第3話:劇的ビフォーアフターと、遅すぎる少女の慟哭
――そこは、およそ俺のような『日陰者』が立ち入るべき場所ではなかった。
駅ビルの最上階。ガラス張りで、洗練されたお洒落な内装のヘアサロン。
有名モデルや芸能人もお忍びで通うというその高名な店の待合スペースで、俺は借りてきた猫のように小さくなっていた。
「緊張してるの、タカヒロくん?」
隣に座る一葉が、楽しそうにクスクスと笑いながら話しかけてくる。
彼女は俺の緊張をほぐすように、自分の肩を俺の肩にピタリと預けていた。ふんわりとした甘い香りが、さっきから俺の脳を少し麻痺させている。
「……そりゃな。いつもは千円カットで、十分で終わるようなところに行ってたんだ。こんな、シャンプーだけで三千円もしそうな場所、落ち着くわけないだろ」
「ふふ、いいのよ。今日は全部、私がコーディネートするって言ったでしょ? お金のことも心配しないで。日頃、生徒会を手伝ってくれているタカヒロくんへの、私からの特別なプレゼントなんだから」
「お、お待ちしておりました、椎名様!」
奥から、いかにも『業界人』といったオーラを放つ男性スタイリストがやってきた。一葉の指名らしい。彼は俺を一目見るなり、プロの鋭い目で値踏みするように観察し、それからニヤリと笑った。
「ほう……なるほどね。一葉ちゃんがわざわざ『掘り出し物の原石を連れていく』って言ってた意味が、今分かったよ。これは確かに、磨き甲斐がありそうだ」
「でしょう、店長? 彼のボサボサの髪をカットして、一番格好良くなるようにセットしてください。あ、それから眼鏡は外させますので、その前提で!」
「了解。任せときな。一葉ちゃんのお気に入りを、世界一の男に仕上げてあげるよ」
スタイリストである店長に促され、俺はカット台の椅子に座らされた。
ケープをかけられ、目の前の大きな鏡に映る自分の姿を見る。
ボサボサに伸び散らかった黒髪。顔の半分を覆うような分厚い伊達メガネ。
これまでは、この『冴えない男』の姿が、俺にとって最大の防壁だった。これのおかげで面倒な人間関係から身を守り、美咲の『冴えない幼馴染』として平穏に生きてこられた。
(だけど……それも、もう終わりだ)
俺はためらうことなく、眼鏡を外してサイドテーブルに置いた。
視界が少しぼやける。だが、心の中はかつてないほどに澄み渡っていた。
「よし、じゃあ始めるよ。……君の本当の姿、引き出してあげるからね」
店長のはさみの音が、心地よいリズムで響き始める。
髪が切り落とされるたび、頭が軽くなっていく。それは同時に、俺を縛り付けていた「非モテ男子・音無崇広」という呪縛が、一つ一つ削ぎ落とされていくような感覚だった。
――なぜ、俺はあそこまで自分を隠していたのか。
思い返せば、中学の頃、ほんの少し目立っただけで、美咲に群がる男たちから執拗な嫌がらせを受けたことがきっかけだった。
『お前みたいな陰キャが、美咲の隣にいるんじゃねえよ』
『調子に乗ってんなよ、音無』
そんな言葉をぶつけられ、面倒を避けるために、俺は自ら進んで「誰からも相手にされない冴えない男」の皮を被ったのだ。
美咲もまた、それを望んでいるように見えた。「タカヒロは私がいないとダメなんだから」と笑う彼女のために、俺は進んで道化を演じ続けた。
だが、その結果が、あの『嘘告』だ。
守ろうとした日常は、彼女自身の手によって、最悪の形で破壊された。
「……よし、カット終了! 次はワックスで動きをつけて、仕上げに入るよ」
店長の声で、俺は我に返った。
丁寧にブローされ、髪がセットされていく。
そして――。
「できたよ。鏡、見てごらん」
店長が手鏡を合わせ、俺の正面の鏡を指し示す。
俺はゆっくりと、焦点を合わせた。
「え……?」
そこにいたのは、自分でも信じられないほどの『美男子』だった。
野暮ったく額を覆っていた前髪はすっきりと分けられ、涼しげで切れ味の鋭い目元が完全に露出している。襟足やサイドもタイトに刈り込まれ、元々シャープだった顎のラインと、高い鼻梁がこれでもかと強調されていた。
全体的に清潔感がありながらも、どこか色気とミステリアスな雰囲気を漂わせる、完璧なスタイル。
「きゃああああああっ!?」
背後から、黄色い悲鳴が上がった。
一葉だ。彼女は両手で口を覆い、顔を真っ赤にして、生まれたての小鹿のようにプルプルと震えていた。
「タ、タカヒロくん……!? う、嘘、信じられない……! 格好良すぎる……! え、どうしよう。これ、本当に私のタカヒロくん……?」
「一葉、大袈裟だろ……」
「大袈裟じゃないよ! 見てよ、サロンにいる他の女の子たちや女性スタッフさんたちの目を!」
一葉に言われて周囲を見渡すと、確かに、他の席の客やアシスタントの女性たちが、頬を染めてこちらを熱い目で見つめていた。中にはスマホを取り出そうとしている者までいる。
「ははは! 大成功だね。元々の顔立ちのベースがSSS級だからさ、ちょっと整えるだけでこれだよ。学校に登校したら、大騒ぎになるんじゃない?」
店長が我がことのように誇らしげに笑う。
俺は少し気恥ずかしくなりながらも、鏡の中の自分を見つめ、静かに闘志を燃やしていた。
これなら、十分に戦える。
「……ありがとう、店長。それと、一葉。本当に、ありがとう」
「う、うん……。ううん、私の方こそ、こんな素敵なタカヒロくんを独り占めできて……あ、違う、独り占めはまだしてないけど、でも……!」
一葉はしどろもどろになりながら、自分の熱くなった頬を必死に冷まそうとしていた。その姿が、猛烈に愛らしかった。
※ ※ ※
その日の夜。
支倉美咲は、自宅の自室で、ベッドの上に膝を抱えていた。
部屋は暗いままだ。電気をつける気力すら起きない。
手元にあるスマホは、数時間前から何度も、一軍のグループチャットの通知を知らせていた。
『今日の音無のキレ方、マジでヤバくね?』
『っていうか、眼鏡外した瞬間、普通にイケメンっぽくてムカついたわ』
『美咲ー、大丈夫? 動画撮れなかったのは残念だけど、また次の機会にさ……』
無神経なメッセージの数々に、美咲は激しい嫌悪感を抱いた。
なぜ、こんな男たちの言葉を、自分は今まで「一軍の楽しいノリ」として受け入れていたのだろうか。
「……タカヒロ」
美咲はメッセージアプリを開き、タカヒロとのトーク画面を表示した。
いつもなら、この時間にはタカヒロから「今日の小テスト、お疲れ様。美咲が言ってたテレビ、録画しておいたよ」とか、「明日の朝、いつもの場所で待ってるね」といった、他愛のない、だけど温かいメッセージが届いているはずだった。
だが、今の画面は、今日の放課後に美咲が送った『ねえ、放課後残ってて!』というメッセージを最後に、完全に止まっている。
美咲は震える指で、「タカヒロ、さっきのは冗談で」と打ち込んだ。
しかし、送信ボタンを押すことができない。
さっきのタカヒロの、あの冷酷な、すべてを拒絶するような目を思い出すと、指がすくんでしまうのだ。
『お前みたいな底の浅い女、こっちから願い下げだ』
「違う……。私、タカヒロのことを、傷つけるつもりなんて……」
ただ、面白半分だった。
いつも自分の後ろをトボトボとついてくるタカヒロが、自分の告白にどれだけ喜ぶか。それを見て「からかってやりたい」という、本当に浅はかな気持ちだけだった。
傷つけるつもりはなかった、なんて、ただの言い訳だ。やっていることは、彼の尊厳を、十年の思い出ごと泥水に投げ捨てるような暴挙だった。
「なんで……。なんで私、あんなことしちゃったんだろう……」
涙が、スマホの画面にポタポタと落ちて、タカヒロの名前を濡らす。
いつもタカヒロは優しかった。
美咲が風邪を引けば、真っ先にポカリスエットとゼリーを届けてくれた。
美咲が一軍の女子グループとの関係に悩んで泣いていた夜、夜中までずっと電話で愚痴に付き合ってくれた。
彼がいてくれることは、美咲にとって『呼吸をするのと同じくらい、当たり前のこと』だったのだ。
その当たり前を、自分からドブに捨てた。
タカヒロは、もう二度と自分に笑いかけてはくれない。
「いや……嫌だよ、タカヒロ……っ! 置いていかないで……!」
静まり返った部屋で、美咲は遅すぎる後悔に身をよじり、大声を上げて泣き続けた。
しかし、その慟哭がタカヒロに届くことは、もう二度とない。
※ ※ ※
翌朝。
まばゆい朝日が差し込む、登校時間。
私立鳳凰高校の校門前は、いつになくざわついていた。
その理由は、校門のすぐ脇で、一人の美少女が誰かを待つように立っているからだ。
「あれ、生徒会長の椎名さんじゃね?」
「誰を待ってるんだ? あんなにそわそわして……。めちゃくちゃ可愛いな、おい」
一葉は普段、凛とした表情で校門指導を行うことはあるが、今日のように何度もスマホを確認し、落ち着かない様子で遠くを見つめている姿は珍しい。
その一葉の視線の先に、一人の男子生徒が現れた。
仕立ての良い制服を完璧に着こなし、すらりとした長身。
すっきりと整えられた黒髪が風に揺れ、切れ味の鋭い涼しげな瞳が、朝日に輝いている。
眼鏡を外し、本来のハイスペックなビジュアルを完全に解放した――俺、音無崇広だった。
「――タカヒロくん!」
一葉がパッと顔を輝かせ、駆け寄ってくる。
周囲の生徒たちから、「え、誰あのイケメン?」「新入生? それとも他校の生徒?」というざわめきが起こる。
「おはよう、一葉。校門で待っててくれたのか?」
「うん! タカヒロくんの新しい姿、一番に見たかったから。……やっぱり、信じられないくらい格好いい。心臓に悪いよ、本当に」
一葉はそう言って、恥ずかしそうに胸元に手を当てた。
そして、周囲の視線に気づいた一葉は、いたずらっぽく微笑むと、驚くべき行動に出た。
「ちょっと、見せびらかしちゃおうかな」
そう言うと、一葉は俺の右腕に、自分の両手をぎゅっと絡めてきたのだ。
柔らかい感触が二の腕に当たり、俺の心臓が一瞬で跳ね上がる。
「お、おい、一葉!? みんな見てるぞ!」
「いいの。私は生徒会長だし、タカヒロくんは私の『特別』なんだから。ほら、行きましょう?」
一葉は俺を引っ張るようにして、校門をくぐった。
周囲の生徒たちは、完全にフリーズしていた。
「おい、あの男……よく見たら、いつも後ろの席で寝てた『音無』じゃねえか!?」
「嘘だろ!? あんな超絶イケメンだったの!?」
「しかも、あの高嶺の花の椎名会長と腕組んでるぞ! どういうことだ!」
ざわざわ、と波のように驚愕が広がっていく。
その時。
校門の向こうから登校してきた美咲が、その喧騒の中心にいる俺たちの姿を目撃した。
「……タ、カヒロ……?」
美咲の声は、周囲の雑音にかき消されるほど小さかった。
だが、俺の耳には確かに届いた。
俺は歩みを止め、一葉を伴ったまま、ゆっくりと美咲の方を振り返った。
美咲の顔は、昨日よりもさらに青白く、目の周りが少し赤く腫れている。一晩中泣いていたのだろう。
美咲は、俺の変わり果てた、あまりにも格好いい姿に息を呑んだ。
そして、俺の腕にしがみついている一葉の姿を見て、その瞳に絶望の色がサーッと広がっていく。
「タカヒロ……それ、どういう……。なんで、椎名さんと……」
震える足で、一歩、俺に近づこうとする美咲。
だが、俺は冷徹な一瞥を彼女に投げ、一葉の体を優しく引き寄せた。
「言ったはずだ、美咲。お前とは絶交だ。もう二度と、俺に話しかけるな」
「あ……」
「行こう、一葉。こんなところで立ち止まっていると、遅刻する」
「うん、タカヒロくん!」
俺たちは美咲の横を、目線すら合わせずに通り過ぎた。
すれ違いざま、美咲の「タカヒロ……待って、お願い……」という掠れた声が聞こえたが、俺の足が止まることはなかった。
――もう遅い。
お前が捨てた『偽りのモブ』は、真のハイスペック男子として、今ここに完全覚醒した。
俺と一葉の下克上ロードは、まだ始まったばかりだ。
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