第二部3話 SAT
浴室の小さな窓から、外の様子が見える。
アパートを囲むパトカーの数は、いつの間にか倍以上に膨れ上がっていた。
だが、不思議なほど静かだ。
お湯を浴びながら、恵一は考える。
『おそらくここから投入されるのは特殊部隊のSATだろう…だが小細工は一切必要ない。正面から全員蹴散らしてやる』
風呂から上がると恵一はテレビのリモコンを手に取る。
どのチャンネルも、自分のアパートを空から映し出していた。
「……現在、現場には特殊部隊と思われる車両が到着しました。上空からは複数のヘリが監視を続けており、事態は一刻の猶予も許さない状況です」
画面の中で、黒い防弾車から降りてくる漆黒の集団が見えた。
彼らは流れるような動作で、アパートの周囲に「ジャミング装置」を設置していく。
『…あ、母ちゃんに電話しとけばよかったな』
恵一は少しだけ後悔した。
だが、もう遅い。
外の連中は、恵一を「話し合いのできる人間」とは見ていない。
『そろそろか…』
恵一は、部屋の明かりを消した。
外のサーチライトが、カーテンの隙間からナイフのように部屋を切り裂いている。
その瞬間。
ドォォォォォン!!
自室のドアが吹き飛んだ。
「エントリー!」
声は聞こえない。
指向性爆薬による爆風と、耳を破壊するスタングレネードが、同時に恵一の部屋にに叩き込まれたからだ。
普通の人間なら、網膜を焼かれ、三半規管を狂わされ、内臓を揺らされて床にのたうち回る。
だが、恵一は闇の中で、ただ少しだけ眩しそうに目を細めた。
爆煙を突いて滑り込んできたのは、漆黒の戦闘服に身を包んだ、警視庁特殊急襲部隊(SAT)の第一突入班だ。
彼らは先ほどの巡査たちとは違う。
怒鳴らない、怯まない、一切の無駄口を叩かない。
ナイトビジョン越しに恵一のシルエットを捉えた瞬間、二名が同時に引き金を引いた。
シュバババババッ!
サプレッサーを装着したMP5から、九ミリパラベラム弾が超高速で連射される。
狙いは胸ではない。恵一の「眼球」と「喉元」だ。
肉体がどれほど硬くとも、粘膜や関節という構造上の弱点はあるはずだという、冷徹な外科的戦術。
キン、キン、キン、キン!
恵一の顔面で、硬質な火花が散った。
弾丸は彼の皮膚に触れた瞬間、コンクリートに当たったようにひしゃげ、路床に転がっていく。
恵一は、まつ毛に当たって弾けた鉛の破片を、鬱陶しそうに手で払った。
「……痛くはないけど、目に入るからやめてくれ」
恵一が前方に一歩、足を踏み出す。
その瞬間、突入班のフォーメーションが流れるように変わった。
一人が背後の壁に気配を消し、恵一の死角から「対物ライフル」の銃口を至近距離で突きつける。
放たれたのは12.7ミリ徹甲弾。装甲車をも貫く鉄の塊が、恵一の側頭部を直撃した。
ドンッ!
鼓膜を震わせる重低音。
しかし、恵一の首は傾ぎすらしない。
弾丸の方が分子レベルで圧壊し、火薬の煙が彼の頬を黒く汚しただけだった。
「――作戦C!」
無線機から冷たい声が飛ぶ。
物理破壊が通用しないと判断した瞬間、SATの隊員たちは一歩も引くことなく、腰の装備に手を伸ばした。
彼らの奮闘の本質は「恐怖の克服」にある。
目の前の怪物が銃弾を弾こうが、彼らは訓練された機械のように、次の「手順」を遂行する。
シューッ! という凄まじい噴射音とともに、室内に液体窒素の白煙が充満した。
摂氏マイナス196度の極低温が、恵一の衣服を、そして皮膚を瞬時に白く凍りつかせていく。
皮膚を凍結させ、分子の結合を脆くした上で、再度衝撃を加えるという科学的アプローチだ。
同時に、床を転がってきた金属製の球体から、超高強度炭素繊維のネットが爆発的に拡がり、恵一の全身を幾重にも絡め取った。
ネットには数万ボルトの電流が流され、青白い火花が恵一の肌でパチパチと弾ける。
「ホールド! そのまま維持しろ!」
四名の大男が、凍りついたネットの端を掴み、自らの肉体を重しにして恵一を床に縫い付けようとする。
彼らは命を捨てに来ていた。
自分たちが恵一を数分でもここに釘付けにすれば、外で自衛隊が「次の重兵器」を配備する時間が稼げる。
その組織の歯車としての狂信的な執念。
ネットの中で、恵一は息を吐いた。
冷気で、白い息が小さく霧になる。
「……一生懸命なのは分かるよ」
恵一は、絡みつくネットを掴んだ。
そして、ただ「立ち上がろう」とした。
パリィィィィン!
凍りついていた炭素繊維が、まるで薄いガラス細工のように一瞬で弾け飛んだ。
それだけではない。
恵一が立ち上がった際の「空気の変位(風圧)」が、周囲の隊員たちの体を容赦なく壁へと叩きつけた。
「がふっ……!」
防弾ベストの上から骨を折られ、崩れ落ちる隊員たち。
恵一は彼らに追撃をしない。
ただ、ドアの消し飛んだ玄関へと向かって歩を進める。
一人の隊員が、折れた腕でなおも恵一の足首を掴もうと、床を這った。
その指先が、恵一の安物の靴に触れる。隊員のゴーグルの奥の目は、恐怖ではなく、任務を全うせんとする強固な意志で血走っていた。
恵一は立ち止まり、その手を優しく、しかし絶対に逆らえない力で外した。
「もういい。あんたたちの負けだ」
恵一がアパートの通路へ一歩踏み出すと、外で待機していた残りの班が一斉に銃口を向けた。
だが、彼らの指は引き金に凍りついたまま動かない。
部屋から出てきたのは、全身を凍らせ、無数の銃弾を浴びながら、髪の毛一筋すら傷ついていない「人間」だったからだ。
SATのプライドも、最先端の戦術も、恵一という圧倒的な現実の前には、ただの砂の城に過ぎなかった。




