第二部7話 交渉
迎賓館前の交差点は、白煙と高熱化したアスファルトの臭気に満ちていた。
120ミリ徹甲弾の爆風を零距離で浴びた結果、恵一の肉体は無傷だったが、身に纏っていた私服は完全に焼き尽くされていた。
だが、恵一は立ち止まらない。
自衛隊の重兵器が沈黙したその足で、彼は大破した10式戦車へと迷いなく歩み寄った。
「ひ、ひぃ……っ」
ハッチから上半身を出したまま腰を抜かしている砲手は、近づいてくる怪物の影に完全に硬直していた。
恵一はその隊員を無視し、戦車の車体外部バスケット(装備品収納架)を素手で引きちぎった。
中から引きずり出したのは、自衛隊員が私物や予備の戦闘服を収める、頑丈な防水仕様のタクティカル・ダッフルバッグだ。
恵一はバッグのジッパーを引き裂き、中に収められていた陸上自衛隊の迷彩戦闘服(野戦服)を取り出した。
サイズは少し小さかったが、構わずに袖を通す。
官邸の連中が用意した「兵器」が自分の服を奪ったのなら、その身代わりに「軍服」を徴発するのは、彼にとって当然の権利だった。
ミリタリースペックの極厚の迷彩服を身に纏い、ブーツの紐を締め直す。
その姿は、もはや安アパートにいた平凡な人間ではなかった。
国家のあらゆる暴力を跳ね返し、その軍服を戦利品として羽織った、単一の「軍隊」そのものだった。
午前二時三十分。
恵一は再び歩き出した。
目的地は変わらない。
国会議事堂、そして首相官邸。
彼が赤坂の緩やかな坂を登り、永田町へ近づくにつれ、周囲の景色はさらに異常なものへと変わっていった。
すでに「前線」で手を出せる兵器がないと悟った防衛省は、恵一の進路に、無人の大型輸送トラックや重機を文字通り「山」のように積み上げ、即席の万里の長城のような物理障壁を築いていた。
だが、それらも無意味だった。
恵一が歩を進めるたび、道を塞ぐダンプカーやショベルカーが、まるで巨大な見えない楔で押し開けられるように、みしみしと音を立てて左右に割れていく。
彼が歩くだけで、東京のインフラが物理的に歪み、再構築されていく。
そしてついに、正面の闇の中に、鈍く白い光を放つピラミッド型の屋根が見えてきた。
国会議事堂。
日本の最高権力の象徴。
その周辺の道路には、もはや一人の隊員も、一両の装甲車も配置されていなかった。
完全な無音。
政府は、これ以上の防衛線は、自衛隊という組織の完全な消滅を意味すると理解したのだ。
恵一は、重厚な鉄製の正門の前に立った。
鍵のかかった門扉に手をかけ、ただ、引いた。
パキィィィン、という、金属が分子レベルでせん断される鋭い音が夜の永田町に響き渡り、巨大な門扉が自重で地面に崩れ落ちた。
恵一は、国家の心臓部の敷地内へと、一歩を踏み入れた。
【首相官邸地下・危機管理センター:午前二時四十五分】
「正門、突破されました……。目標、敷地内へ進入」
オペレーターの報告は、もはや幽霊の囁きのようだった。
モニターに映し出されるのは、自衛隊の迷彩服を冷徹に着こなし、一切の迷いなく官邸の正面玄関へと向かって歩いてくる三谷恵一の姿。
危機管理センター内には、激昂する者も、書類を叩きつける者も、もう誰もいなかった。
防衛大臣は椅子に深く腰掛け、虚空を見つめている。
彼らは理解したのだ。
自分たちが動かしていたのは「国家」というシステムだが、目の前の男は「自然災害」と同じだ。
台風に法律が通じないように、地震に軍隊が効かないように、三谷恵一に国家の意志は通用しない。
「総理」
公安調査庁の長官が、静かに書類の束を片付けながら言った。
「これより、全面降伏の手続きに移ります。……条件は、向こうが提示します。我々に拒否権はありません」
総理大臣は、震える手で自身のネクタイを緩めた。
戦後日本が築き上げてきた統治機構が、今、一人の国民の「歩幅」の前に完全に屈服しようとしていた。
「……応接室を開けろ。私自身が、彼を迎える」
総理のその言葉と同時に、官邸の分厚い正面ガラス扉が、外からの圧倒的な風圧によって、音もなく内側へと押し開けられた。
大理石の床を、規則正しく踏み締める軍靴の音が響く。
首相官邸・特別応接室。
重厚なマホガニーの円卓を挟み、日本の統治権を握る内閣総理大臣と、自衛隊の野戦服を纏った三谷恵一が、静かに対峙していた。
部屋の四隅には、本来なら総理を護衛すべきSPや公安の精鋭たちが配置されていたが、彼らの手は一様にホルスターから離されていた。
銃を抜くという行為自体が、この部屋の全員を数秒で肉塊に変える引き金になり得ると、本能で理解していたからだ。
「座ってくれ、とは言わんよ。三谷君」
総理は、皮肉な微笑を浮かべながら口を開いた。
その顔は土気色で、一晩で数年老け込んだように見える。
「我が国の警察、そして自衛隊の誇る最高火力を以てしても、君の髪の毛一本すら傷つけられなかった。
降伏、と言えば満足かね? 現代のあらゆる法秩序と物理法則は、君という存在の前で完全に敗北した」
恵一は卓上に両手をつき、総理をまっすぐに見据えた。
「勝ち負けの話をしに来たんじゃない。俺がここに来た理由は一つだけだ。……母ちゃんと弟をどこへやった」
「彼らなら無事だ」総理は静かに首を振った。
「千葉の政府施設にいる。君の足止めに失敗したと報告が入った時点で、彼らの『保護』の解除を命じた。指一本触れさせてはいない」
「…そうか」
恵一は、小さく息を吐いた。
張り詰めていた肩の力が、わずかに抜ける。
その様子を見た総理は、ネクタイを完全に外し、椅子の背もたれに深く身体を預けた。
ここからは、感情ではなく、冷徹な政治家としての交渉の時間だった。




