第1話:『嘘』で壊れた偽りの日常。俺は今日、冴えないモブを辞める。
「――ねえ、タカヒロ。私と、付き合ってくれない?」
放課後の教室。夕日の差し込む窓際で、幼馴染の支倉美咲は、上目遣いにそんなことをのたまった。
頬を微かに赤らめながら、俺の顔を覗き込んでくる。
学校の一軍カーストに君臨し、誰もが振り返る美少女。それが、俺の十年来の幼馴染である美咲の、表の顔だった。
対する俺、音無崇広はといえば、ボサボサの髪に、分厚い伊達メガネ。いつも教室の隅で気配を消し、机に突っ伏しているだけの「永遠の非モテ男子」だ。
もちろん、これは俺が意図して作り上げた『偽りの姿』だった。
目立てば面倒な奴らに絡まれる。美咲のような美少女の近くにいれば、それだけで嫉妬の炎に焼かれる。
だから俺は、あえて冴えない男を完璧に演じることで、平穏な高校生活を守ってきた。美咲の隣にいる時も、「ただの冴えない幼馴染」というポジションを徹底していたのだ。
なのに、だ。
「……えっと、それ、本気で言ってるのか?」
俺はいつもの気弱な声を装いながら、眼鏡の奥の目を細めた。
胸の奥が、ほんの少しだけ期待に跳ねた。
非モテを演じてきたとはいえ、俺にとって美咲は特別な存在だ。ずっと近くにいた。彼女の笑顔が好きだった。もし、この告白が美咲の本心からの言葉なのだとしたら、俺は今この瞬間から、モブの演技をすべて投げ捨てて彼女を抱きしめる覚悟があった。
だが。
「あったりまえじゃん! 私、ずっとタカヒロのことが好きだったんだよ? ね、付き合って?」
美咲は満面の笑みで俺の手を握ってくる。
その瞬間、俺の耳に、あり得ない「音」が飛び込んできた。
『おいおい、本当に告白しちゃったよ、美咲の奴!』
『ウケる! あの音無に告白とか、どんな罰ゲームだよ!』
『静かにしろって、扉の隙間から動画撮ってるのバレるだろ!』
――廊下から聞こえる、クスクスという下俗な笑い声。
そこには、美咲がいつも一緒にいる一軍男子グループの連中が、スマホをこちらに向けて隠れていた。
なるほど。
すべてを理解した瞬間、俺の心の中で、何かが冷徹な音を立てて凍りついた。
これは、ネットやSNSで悪名高い『嘘告』だ。
一軍の連中のノリか、あるいは罰ゲームか。どちらにせよ、美咲は彼らとの盛り上がりのために、俺の感情を踏みにじることを選んだのだ。
十年間、一緒に笑い合ってきた思い出。俺が彼女に抱いていた、ささやかな好意。そのすべてが、彼らの「動画のネタ」として消費されようとしていた。
「……そっか」
「うん! だからさ、返事は――」
嬉しそうに微笑む美咲の顔が、ひどく歪んで見えた。
悲しみは、一瞬で通り過ぎた。あとに残ったのは、激しい怒りと、自分の愚かさへの呆れ。そして、これまで抑え込んできた『本当の自分』の解放だった。
もういい。演じるのは、今日で終わりだ。
「――おい」
「え……?」
俺の声から、完全に気弱さが消えた。
低く、冷たく、芯の通った声。その響きに、美咲がビクリと肩を揺らす。
俺は美咲に握られていた手を、冷酷に振り払った。
そして、これまで顔を隠すためにかけていた分厚い伊達メガネを外し、机の上に乱暴に放り出す。
「タ、タカヒロ……?」
美咲の目が、驚愕に見開かれた。
前髪の隙間から露わになったのは、冴えない男のそれではない。鋭く、気高く、すべてを見透かすような冷徹な瞳。猫背を正せば、一軍の男子たちよりも頭一つ分高い、鍛え上げられた長身が現れる。
「美咲。廊下のゴミどもと一緒に、動画の再生数でも稼ぎたかったのか?」
「な、何言っ――」
「嘘の告白をして、俺が舞い上がって喜ぶ無様な姿を録画する。で、後から『冗談に決まってるじゃん!』って笑いものにする。……レベルの低い罰ゲームだな」
冷淡に言い放つと、美咲の顔からみるみる血の気が引いていった。
「あ、違うの、これは……!」
そう弁解しようとするが、俺はそれを言葉の刃で一刀両断にする。
「違わないだろ。お前らが裏でこそこそやってる悪趣味な遊びなんて、全部お見通しなんだよ。ずっと幼馴染として見てきたから、お前の浅薄な嘘くらい、目の動き一つで分かる」
「っ……!」
「今すぐその汚いスマホを引っ込めろ、クズども」
俺は廊下の扉に向けて、鋭い視線を飛ばした。
殺気すらこもったその眼光に射抜かれ、廊下に隠れていた一軍男子たちが「ひっ……!」と短い悲鳴を上げ、スマホを落とす音が聞こえた。彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
静まり返った教室。
目の前で、美咲は完全にフリーズしていた。彼女が知っている「気弱で言いなりになるタカヒロ」は、もうどこにもいない。
「お前が俺をどう扱おうが勝手だが、俺の時間をこれ以上くだらない遊びに巻き込むな。……絶交だ、美咲」
「え……絶、交……?」
「ああ。もう二度と、俺に話しかけるな。お前みたいな底の浅い女、こっちから願い下げだ」
カバンを肩にかけ、俺は美咲の横を通り過ぎる。
すれ違いざま、美咲の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちるのが見えた。信じられない、といった様子で自分の胸を押さえている。
(今さら、被害者ぶった顔してんじゃねえよ……)
引き留めようとする美咲の声を無視し、俺は教室の後ろの扉を強く閉め、その場を後にした。
――嘘の告白から始まる、俺の非モテ男子からの下克上。
舐められたままで終わると思うなよ。お前らが手の届かないところまで、俺は一気に駆け上がってやる。
※ ※ ※
校舎を出て、駅へと向かう帰り道。
夕暮れの街並みを歩きながら、俺は大きくため息をついた。
「はぁ……。やって、しまったな……」
さっきまでの冷徹で強気な態度はどこへやら。今の俺の足取りは重く、心の中はドロドロとした暗い感情で満たされていた。
演じるのをやめて、一軍の連中や美咲を完全に論破してやった。カタルシスはあったはずだ。ざまぁみろ、とも思った。
けれど、内心では――深く、深く、傷ついていた。
十年の月日は、そんなに軽いものだったのだろうか。
どれだけ非モテを演じていようが、美咲だけは俺の「中身」を見てくれていると、どこかで信じていたのだ。その信頼を、最もくだらない形で裏切られた。胸の奥が、包丁で滅多刺しにされたように痛む。
「……何が下克上だ。ただの、惨めなフラれ男じゃねえか」
自嘲気味に呟き、俯く。
せっかく外した眼鏡を、もう一度ポケットから取り出してかけ直そうとした、その時だった。
「――本当に、バカな男の子だね、タカヒロくんは」
不意に、横から鈴の鳴るような、だけど少し呆れたような声をかけられた。
ハッとして顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
艶やかな黒髪を綺麗なポニーテールに結び、端正な顔立ちに、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべている。我が校の生徒会長であり、そして俺にとって、美咲とは異なる意味で『昔からの関係』である、もう一人の幼馴染――椎名一葉だった。
「一葉……? なんでここに」
「なんでって、そりゃあタカヒロくんが心配だったからに決まってるでしょ? 教室の後ろの窓から、全部見てたんだから」
一葉はツカツカと歩み寄ってくると、俺の顔をじっと覗き込んできた。
美咲が一軍の光の中にいる太陽だとしたら、一葉は静かに夜を照らす月のような存在だ。頭脳明晰、容姿端麗。昔から、俺が『非モテ』を演じていることを見抜いていた、唯一の理解者でもあった。
「……見てたのか。無様だったろ」
「ううん。すっごく格好良かったよ? あの分厚い眼鏡を外したタカヒロくん、破壊力抜群。廊下の男の子たち、腰を抜かしてたもの」
クス、と一葉は笑う。
しかし、その笑みはすぐに消え、彼女の瞳に深い憂いと、痛ましそうな色が混ざった。
「でも……。格好つけた割には、今にも泣きそうな顔してる」
「っ、そんな顔……」
「してる。私を誰だと思ってるの? 美咲さんよりずっと、あなたのことを見てきたんだよ」
一葉はそっと手を伸ばし、俺の頬に触れようとして――少し躊躇うように、その手を引いて、代わりに俺の制服の袖をきゅっと掴んだ。
いつもは毅然としている生徒会長の、そんな少し遠慮がちで、気を遣うような仕草に、俺の荒んだ心が僅かに融解していく。
「傷ついたよね。あんなことされたら、誰だって怒るし、悲しくなるよ」
「……一葉」
「無理して強がらなくていいの。私の前では、いつものひねくれた、でも優しいタカヒロくんでいて」
彼女の言葉は、乾いた砂に染み込む水のように、俺の傷口を優しく癒していく。
美咲に裏切られて完全に閉ざしかけていた心が、一葉の変わらない温かさによって、辛うじて繋ぎ止められていた。
「一葉、俺は……」
「うん。何?」
「……いや。なんでもない。ただ、ありがとな」
俺が小さく微笑むと、一葉はパッと顔を輝かせ、それから少し耳を赤くしてそっぽを向いた。
「べ、別に、幼馴染として当然のことをしただけだし! それに……あんなふうに、男の子を大切にできない美咲さんなんて、タカヒロくんにはお似合いじゃないもの」
一葉は小さく、だけど確固たる意志を込めて呟いた。
「これからは、私がタカヒロくんの隣にいるから。……準備はいい? 演じるのをやめたあなたの本当の魅力、世界に見せつけてあげようね」
一葉の言葉に、俺は強く頷いた。
美咲、お前が捨てた『冴えない幼馴染』の正体を、これから嫌というほど思い知らせてやる。
――待っていろ。俺の下克上は、ここから始まる。
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