第8話:動き出す学園と、私たちの静かな決意。
支倉美咲との過去に、本当の意味で決別したあの日から。
俺と一葉を取り巻く環境は、ますます加速しながら変化していた。
「お、音無くん……! これ、もしよかったら放課後にでも食べて!」
「音無、次の時間の移動教室、一緒に行こうぜ!」
2年B組の教室での俺の席は、今やクラスの、いや、学年の一つの中心地になっていた。
他クラスの女子がわざわざ廊下から覗きに来たり、これまで関わりのなかった男子たちが気さくに声をかけてきたりする。
『永遠の非モテ』を演じていた頃の俺を知る人間からすれば、信じられないような光景だろう。
「ああ、ありがとう。後でいただくよ」
「移動教室、いいな。行こうか」
俺は押し寄せる好意や興味に対して、気負うことなく、かといって傲ることもなく、自然体で応じるようになっていた。
ハイスペックな外見に相応しい、落ち着いた大人の対応。それこそが、一葉が俺の中に見出してくれた『音無崇広』の本当の姿だったからだ。
(……でも、正直に言うと、ちょっとだけ疲れるな)
内心で苦笑しながら、俺はノートをカバンにしまう。
人が集まるのは悪い気はしない。だけど、俺の心が本当に求めている『安らぎ』は、この賑やかな教室にはなかった。
ふと、教室の片隅に目を向ける。
そこには、かつて一軍の女王として君臨していた美咲が、静かに一人で教科書を片付けている姿があった。
彼女に話しかける者は、もう誰もいない。だけど、以前のように悲壮感に打ちひしがれているわけではなかった。自分の犯した過ちを受け入れ、孤立という現実から逃げずに、ただ静かにそこに佇んでいる。
その姿に、もう俺の心が乱れることはない。
恨みも、憐れみも、とうに通り過ぎた。ただ、『お互い、違う道を歩き始めたんだな』という淡々とした事実だけが、そこにあった。
※ ※ ※
「お疲れ様、タカヒロくん。今日も大人気だったみたいね」
放課後。
生徒会室の扉を開けた瞬間、一葉の少し拗ねたような声が出迎えてくれた。
彼女はデスクに肘をつき、小さなひよこのように頬を膨らませて俺を見つめている。
「一葉、どこでそんな情報を仕入れてくるんだよ」
「生徒会長の情報網を舐めないで。他クラスの女の子から貢ぎ物(お菓子)をもらっていたことも、ちゃんと把握してるんだから。……もう、私の知らないところでどんどん格好良くなっちゃって」
一葉はソファに移動すると、俺を手招きした。
俺が隣に座ると、彼女は待ってましたと言わんばかりに俺の腕をきゅっと抱きしめ、自分の頭を俺の肩に預けてくる。
「……一葉」
「いいの。これだけは、生徒会長としての私の特権。ううん、タカヒロくんの『特別』としての、私の特等席なんだから」
腕に伝わる彼女の柔らかな体温と、甘いシャンプーの香りが、教室で張り詰めていた俺の神経を瞬時に解きほぐしていく。
一葉は俺の腕を抱きしめたまま、少しだけ声のトーンを落とした。
「……支倉さんのこと、見てたでしょ」
「え……」
「分かるよ。私、タカヒロくんのことなら何でもお見通しだもの。……怒ってる?」
「いや。怒ってないよ」
俺は一葉の綺麗な黒髪へとそっと手を伸ばし、優しく撫でた。
「ただ、本当に終わったんだなって思っただけだ。美咲は美咲の現実を生きてる。俺は、ここで一葉と、新しい未来を生きてる。それだけだよ」
俺の言葉を聞いた一葉は、嬉しそうに身体を震わせ、さらに強く俺の腕を抱きしめ返してきた。
「うん。……それでいいの。あなたの過去を全部私が上書きするって言ったの、嘘じゃないからね。これからもっともっと、私なしじゃ生きていけないくらい、甘やかしてあげるんだから」
上目遣いで見つめてくる一葉の瞳には、深い、深い愛情と、決して消えることのない独占欲が美しく揺らめいていた。
初恋の終わりは苦かった。だけど、その先に待っていたこの温もりは、何よりも新しく、そして確かなものだった。
学園の喧騒を遠くに聞きながら、俺たちは夕暮れの生徒会室で、静かに、だけど深く、寄り添い合っていた。
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