第二部5話 決断
『三谷さん、これが最後の通告です。大人しく椅子の上の樹脂に固定されなさい。さもなければ、ご家族の平穏は今この瞬間を以て永遠に失われる』
アパートの壊れたインターホンから、官邸の意志が冷たく響く。
恵一の身体を床に縫い付けている特殊樹脂は、すでに強固に硬化し、彼に組み付いたまま血を吐いているSAT隊員の肉体と完全に一体化していた。
動けば、この男の命はない。
壁の向こうからは、さらに二の矢、三の矢として、催涙ガスやさらなる高電圧ネットの準備を進める隊員たちの微かな足音が聞こえる。
「…管理下、ね」
恵一は、ぽつりと言葉を漏らした。
その声は、驚くほど静かだった。
激昂も、悲鳴もない。
ただ、底の抜けた落胆だけがあった。
「あんたたち偉い人は、人間の命を数字と書類でしか見てないから、そういうことが平気で言えるんだ」
恵一は、自分の右足にしがみついている若手隊員の頭に、そっと手を置いた。
「おい、あんた。死ぬなよ」
「……っ!?」
次の瞬間、恵一の全身からオーラが放たれた。
カチ、と軽く足首をひねる。
それだけで、車をも固定するはずの超高粘度化学樹脂が、ただの乾燥した粘土のように粉々に爆裂した。
恵一は、自分に接着されていた隊員の防弾ベストの肩口を掴むと、ジッパーを衣服ごと一瞬で引き裂き、男の肉体を「傷一つつけずに」樹脂の檻から救い出した。
「射撃、射――」
背後から飛びかかろうとした隊員たちが、言葉を失って凍りつく。
樹脂を強引に引き剥がした恵一は、そのまま、アパートの通路へと一歩を踏み出した。
その足がコンクリートを踏み締めるたび、二階の廊下全体がV字にひずみ、凄まじい亀裂が走る。
恵一は、外階段を降り、アパートの敷地を囲む高さ5メートルの鋼鉄製遮蔽壁の前に立った。
官邸の男たちが、自分を社会から隠すために、突貫工事で並べ立てた「檻」だ。
『三谷恵一! 何をするつもりだ! 警告を無視すれば家族が――』
拡声器から焦燥の混じった声が響く。
「うるさい」
恵一は、右手を軽く引いた。
そして、学校の引き戸でも開けるかのような無造作な動作で、目の前の鋼鉄壁に「張り手」を食らわせた。
――ドォォォォォン!!!
杉並区の夜空を、鼓膜をぶち破るような衝撃音が引き裂いた。
数トンの重量を誇る鋼鉄の防壁が、まるでデコピンを食らったアルミ缶のように中央からひしゃげ、音速を超える速度で夜の住宅街へと吹っ飛んでいった。
風圧だけで、周囲の電柱がドミノのようにへし折れ、路地に並んでいた警察の漆黒の装甲車が何回転も横転していく。
一撃。
たった一発の張り手で、国家が数十分かけて構築した「隠蔽の壁」は、いとも簡単に消滅した。
煙が引いた跡には、ぽっかりと開いた夜の東京の街路と、呆然と立ち尽くす数十人のSAT隊員。
彼らは一発の弾丸も撃てなかった。
自分たちが構えている銃が、おもちゃのピストルにしか見えなくなっていた。
恵一は、ゆっくりと歩き始めた。
車を奪うわけでもなく、超人的なスピードで走るわけでもない。
ただ、時速4キロメートル。
人間が普通に散歩をするときの速さで、アスファルトを踏み締め、東の空
首相官邸のある霞が関の方角へと、まっすぐに向きを変えて歩き出した。
その背中には、銃弾の一発すら撃ち込む者は、もう誰もいなかった。
【首相官邸地下・危機管理センター:22時35分】
「防壁、消失……!? 何が起きた! 爆破されたのか!?」
官房長官が、メインモニターに映し出された信じがたい光景に狂乱した。
さっきまでアパートを覆っていたはずの巨大な鋼鉄の壁が、完全に消えている。
カメラが引くと、数キロ先の川の河川敷かどこかまで、一直線に建物の屋根が吹き飛んだような惨状が映し出されていた。
「爆発ではありません。三谷恵一が……素手で、壁を叩いた結果です」
警察庁長官の報告は、もはや現実感を失っていた。彼の声は完全に枯れている。
「現場の警察部隊は完全に戦意を喪失。現在、三谷恵一は甲州街道を徒歩で東進中。速度は時速4キロ。このままのペースを維持した場合、約3時間で……ここ、首相官邸に到達します」
「止めろ! 警察の全戦力を投入してでも、新宿の手前で食い止めるんだ!」
「無理です!」
長官が、初めて総理大臣の前で声を荒らげた。
「パトカーで塞ごうが、大型トレーラーを並べようが、彼は避けることすらしない! ただ歩いて、当たった車両が勝手にひしゃげて弾け飛んでいるんです! 我々の持っている兵器は、彼にとっては『カーテン』と同じです。突っ切るのに何の力も要らない!」
静まり返る会議室。
時速4キロの絶望。
世界最強の核ミサイルが飛んでくるよりも恐ろしい現実が、東京のど真ん中を、歩いて近づいてきている。
「総理」
防衛大臣が、青白い顔で立ち上がった。
その手には、一枚の、まだ何も書かれていない赤いファイルが握られていた。
「警察では、もうあの男の『歩幅』すら変えられません。……これより先は、治安の維持ではなく、我が国の存亡を賭けた『防衛戦』です」
総理大臣は、机の上に置かれた万年筆を見つめた。
これを持てば、戦後日本が一度も踏み越えなかった一線を越えることになる。
国内の、たった一人の青年のために、軍隊を動かす。
その歴史的責任の重さに、指先が激しく震えた。
しかし、モニターの中の三谷恵一は、すでに杉並区を抜け、中野区へと差し掛かろうとしていた。
彼の目が、画面越しに官邸のカメラを真っ直ぐに見据えているように思えて、総理は総毛立った。
「……自衛隊法第七十八条を発動する」
総理は、絞り出すような声で言った。
「練馬の第一師団、および習志野の特殊作戦群を緊急展開させろ。場所は……新宿駅南口、甲州街道跨線橋周辺。一般住民を直ちに避難させ、あそこを『戦場』にしろ」
カチリ、と万年筆のキャップが閉まる音が、地下会議室に重く響いた。
日本の歴史上、最も不条理で、最も壮大な「一人の男に対する戦争」の火蓋が、ついに切って落とされた。




