第二部8話 決着
「さて、三谷君。家族は返した。君の勝ちだ。……だが、これからどうする? 君は戦車を丸め、新宿の街を文字通り瓦礫の荒野に変えた。君の顔と名前は、すでに数百万の国民の網膜に焼き付いている。明日から、君はどの面を下げて社会に戻るつもりだ?」
恵一は黙っていた。
自衛隊の戦闘服の袖を、少し窮屈そうに引っ張る。
「君がその気になれば、この官邸を破壊し、私を殺し、この国を力で支配することもできるだろう。だが、君はそれを望んでいないはずだ。君が守りたかったのは、安アパートで送る、退屈で、しかし誰もが権利として持っているはずの『平穏な日常』だ。違うか?」
「……ああ」恵一は低く応じた。
「俺は、明日も普通に暮らしたいだけだ」
「ならば、取引をしよう」
総理は卓上に一枚の、何も書かれていない白い書類を滑らせた。
「君を力で従えることはできない。だから我々は、君を『一人の国民』として扱うのを諦める。……本日この瞬間を以て、日本国政府と君との間に、秘密裏の『不可侵条約』を締結する。君は、我が国の国益を損なう行為をしない。その代わり、国は君の日常を全力で保護・保証する」
「日常を、保証する?」
「言葉通りの意味だ」総理の目が、官僚組織の長としての冷徹な光を取り戻す。
「君の戸籍、銀行口座はすべて元の通りに復元する。それどころか、今回の『迷惑料』として、内閣府の機密費から数億円の非課税資金を君の口座に振り込もう。そして、最も重要なのは、国民の認知だ」
総理は背後のモニターを指差した。
「今、内閣情報調査室と公安のサイバー部隊が、総力を挙げて動いている。昨夜、新宿や迎賓館前で起きた大惨事は、すべて『防衛省による、実戦を模した最新のCG・ホログラムデモンストレーション、および大規模な対テロ演習』として明日、大々的に報道される。SNSの動画も、すべて巧妙なフェイクとして処理する」
「…そんな嘘が、通じるのか?」
「通してみせるさ。それが国家の持つ『情報の暴力』だ」総理は言い切った。
「国民は『現実に怪物が現れた』と信じるより、『国の大規模なやらせに騙された』と思う方が、はるかに精神の安定を保てるのだからね。…一ヶ月もすれば、誰も三谷恵一という名前を覚えちゃいない」
部屋を、長い沈黙が支配した。
恵一は、卓上の白い書類を見つめ、それから自分の大きな手のひらを見た。
「日常」を買い戻すためには、この老政治家が提示した欺瞞の書類を受け入れるしかなかった。
「分かった」
恵一は、短く言った。
「その条件を飲む。母と弟に、二度と手を出すな。もし次、俺の家族の周りに公安や警察の影がチラついたら…その時は、本当にこの国を終わらせる」
「約束しよう」
総理は、そっと右手を差し出した。
恵一はその手を握らなかった。
ただ、踵を返し、特別応接室の重い扉に向かって歩き出した。
六月八日。朝。
梅雨入りを控えた空は、昨夜の嵐が嘘のように、どんよりとした曇り空に覆われていた。
ガス爆発事故の現場として黄色い規制線が張られていた恵一の古いアパート周辺は、驚くべき手際とスピードで、破壊された外壁やドアの修復工事が進められていた。
ガタゴトと、いつもの電車の音が遠くから聞こえる。
二〇一号室の、真新しく付け替えられたドアを開ける。
当然、部屋の中には誰もいない。
一人暮らしの、静かで少し手狭な、見慣れた空間がそこにあった。
恵一は自衛隊の迷彩服を脱ぎ捨てると、クローゼットから残っていたスウェットに着替え、ベッドに深く身体を沈めた。
枕元に放り出したスマホの画面が明滅する。
電波は完全に復活していた。
通知を開くと、母親からの着信履歴と、短いメッセージが入っていた。
『恵一、大丈夫? 昨夜、急に国の役人みたいな人たちに「お母様、弟さんと一緒に、ガスの点検が終わるまで別の綺麗なホテルに移動してください」って言われて連れていかれたの。何だかすごく高級な車で、今さっき送ってもらったんだけど…。そっちは何ともなかった?』
続いて、弟からのメッセージも届く。
『兄貴、なんか知らんけど、国の偉い人から「ご家族に大変なご迷惑をおかけしました」って、実家にめちゃくちゃ美味そうな高級肉の詰め合わせが届いたんだけど。何これ? 兄貴なんかやった?』
画面を見つめながら、恵一は小さく、本当に小さく息を吐いた。
「…何でもないよ。こっちもガス爆発の訓練があっただけ。無事でよかった」
そう短く返信を打ち終えると、スマホに一通の通知が滑り込んできた。
メインバンクの口座アプリからの、自動通知だった。
【入金:1,500,000,000円 振込元:内閣府】
画面に並ぶ、非現実的な「0」の羅列。
これだけの金があれば、もう家賃に頭を悩ませる必要も、汗水垂らして働く必要もない。
実家の母親に、今すぐ不自由のない生活をさせてやることもできる。
だが、恵一は知っている。
アパートの窓からそっと外を見下ろすと、路地の角に、一般の営業車を装った公安の黒いセダンが、いつでも彼にストレスを与えないように、息を潜めて待機している。
彼がこれから送る日常は、もう本物の日常ではない。
国全体が「三谷恵一」という怪物の機嫌を損ねないためだけに、全力で「普通」を演出し、お膳立てし続ける、究極に歪んだ安全圏だ。
テレビをつけると、ワイドショーの司会者が「昨夜の新宿の大騒ぎ、実は防衛省のCG演習だったんですね。いやぁ、人騒がせな!」と、苦笑い混じりにニュースを読み上げている。
日本国民の全員が、彼の存在を「偽物のイベント」だと忘れた世界で。
三谷恵一は、一人暮らしの静かな部屋で、いつものようにインスタントコーヒーを淹れるために、お湯を沸かし始めるのだった。




