第2話:『もう遅い』と彼女は知る。そして、真のヒロインの極上な甘やかし。
タカヒロに拒絶され、一人教室に取り残された支倉美咲は、しばらくその場から一歩も動くことができなかった。
床に転がった、タカヒロの分厚い伊達メガネ。
それが、先ほどまでの出来事が現実であったことを、残酷なまでに物語っている。
「な、に……? なんなのよ、今の……」
震える声が、無人の教室に虚しく響く。
美咲の心臓は、いまだに早鐘を打っていた。だがそれは、恋のときめきなどではない。得体の知れない恐怖と、急激に足元が崩れ去っていくような喪失感のせいだった。
タカヒロ。音無崇広。
彼はずっと、美咲の『引き立て役』だったはずだった。
ボサボサの髪に、時代遅れの眼鏡。いつも俯いて、何を言っても「あはは、美咲はすごいね」と情けない顔で笑うだけの、冴えない幼馴染。
周りの一軍の友達から「なんであんな奴と幼馴染やってるの?」と聞かれるたび、美咲は「昔からの付き合いだからさー。放っておけないじゃん?」と、優越感混じりに答えていたのだ。
今回の嘘告だって、そうだった。
一軍の男子たちに「音無に告白して、舞い上がるところを録画しようぜ」と持ちかけられた時、美咲はほんの少しだけ罪悪感を覚えたものの、断らなかった。
(どうせタカヒロだし。後から『嘘だよー!』って冗談っぽく言えば、いつもみたいに苦笑いして許してくれるでしょ)
そう高を括っていた。タカヒロは絶対に自分を嫌いにならないと、傲慢にも信じ込んでいたのだ。
なのに。
『お前みたいな底の浅い女、こっちから願い下げだ』
脳裏に、先ほどのタカヒロの冷徹な声が蘇る。
眼鏡を外した彼の素顔は、一軍のどの男子よりも整っていて、息を呑むほどに男らしくて、格好良かった。その彼から向けられた、ゴミを見るかのような蔑みの視線。
「う、嘘……。タカヒロが、私に怒るわけない……。だって、ずっと一緒だったのに……」
ぽろぽろと、涙が溢れて止まらなくなる。
その時、廊下からおずおずと、一緒にいた一軍男子の一人が顔を覗かせた。
「お、おい美咲……大丈夫か? っていうか、さっきの音無、何なんだよ。急にキャラ変わりすぎだろ。クソ生意気に……」
「……うるさい」
「え?」
「うるさいって言ってるのよ!!」
美咲はヒステリックに叫び、カバンを掴むと、男子生徒を突き飛ばすようにして教室を飛び出した。
胸の奥が、冷たいナタで切り刻まれたように痛い。
美咲はまだ気づいていなかった。自分が犯した過ちの重さに。そして、一度完全にへし折れてしまった関係は、二度と元には戻らないという『現実』に。
※ ※ ※
一方、その頃。
俺――音無崇広は、生徒会室のふかふかしたソファに腰掛けていた。俺を励ましてくれた一葉が、「少しだけ付き合って」と言って、俺を放課後の学校へ連れ戻したのだ。
放課後の生徒会室は、すでに他の役員たちが下校しており、俺と一葉の二人きりだ。
目の前のテーブルには、一葉が淹れてくれた温かいハーブティーが湯気を立てている。
「はい、タカヒロくん。これ、ちょっと甘めにしておいたから」
「……悪いな、一葉。生徒会長直々に、茶まで淹れてもらって」
「いいのよ。今はプライベート。私はあなたの、可愛い幼馴染の『一葉ちゃん』なんだから」
一葉は俺の隣にちょこんと腰掛けると、じっと俺の顔を覗き込んできた。
美咲の前で見せたような『威圧感のある強気な俺』は、もう完全に霧散している。ハーブティーの入ったカップを持つ手が、情けないことに微かに震えていた。
「……まだ、手が震えてるね。やっぱり、相当無理してたんだ」
「格好悪いだろ。あんなに啖呵切っておいて、これだ」
俺は自嘲気味に笑い、カップをテーブルに戻した。
本当は、叫び出したいほどに心がズタズタだった。十年間、ずっと隣にいた少女に「おもちゃ」にされたのだ。いくら冷徹に言い返したところで、心に負った深い傷が消えるわけではない。
すると、一葉が静かに俺の右手を両手で包み込んできた。
すべすべとした、女の子らしい柔らかく温かい手。その温もりが、冷え切った俺の心にじんわりと染み渡っていく。
「格好悪くなんてないよ。タカヒロくんは、自分の尊厳を守るために戦ったの。とっても格好良かった。……だから、もう強がらなくていいんだよ?」
一葉の声は、どこまでも優しく、包容力に満ちていた。
彼女は俺の手を握ったまま、さらに距離を詰めてくる。ふわりと、彼女の髪からシャンプーの甘い香りが漂い、俺の鼻腔をくすぐった。
「ねえ、タカヒロくん。これまで美咲さんのために、わざと自分を低く見せてたんでしょ? 彼女が目立つように、彼女が引き立つようにって」
「……まあ、な。俺が冴えないモブでいれば、美咲の邪魔にならないし、俺自身も静かに過ごせると思ってた」
「そんなの、都合よく使われてただけだよ。タカヒロくんはもっと、自分を大切にするべき。……ううん、これからは私が、世界で一番あなたを大切にしてあげる」
一葉の瞳が、至近距離で潤んでいる。
いつもは凛々しい生徒会長が、今だけは俺一人のために、その深い愛情を隠そうともせずにぶつけてきている。
「一葉、俺は……非モテの陰キャだぞ?」
「ふふ、まだそんなこと言ってる。伊達メガネを外した自分の顔、鏡でちゃんと見たことないの? 私、昔からずーっと、タカヒロくんのこと『隠れ超絶美形』だと思ってたんだから」
一葉はそう言って、俺の頬をそっと両手で挟み込んだ。
上気した彼女の顔が、さらに近づく。吐息が触れ合いそうなほどの距離だ。
「これまで美咲さんのせいで、タカヒロくんの本当の魅力が隠されてた。でも、それも今日で終わり。これからは、私があなたをプロデュースしてあげる。……いいえ、私色に染めてあげる、ね?」
いたずらっぽく、だけど独占欲の滲む笑みを浮かべる一葉。
美咲に裏切られた心の傷は、確かに深い。けれど、それ以上に、目の前で自分を全肯定してくれる一葉の存在が、俺の心を満たしていく。
「一葉……俺、お前がいてくれて、本当によかった」
「……っ! も、もう、急にそういうこと言うんだから……」
俺の素直な感謝の言葉に、一葉は一気に顔を真っ赤にし、大慌てで手を離してそっぽを向いた。
ポニーテールが揺れて、真っ赤になった耳が見える。その初々しい反応が、たまらなく愛おしい。
「とにかく! まずはそのボサボサの髪型をなんとかしましょう! 今日の放課後、私のおすすめのヘアサロンに連れて行ってあげる。断固拒否は認めません!」
「あはは、分かったよ。一葉の言う通りにする」
俺が微笑むと、一葉も嬉しそうに微笑み返してくれた。
――支倉美咲。お前が俺を『ゴミ』のように扱った代償は、これからじわじわと支払ってもらう。
俺は演じるのをやめた。ここからは、俺を信じてくれる一葉と共に、お前らの手の届かない高みへと、一気に駆け上がってやる。
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