第7話:初恋の終着駅、そして僕たちの新しい夜明け
雨が上がったあとの世界は、驚くほど残酷に澄み渡っていた。
あの雨の夜から、一週間が経った。
私――支倉美咲の日常は、文字通り一変してしまっていた。
「ねえ、聞いた? 今日の数学の小テスト、音無くんまた満点だったんだって」
「マジ? 顔だけじゃなくて頭もいいとか、本当に今までなんで隠してたんだろ」
「椎名会長がベタ惚れするのもわかるよねー」
休み時間の教室。飛び交う会話の中心には、いつも『彼』がいる。
かつて私の後ろをトボトボとついて歩いていた、冴えない幼馴染。分厚い眼鏡を外し、前髪を払った音無崇広は、今や学園の誰もが憧れる圧倒的なプリンスへと変貌を遂げていた。
一方、私の席の周りには、誰もいない。
松坂たちはあの嘘告の件と、これまでの悪質なハラスメント行為が決定打となり、停学処分と推薦取り消しになった。それを機に、一軍の女子グループからも私は完全にハブられ、教室ではまるで透明人間のように扱われている。
(自業自得、なんだよね……)
机にポツンと置かれたノートを見つめながら、私は心の中で自嘲する。
以前の私なら、こんな扱いに耐えられなくて、ヒステリックに泣き叫んでいたかもしれない。でも、今の私には、そんな気力すら湧かなかった。
胸の奥にあるのは、怒りでも恨みでもない。
ただ、底の抜けたバケツのように、冷たい喪失感だけが虚しく響いている。
――もう、戻らない。
あの雨の夜、タカヒロが私に放った冷徹な言葉。そして、完全に閉ざされたマンションの扉。
どれだけ泣いても、どれだけ叫んでも、私が十年間あぐらをかき続けてきた『タカヒロの優しさ』は、もう地球の裏側よりも遠い場所へ行ってしまったのだ。
「……バカだな、私」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に届くこともなく消えた。
これが、犯した過ちの代償。
失って初めて気づくなんて、あまりにも使い古された綺麗事だと思っていた。だけど、その綺麗事が今、鋭い刃となって私の心をズタズタに切り裂いている。私はただ、その戻らない現実を受け入れ、引きずりながら生きていくしかないのだ。
※ ※ ※
【音無崇広視点】
「――タカヒロくん、またお菓子ばっかり食べて。はい、これ。お野菜もちゃんと食べなさい」
放課後の生徒会室。
俺の前に差し出されたのは、一葉の手作りのお弁当箱だった。
パカッと蓋を開けると、色鮮やかなお惣菜と、綺麗に形を整えられた卵焼きが並んでいる。
「いや、一葉。これ、明らかに二人分の量があるだろ」
「いいのよ。タカヒロくん、最近また少し痩せた気がするから、私がたくさん栄養をつけてあげないと。ほら、あーん」
一葉は嬉しそうに目を細め、箸で卵焼きを挟んで俺の口元へと運んでくる。
学校内では『氷の女王』なんて噂されることもある完璧な生徒会長だが、この部屋で俺と二人きりになると、驚くほど距離感が近くなる。甘やかすような、それでいてどこか独占欲の滲む瞳が、俺の理性を少しずつ、だけど確実に溶かしていく。
「……あーん。うん、美味いな。一葉の卵焼き、出汁が効いてて好きだ」
「本当!? やったぁ。毎朝、タカヒロくんの好みの味になるように研究した甲斐があったわ」
一葉はパッと顔を輝かせ、そのまま俺の隣にぴったりと身体を寄せてきた。
肩と肩が触れ合い、彼女の柔らかな体温が伝わってくる。
学校での周囲の評価がどれだけ変わろうとも、俺の心の根底にある『傷』を一番に気遣ってくれているのは、いつも一葉だった。強気な俺を演じる必要のない、この静かな時間が、俺にとって何よりも救いになっていた。
「一葉」
「ん? 何、タカヒロくん」
「その何度も言うけど……俺、お前と出会えて、本当によかった。美咲に裏切られた時は、本当に世界が終わったような気がしたんだ。でも、お前が隣にいてくれたから、俺は前を向けた」
真っ直ぐに彼女の目を見て告げると、一葉は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
「も、もう……急にそういう、殺し文句みたいなこと言うの、反則だと思うな……」
「本心だよ」
「……ずるいなぁ。でも、嬉しい。私はね、あなたがボサボサの髪の裏で、どれだけ優しい心を持っていたか知ってた。だから、これからは私が、あなたの初恋よりもずっと、ずーっと深い『本当の恋』を教えてあげるからね」
一葉はそっと手を伸ばし、俺の左手を両手で包み込んだ。
温かくて、少し震えている彼女の手。
美咲への初恋は、あまりにも苦い終わりを迎えた。けれど、今、俺の目の前にあるこの温もりは、決して俺を裏切らない。俺の新しい恋は、一葉と共に、この場所から静かに始まっているのだ。
「……ああ。よろしくな、一葉」
「うん、タカヒロくん」
※ ※ ※
【支倉美咲視点】
夕暮れ時。
生徒会室での用事を終えたタカヒロと一葉が、仲良く腕を組んで校門へと向かっていく。
朝日に映える二人の姿は、まるで一枚の絵画のように美しく、完璧だった。
私は、校舎の陰から、ただ遠く、その背中を見つめていた。
かつて、あのタカヒロの隣は、私の指定席だった。
私が歩けば、彼はいつも一歩後ろを歩いてくれた。私が笑えば、彼は嬉しそうに微笑んでくれた。
そのすべてを、私は自分の愚かさで手放したのだ。
タカヒロの横で、幸せそうに笑う椎名さんの姿が見える。
タカヒロもまた、私が今まで見たこともないような、優しく、そして一人の男としての強い眼差しで、彼女を見つめ返していた。
そこに、私の入る隙間なんて、もう一ミリだって残されていない。
「……バイバイ、タカヒロ」
小さく、掠れた声で呟く。
それは、私の幼い初恋への、そして戻らない過去への、本当の別れの言葉だった。
胸の痛みは消えない。きっと、明日も、明後日も、私はこの後悔と向き合いながら、一人で生きていかなければならない。
だけど――いつまでも立ち止まって泣いているだけじゃ、本当に最低なままだから。
私は溢れそうになる涙をグッと堪え、二人の背中に背を向けた。
夕日の差し込む校舎の中へ、自分の足で、一歩を踏み出す。
戻らない現実の先にある、私の、新しい明日へと向かって。
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