第18話:不意打ちの放課後と、二人の名前の響き
校門前での出来事から数日。
一ノ瀬莉央の登場によって波立った学園の空気は、意外なほど落ち着いた推移を見せていた。
「音無くん、英語のこの構文なんだけど……ちょっといい?」
「ああ、ここは関係副詞の省略が入っているから、後ろの文から訳すとスムーズだよ」
「なるほど! 助かったよ、ありがとう!」
2年B組の日常。
俺の席の周りには相変わらずクラスメイトが集まり、他愛のない勉強の質問や世間話が交わされる。
演じるのをやめた俺に対して、みんなが向けてくれるのは素朴な親愛や憧れだ。無理にハイスペックな男を気取る必要もなく、ありのままの自分で接することができるこの時間が、俺にとっても心地よかった。
すぐ前の席に座る一ノ瀬莉央は、時折チラリと振り返りつつも、以前のように強引な割り込みをしてくることはなくなった。
校門前で一葉が見せた「譲れない誇り」と「真っ直ぐな絆」。あれを目の当たりにして、彼女なりに何かを感じ取ったのかもしれない。
(一葉が、守ってくれたんだよな……)
ふと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
かつて裏切られ、暗闇の中に一人取り残されたと思っていた俺の腕を、しっかりと繋ぎ止めてくれた温もり。
それを思い出すだけで、どんな喧騒の中でも心が穏やかでいられた。
※ ※ ※
放課後。
生徒会室の重厚なドアが閉まり、カチャリと施錠の音が響く。
「……はぁ。今日も一日、お疲れ様、タカヒロくん」
一葉は整った制服の襟元を少し緩めると、脱力したようにソファーへと身を投げ出した。
学校中が仰ぎ見る『氷の女王』の完璧な立ち振る舞い。その鎧を脱ぎ捨てて、俺の目の前でだけ見せてくれる、無防備で少し甘えたような姿。
「お疲れ様、一葉。はい、温かいハーブティー」
「ありがとう……。やっぱり、タカヒロくんの淹れてくれるお茶が一番落ち着くわ」
湯気の立つカップを受け取り、一口含んだ一葉が、ほっと身体の力を抜く。
そして、カップをテーブルに置くやいなや、当然のような顔で俺の隣へと移動してきた。
すっと距離が詰まり、彼女の柔らかい肩が俺の腕に触れる。ふわりと香る、いつもの優しいシャンプーの匂い。
「ねえ、タカヒロくん」
「ん? どうした?」
「最近ね……生徒会室で二人きりになるこの時間が、一日の中で一番待ち遠しいの」
一葉はそっと俺の制服の袖をつまみ、照れくさそうに上目遣いで俺を見つめてきた。
頬がほんのり桃色に染まっている。校門前で堂々と恋人繋ぎをして見せた彼女だが、こうして二人きりになると、途端に初心で可愛らしい一面が全開になるのだ。
「一葉……」
「私ね、十年前からずっと、あなたの声を聞くのが好きだった。ボサボサの髪の毛の裏で、誰よりも優しく笑うタカヒロくんのことが大好きだった。……でも、今のタカヒロくんはもっと素敵」
彼女はそっと手を伸ばし、俺の頬に自分の温かい手のひらを重ねてきた。
「自分の足で立ち上がって、前を向いて……私を、しっかりと見てくれているから」
真っ直ぐに注がれる、偽りのない深い愛情。
裏切られた痛みも、過去の後悔も、彼女のこの温もりによって、一つずつ愛おしい思い出へと塗り替えられていく。
「一葉。俺も……お前と過ごすこの時間が、一番大切だよ」
俺がそう言って、彼女の手に自分の手を重ねると、一葉は嬉しそうに目を細めた。
そして、少しいたずらっぽい笑みを浮かべると、小さく囁いた。
「じゃあ……ご褒美に、名前で呼んで?」
「え……? 一葉って、呼んでるだろ?」
「ううん。お家で二人きりの時みたいに、もっと甘く……ね?」
至近距離で見つめられ、俺の心臓がドクンと大きな音を立てる。
彼女の前では、俺の「強気」なんて簡単に剥がれ落ちてしまう。照れくささに耳まで熱くなるのを感じながら、俺は覚悟を決めて、小さな声で呟いた。
「……かずは」
「~~~っっ!!」
一葉は顔を真っ赤にして、そのまま俺の胸元へと突っ込んできた。
ギュッと俺の服を抱き締め、真っ赤になった耳を隠すように丸まっている。
「も、もう……っ! 本当に言ったら反則だよ、タカヒロくんのバカ……っ!」
「頼んだのは一葉だろ……?」
腕の中に収まる、小さくて愛おしい存在。
彼女の鼓動が、俺の胸に伝わるほどに速く跳ねている。
外の世界でどんな変化が起きようと、新しい出会いや波乱があろうと。
俺たちが紡いできたこの温かい場所は、誰にも渡さない。誰にも壊させない。
夕暮れのオレンジ色が静かに部屋を包み込む中、俺たちは互いの温もりを確かめ合うように、優しく抱き合い続けるのだった。
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