第二部6話 戦争
日付が変わった午前一時。
東京の心臓部、新宿駅周辺から、すべての「生活音」が消失した。
甲州街道、青梅街道、明治通り。
すべての幹線道路は大型の軍用車両によって完全封鎖され、数万人の東京都民が何が起きたかも知らされぬまま、地下鉄の構内や避難所へと誘導されていた。
深夜の歌舞伎町のネオンだけが、無人のアスファルトを虚しく紫色に染めている。
ゴゴゴゴゴゴ……
地鳴りのような重低音が、新宿高層ビル群の谷間に木霊した。
現れたのは、陸上自衛隊・練馬駐屯地から出動した第1普通科連隊。
そして、隠密裏に習志野からヘリで直行した、日本軍事力の最高峰「特殊作戦群(特戦群)」の精鋭たちだ。
彼らが展開したのは、新宿駅南口のルミネ前、甲州街道の跨線橋。
そこは、まっすぐ東進してくる三谷恵一が、必ず通過しなければならない「チョークポイント」だった。
「目標、東中野を通過。これより大久保通りを右折、明治通りから甲州街道へ合流する模様」
「到着まで、あと十二分」
前線指揮所に設置された無線機から、機械的な報告が流れる。
指揮官を務める一等陸佐は、集結した隊員たちの顔を見つめた。
彼らは先ほどの警察官たちのように浮足立ってはいない。
しかし、全員の戦闘服の奥の肌は、未知の怪物への戦慄で冷たく粟立っていた。
彼らが用意したのは、暴徒鎮圧用の装備ではない。
軽装甲機動車(LAV)に搭載された12.7ミリ重機関銃。
さらに、ビル屋上には対戦車ミサイル「01式軽対戦車誘導弾(軽MAT)」を構えた射手が配置されていた。
一人の自国民を、彼らは「敵の主力戦車(MBT)」と同等、あるいはそれ以上の脅威として定義していた。
「来たぞ」
誰かの呟きとともに、夜霧の向こうから、一人の男のシルエットが現れた。
三谷恵一だった。
アパートを出た時と変わらない、時速四キロの歩調。
だが、その姿は異様だった。
衣服は先ほどの銃撃と化学樹脂の爆発でボロボロに引き裂かれ、露出した上半身の肌には、凍結の跡と硝煙の黒ずみがこびりついている。
しかし、その肉体には傷一つない。
血の一滴すら流れていない。
恵一は、新宿駅南口の広い交差点の真ん中で、足を止めた。
目の前に並ぶ、オリーブドラブの装甲車の列と、自分に銃口を向ける数百人の自衛隊員たちを見据える。
「…今度は、自衛隊か」
恵一は、大きくため息をついた。
「もうやめろって。あんたたちが何を持ってきたって、俺の足は止まらないよ」
『三谷恵一!』
装甲車のスピーカーから、前線指揮官の硬質な声が響いた。
『これより先は防衛作戦区域である。一歩でも前進すれば、我が部隊は持てるすべての火力をもって、君を「排除」する。繰り返す、直ちに投降せよ!』
恵一は答えなかった。
ただ、右足を一歩、前に踏み出した。
「――撃て(ファイア)ッ!!」
その瞬間、新宿の夜が、昼間のような爆光で包まれた。
ドガガガガガガガガガガッ!!!
装甲車から放たれた重機関銃の弾丸が、空間を切り裂くオレンジ色の光の帯(曳光弾)となって、恵一の身体に殺到した。
一発で人間の身体を消し飛ばす鉄の暴風。
さらに、ビル屋上から放たれた対戦車ミサイルが、白煙を引いて恵一の胸元に直撃した。
ズドォォォォォン!!!
凄まじい爆発音が響き渡り、新宿駅のガラス窓が一斉に粉々に砕け散った。
猛烈な爆煙と炎が恵一の姿を完全に飲み込み、アスファルトが溶解してドロドロのマグマのようになる。
「命中! 目標、爆心地に捉えた!」
隊員たちが一瞬、安堵の息を漏らそうとした、その時。
「……だから、痛くはないって言ってるだろ」
紅蓮の炎を割り、黒煙を衣服のように纏いながら、三谷恵一が何事もなかったかのように歩いて出てきた。
ミサイルの直撃を受けた胸元は、Tシャツが完全に消失していたが、その下の皮膚は、まるで磨き上げられた鋼鉄のように鈍く光っているだけだった。
「な……っ!?」
射手の手が恐怖で凍りつく。
戦車すら一撃で大破させる火力が、この男には「微風」にすらなっていない。
恵一の目が、わずかに鋭くなった。
「いい加減にしないと――俺も、少し怒るぞ」
恵一が地面を強く踏み締めた。
その瞬間、彼の身体を中心に、目に見えない「衝撃波」が円状に炸裂した。
新宿駅南口の巨大なアスファルトの床が、まるで絨毯のように激しく波打ち、並んでいた数トンの軽装甲機動車たちが、一瞬で数十メートル後方へと押し流され、無残に折り重なって大破していく。
誰も死んではいない。
恵一が、衝撃のベクトルを「車両の破壊」だけに集中させたからだ。
しかし、自衛隊が誇る近代兵器の山は、たった一歩の踏み込みで、完全に「鉄くず」へと変えられた。
硝煙の漂う無音の戦場で、恵一は再び歩みを進めた。
「第一阻止線、突破されました! 軽MAT、重機関銃、ともに効果なし!」
「第1普通科連隊の車両、すべて行動不能! 隊員は……全員生存、しかし戦闘継続不可能です!」
新宿駅南口から入る悲鳴のような無線を聴きながら、官邸地下の危機管理センターは、静まり返るというより、もはや思考停止に近い狂気に包まれていた。
「戦車だ」
防衛大臣が、血走った目で総理大臣の胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出した。
「駒門から第1戦車大隊を入れます! 10式戦車の120ミリ滑腔砲なら、いかに化け物と言えども分子レベルで粉砕できる! 徹甲弾(APFSDS)のエネルギーはミサイルの比ではない!」
「正気か!?」法務大臣が立ち上がる。
「新宿のど真ん中で120ミリ砲をぶっ放すというのか! 周辺のビルがどれだけ崩壊すると思っている!」
「あの怪物をこのまま皇居や霞が関に入れるよりはマシだ! 首都が占領されるぞ!」
総理大臣は、すでに白目を剥きかけていた。
だが、モニターの中で、大破した装甲車の脇をすり抜け、ただ淡々と四谷方面へ向かって歩いている三谷恵一の姿を見て、完全に理性を失った。
「撃て。すべての火力を使って、東京のど真ん中で消滅させろ」
午前二時。
明治神宮外苑、および迎賓館周辺の広大な敷地。
そこに、自衛隊が文字通り「出せる限りの最凶の切り札」が集結していた。
地響きを立てて配置についたのは、富士の麓から緊急輸送された10式戦車が三両。
その砲口は、夜霧の向こうの甲州街道へと向けられている。
さらに上空には、木更津駐屯地から飛来した対戦車ヘリコプター・AH-64D「アパッチ・ロングボウ」が、その凶悪なミリ波レーダーの照準を完全に恵一にロックしていた。
これはもう治安出動ではない。
日本政府が、東京のど真ん中で、たった一人の国民を相手に展開した「全面戦争」だった。
「目標、迎賓館前交差点に進入…!」
恵一が、街灯の薄明かりの中に姿を現した。
彼の表情には、もはや怒りすらなく、ただただ深い「ウンザリ感」だけが漂っていた。
「…まだやるのか」
『各砲、撃てッ!!!』
指揮官の怒号と同時に、新宿の比ではない「真の軍事力」が炸裂した。
ズドォォォォォン!!!
10式戦車の120ミリ滑腔砲が三発、同時に火を噴いた。
音速の数倍で放たれた重金属の弾芯が、恵一の肉体に直撃する。
凄まじい運動エネルギーの激突。
それと同時に、上空のアパッチから30ミリ機関砲が毎分数百発の速度で恵一の頭上へと降り注ぎ、地獄のような着弾の嵐(面制圧)が巻き起こった。
迎賓館前の美しいアスファルトは一瞬でクレーターと化し、激しい爆風で周囲の街路樹は消し飛び、高級ホテルの窓ガラスが数キロ先まで衝撃波で弾け飛んだ。
硝煙が夜空を完全に覆い尽くし、視界はゼロになる。
これだけのエネルギーを叩き込まれて、生存できる生物は、この地球上に存在するはずがなかった。
「…はぁ」
煙の奥から、低いため息が聞こえた。
風が吹き抜け、煙が割れる。
そこに立っていたのは、やはり、無傷の恵一だった。
衣服は完全に消し飛び、上半身は裸になっていたが、彼の肌は120ミリ砲の直撃を受けてなお、かすり傷一つ、赤み一つ帯びていなかった。
恵一が、一歩、前に踏み出す。
彼が地面を蹴った瞬間、その突進速度は人間の動体視力を遥かに超えた。
ドォン!
気がついた時には、恵一は先頭の10式戦車の真ん前に立っていた。
彼は、長さ数メートル、重量何トンもある戦車の「砲身」を両手で掴むと、まるでアルミホイルでも丸めるかのように、グシャグシャにねじ曲げて結び目を作ってしまった。
「な……っ、化け物……!」
戦車兵が恐怖で叫ぶ。
恵一はそのまま跳躍した。
ビルの5階ほどの高さまで一瞬で跳ね上がり、上空でホバリングしていたアパッチのローターの回転を、素手で「掴んで止めて」みせた。
バキバキバキッ! という金属の破壊音とともに、アパッチのエンジンが悲鳴を上げて停止する。
恵一は、墜落していくヘリの機体を空中で優しく抱きとめると、それを迎賓館の芝生の上へ、中の隊員に衝撃がいかないようにソフトランディングさせた。
「もう、武器は全部壊したからな」
恵一は、全滅した自衛隊の重兵器の山を見渡しながら告げた。
「次、俺の前に何か持ってきたら…今度は、そのおもちゃを作ってる国を、直接更地にする」
裸のまま、圧倒的な神のごとき威厳を纏った三谷恵一は、再び国会議事堂の方角へと歩き出した。




