは思った。
読まずに判を押す。相手を信じるからではなく、断る余裕がないから。この街は、そうやって人を潰す。
「八十一枚では、足りません」
ルカは言った。
「破棄すれば、違約金が二百枚」
「そうだ」
「それに、二百枚を積んでも」
ルカは書状を置いた。
「向こうは、受け取らないでしょう」
叔父は、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
フェルド家が欲しいのは金ではない。
ルカは革袋を引き寄せた。ずしりと重かった。六十人の壺と、子供たちの銅貨と、詫びに来た三軒と、バルサの二割が入っている。
それを、いま、使う先がない。
「兄さま」
扉のところに、その子は立っていた。
ルカは立ち上がった。椅子が倒れたが、直す余裕がなかった。
小さかった。記憶よりずっと小さくて、そして記憶よりずっと大きかった。髪が伸びて、結ってあった。着ている物が上等で、それが妙に他人のように見えた。
「ミナ」
九つになった妹は、部屋の入り口から動かなかった。
「入っていいって言われたから」
「入っていい」
ミナは、三歩だけ入った。それから、机の上の革袋を見た。
「それ、なに」
「お金だ」
「お金を持ってきたの」
「うん」
ミナは、しばらく袋を見ていた。それから、顔を上げた。
「あたしを買いに来たの」
叔父が息を呑む音がした。
ルカは、自分の顔から血が引くのを感じた。
そう言われるだろうと、わかっていた。
わかっていて、それでも金を作った。他に方法がなかったからだ。だが、九つの子に一言でそう言われると、あの夜、板の前で自分が何と書いたかが、そのまま返ってきた。
「……そうだ」
ルカは言った。
「買いに来た」
ミナの目が、揺れた。
「けど、買えなかった」
ルカは続けた。
「足りなかったんじゃない。売り物じゃなかったんだ」
「どういうこと」
「叔父上は、お前を売る気がない。向こうは、お前を買う気がない」
ルカは膝をついて、妹と目の高さを合わせた。
「向こうが欲しいのは俺だ。お前は、そのために使われている」
ミナは、まばたきをした。
「よくわかんない」
「いま全部はわからなくていい。ただ、一つだけ覚えていてくれ」
ルカは言った。
「お前は、値段のつく物じゃない」
長い沈黙があった。
ミナは、じっと兄の顔を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「二年前、門のところにいたよね」
ルカの喉が、詰まった。
「見てた。窓から」
「知ってる」
「あのあと、乳母が『お兄さまは行ってしまわれました』って言った。次の月も、その次も、そう言った」ミナは淡々としていた。「あたし、兄さまは十二回来て、十二回帰ったんだって数えてた」
「十四回だ」
「十四回?」
「二回は、女中さんが出てくる前に帰った」
ミナは、少し黙った。
「なんで帰ったの」
「入れてもらえなかったからだ」
「なんで入れてもらえないの」
「俺が、金を持っていなかったからだ」
言ってしまってから、ルカは後悔した。だがミナは、意外なほど落ち着いてそれを聞いていた。
九つの子は、大人が思うより、ずっと世の中の仕組みを見ている。この二年、この屋敷で、彼女はそれを見続けたのだろう。
「じゃあ、いま入れてもらえたのは」
「金を持ってきたからだ」
「……変なの」
ミナは眉を寄せた。
「兄さまは兄さまなのに」
「そうだな」
ルカは笑った。二年ぶりに、まともに笑った気がした。
「変だ」
帰り際、玄関で、ミナが袖を引いた。
「兄さま」
「なんだ」
「お父さまとお母さまに、会いに行った?」
ルカは、動けなくなった。
「牢屋、面会できるんだって。月に一度」
ミナは言った。
「乳母が教えてくれた。あたしは子供だから一人で行けないけど、大人と一緒なら入れるって」
「……ああ」
「行った?」
答えられなかった。
行っていない。二年、一度も。
理由なら、いくらでも並べられた。忙しかった。金がなかった。面会の手続きを知らなかった。
だが本当の理由は、一つだけだった。
手ぶらで会いたくなかった。
何も持たずに、何も返せずに、痩せた顔で牢の前に立つのが怖かった。父に「すまなかった」と言われるのが怖かった。母に泣かれるのが怖かった。だから、何かを成し遂げてから行こうと決めて、その「何か」を、二年、更新し続けていた。
ミナは、兄の顔を見上げていた。
責めてはいなかった。ただ、待っていた。
「行ってない」
ルカは言った。
「なんで」
「怖かったからだ」
ミナは、ゆっくりと頷いた。それから、ぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、連れてって」
「え」
「あたし、一人じゃ入れないもん」
妹は袖を離さなかった。
「兄さまと一緒なら入れる。……あたしも怖いから、一緒がいい」
ルカは、しばらく声が出なかった。
「叔父上が、許すかどうか」
「訊いてみる」
「ミナ」
「なに」
ルカは、膝をついて、妹の頭に手を置いた。
「来月の一日に来る。門の前に立つ。入れてもらえなくても、立つ」
「入れてもらえるよ」
ミナは言った。
「あたしが言うから」
坂を下りながら、ルカは革袋の重さを抱えていた。
金貨八十一枚。
使い道が、消えた金だ。
バルサには二割の利がつく。五十三人には、灯りの永久割引を約束してある。子供たちには、いつか仕事場を持ったときの一台を約束した。
返す当てがない金ではない。だが、この金で妹を取り返すという一点のために、彼はこの半年を走った。その一点が、たったいま、消えた。
坂の途中で、ルカは足を止めた。
朝の街が、下に広がっている。上市の屋根が光り、その向こうに川があり、川の先に東の丘が見える。
丘の上に、灰色の建物があった。
債務者牢だ。
二年間、ルカは一度も、その方角をまっすぐ見なかった。
いま、見ていた。
父と母は、あそこにいる。
金貨五百枚。一年七か月で、四万三千枚まで減らした残債は、いま手元にある八十一枚を足しても、まだ届かない。
だが、それは今日の話だ。
ルカは、袋を抱え直した。
——この金は、返す金ではない。
——働かせる金だ。
八十一枚。半年前、月に金貨八枚を稼ぐのがやっとだった商いに、いま八十一枚の元手がある。灯りが作れないのは材料がないからで、材料が買えないのは金がないからだった。
金は、ある。
問題は、この街のアルヴァ鋼を三つの商会が握っていることだ。
ルカは坂を下りはじめた。歩調が速くなっていく。
頭の中で、もう次の板に炭が走っていた。
三つの商会。全部が連合。全部が売らない。
ならば、この街の外から買えばいい。
アルヴァ鋼は、北の山から来る。
産地に行けばいい。




