第二部4話 激戦
恵一の空気は、マイナス百九十六度の冷気と、爆薬の硝煙、そして人間の生々しい血の臭いで完全に飽和していた。
「ウオオオオアアッ!!」
骨の折れた腕をブラ下げたSATの隊員が、獣のような咆哮を上げて三谷恵一の右足に飛びついた。
防弾ベストの繊維がきしみ、男の顔面から飛び散った汗と血が、恵一の安物のジーンズを汚していく。
さらに背後から、もう一人が恵一の首筋に飛び乗った。
手にしたスタンバトンから五万ボルトの電流が容赦なく放たれ、青白い火花が恵一の肌でパチパチと弾ける。
肉の焦げる嫌な臭いが室内に立ち込めた。
「どけって言ってるだろ……ッ!」
恵一は苛立ちとともに身体をひねった。
首を絞めていた隊員の身体が天井へと跳ね上げられ、コンクリートの梁に背骨を強打して崩れ落ちる。
だが、床を這う別の二人が、間髪入れずに恵一の左足と腰のベルトを掴み、全体重をかけて泥臭くすがりついた。
キン、キン、キン、キン!
至近距離から、狂ったように徹甲弾が撃ち込まれ続ける。
弾く。
すべて弾く。
だが、ひしゃげた鉛の破片が火花となって視界を塞ぎ、液体窒素の白い霧が容赦なく恵一の足元を狂わせる。
恵一は無敵だった。
しかし、彼は「まとわりつく無数のアリ」を、傷つけずに振り払う器用な力加減を持ち合わせていなかった。
彼が一歩進むために、目の前の「公務員」たちの肉体が確実に壊れていく。
その生々しい破壊の感触が、恵一の拳をわずかに鈍らせていた。
その泥沼の掴み合いの最中、破壊された玄関のドア枠に残っていたインターホンが、突如として大音量で鳴り響いた。
ジャミングを強制突破した、政府専用の暗号回線だった。
『三谷恵一さん、聞こえますか!』
スピーカーから響く男の声は、現場の怒号と銃声にかき消されそうになりながらも、奇妙なほど冷静に、そして冷酷に言葉を紡ぐ。
『これ以上の抵抗は無意味です。あなたが今、足蹴にしている隊員たちにも守るべき家族がいる。
そしてあなたを包囲している遮蔽壁の向こうでは、あなたのお母様と弟さんが、すでに我が国の「管理下」に入っている!』
「……なんだと!?」
恵一の動きが、初めて明確に止まった。
「今だ! ピンを抜けッ!」
腰に組み付いていた隊員が、自身の防弾ベストに仕込まれていた特殊粘着剤の起爆ピンを抜いた。
至近距離での小爆発。
次の瞬間、超高粘度の化学樹脂が恵一の胴体と、隊員自身の肉体を、ドロドロに溶け合いながらアパートの床へと強固に接着していく。
自爆技だった。
隊員は自らの肉体をセメントの代わりにして、恵一をその場に固定したのだ。
『三谷さん、聞こえますか。あなたがそのアパートを破壊して外に出た瞬間、ご家族の「安全」の保証は消滅する。我々はあなたを殺せないが、あなたの人生を完全に終わらせることはできる!』
「黙れ……!」
恵一は自分に接着された隊員の身体を引き剥がそうとするが、これ以上力を入れれば、この隊員の肉体は上下に引きち切れてしまう。
撃ち込まれ続ける銃弾の嵐。極低温の霧。血を流しながらも目を血走らせて睨みつけてくる隊員たち。
そして、見えない場所から家族を人質に取ったと告げる、冷徹な声。
恵一の圧倒的な武力は、前線の泥臭い「命を賭けた足止め」と、遠隔からの「卑劣な脅迫」の波状攻撃によって、完全に機能不全に陥っていた。
「くそっ……! お前ら、いい加減にしろ……ッ!!」
恵一の咆哮がアパートを震わせる。
その声を、数キロメートル離れた場所で、静かに聴いている男たちがいた。
国会議事堂の目と鼻の先、首相官邸地下、危機管理センター。
大型モニターには、○○区のアパート周辺の衛星画像と、現場の赤色灯の群れ。
そして、SATの突入班が次々と床に叩きつけられ、銃弾が火花を散らして弾かれている「信じがたい生中継映像」が映し出されていた。
スピーカーからは、樹脂で固められた隊員の呻き声と、三谷恵一の怒号が響いている。
「……何なんだ、この男は。どこの国の工作員だ」
防衛大臣が、机の上の書類を激しく叩きつけた。
仕立てのいいスーツの襟元は汗で濡れている。
「どこの国でもありません。戸籍上は、ただの日本人です」
警察庁長官が、苦渋に満ちた声で答える。
「現時点でSAT第一突入班が壊滅状態。12.7ミリ徹甲弾の至近距離射撃を行いましたが、標的の皮膚組織を貫通できませんでした。
現在、粘着剤による強制定着と、家族の身柄確保をカードにした心理的制圧を試みていますが……それも時間の問題かと」
「馬鹿な!」内閣官房長官が声を荒らげる。
「装甲車をもぶち抜く銃が効かない人間が、○○の安アパートに住んで毎日満員電車に揺られていたというのか!? 映画の話をしているんじゃないんだぞ!」
センター内は、パニックと困惑で破裂しそうだった。
彼らが直面しているのは、単なる凶悪犯ではない。
国家が拠って立つ「法律」と、この世界の「物理法則」の完全な崩壊だった。
「自衛隊の治安出動を要請すべきだ!」防衛大臣が叫ぶ。
「練馬の第一師団を動かせ! 戦車を、攻撃ヘリを投入してでも排除しろ!」
「お待ちください!」
すかさず法務大臣が遮った。
「国内の、それもただの一人の国民を相手に戦車を出してみなさい。明日からの海外のメディアの報道、そして国会はどうなるんですか?『日本政府、自国民に主戦戦車を投入』ですよ? 内閣が吹っ飛びます!」
「じゃあどうするんだ! 放置しろと言うのか! あの怪物がここに向かって歩いてきたら、誰が止めるんだ!」
「……捕まえられないなら」
それまで沈黙を守っていた、公安調査庁の長官が静かに口を開いた。
「『社会』から消せばいい」
全員の視線が彼に集まる。長官は冷徹な目でモニターを見つめたまま、手元のタブレットを操作した。
「あの男、三谷恵一の戦闘能力は無限大ですが、精神はまだ『ただの一般人』です。
仕事がある、母親や弟がいる、我々と同じ社会の枠組みの中で生きている。
…なら、力で勝てない以上、その『枠組み』を人質に取るしかありません」
「超法規的措置か……。戸籍の抹消など、どれだけの手続きが必要だと思っている」
官房長官が顔をしかめる。
「総理の即決サインがあれば、5分で内閣情報調査室と法務省が動きます」
公安長官は淡々と続けた。
「○○のアパート周辺はガス爆発事故として報道を統制。三谷恵一はそこで『死亡した』ことにする。
スマホの電波を遮断し、家族を千葉の施設へ『保護』という名目で軟禁。
…彼が暴れれば暴れるほど、大好きな母親の居場所が遠くなるというシステムを構築するんです。
戦車を出すより、よほど安上がりで確実です」
「総理……」
全員の視線が、会議室の最上席に座る内閣総理大臣へと向けられた。
総理は、画面の中でSAT隊員を軽々ともぎ離す恵一の姿を、信じられないものを見る目で凝視していた。
彼はペンを持つ手を震わせながら、目の前の書類にサインを入れた。
「……許可する。ただし、表沙汰にしたら全員の首を飛ばすぞ。内閣情報調査室、すぐに動け。現場のスピーカーを繋げ」
前線で流れる血の量など、この部屋の男たちには関係がなかった。
彼らにとって重要なのは、明日の朝の新聞一紙をコントロールできるかどうか、それだけだった。
「回線、繋がりました」
公安長官の合図とともに、アパートのスピーカーが、再びあの冷徹な声を吐き出し始める。
それは、現場の泥生臭い戦闘を、一瞬で「事務処理」へと塗り替える、非情な宣言だった。




