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第20話「偽りの恋文。紗季の瞳に映る影。」

挿絵(By みてみん)


「……お兄ちゃん。これ、玄関のポストに入ってた」


日曜の朝の澄んだ光の中、紗季がおずおずと差し出してきたのは、古びた茶封筒だった。宛名も差出人もない。


封を切り、指先で引き抜いた紙片に触れた瞬間、智也の背筋が粟立った。ざらりとした繊維の粗い和紙は脆く、現代の製紙技術で作られたものではない。乾いた墨で乱暴に書き殴られていたのは、たった二行の文字。


『ゆきへ。四百年の孤独を終わらせる準備はできた。今夜、あの社の跡で待つ。――レン』


「……レン!?」


胃の奥がきゅっと冷え切る。先日退けた量産型クローンの無機質な気配ではない。紙の繊維の奥から立ち上るのは、あやめが魂の芯から警戒していた、本物の宿敵の禍々しい澱みだった。


「……行かないで、お兄ちゃん」


紗季の指が、智也のシャツの裾をぎゅっと握りしめていた。爪が白くなるほどの力。伏せられた睫毛の奥で、黒目がちな瞳がひどく怯えたように揺れている。


「大丈夫だよ、紗季。一人で行ったりしない。みんなで作戦を立ててから――」


智也は努めて穏やかに笑い、その頭に手を置いた。けれど、紗季の肩から小刻みな震えが消えることはなかった。


◇◆◇


その日の午後。リビングでこのみの端末を囲み、あやめや結と防衛線の再構築を議論している合間――紗季は、誰にも告げずに結城家の玄関を出ていた。


街の喧騒の中を歩く彼女の鼓膜の裏に、低周波のノイズのような声が直接こびりついて離れなかった。


『……お前は疾うに気付いているはずだ、結城紗季。血の繋がりもなければ、四百年前の業火の記憶もない。お前だけが、この輪の中のただの部外者なのだと』


「……違う。私は、お兄ちゃんの妹。結城の家の、家族です」


独り言のように小さく呟く。だが、冷たい囁きは嗤うように重なった。


『妹、という仮面に逃げ込んでいるだけだろう? 周りを見渡してみろ。時を超えた魂の契り、世界を買い叩く資本の力、幼少期から積み上げられた無敵の観測データ。――そのどれも持たないお前が、どうやってあの男の隣に立ち続ける気だ?』


足が勝手に止まったのは、人気のない児童公園だった。錆びついたベンチと枯葉の積もった砂場。


湿った冷気が立ち込めたかと思うと、空間の継ぎ目がぐにゃりと歪み、黒いロングコートの裾を翻した青年が立っていた。レン。影を纏い、感情を凍りつかせた美貌の主。


「……資格をくれてやろうと思ってな。智也をお前だけのものにする、絶対的な資格だ」


レンが手袋を外した掌の上で転がしたのは、鈍い紫の燐光を帯びた、親指大の鈴だった。振られてもいないのに、頭蓋を直接引っ掻くようなチリンという不快な残響を散らしている。


「これを鳴らせば、智也の記憶の抽斗から他の女どもの記録はすべて腐り落ちる。お前と二人きりだけの、誰にも邪魔されない箱庭が完成する。……どうした。喉から手が出るほど欲しいのだろう、その乾いた独占欲を満たす鍵が」


紗季の指先が、抗いようのない引力に引かれるように、ゆっくりと持ち上がった。


みくるのように、当たり前の日常を力づくで守る逞しさはない。結のように世界を動かす発言力も、このみのように先回りする知性も、あやめのように運命の縦軸で結ばれた絆もない。


ただ「妹」という脆い看板にしがみつき、いつか置いていかれる恐怖に怯え続けてきた心の綻びに、レンの差し出す毒がじわじわと染み渡っていく――。


◇◆◇


「――紗季!!」


砂利を蹴立てる激しい靴音とともに、智也の怒声が公園の静寂を破った。


このみのオラクル・システムで監視網の死角を逆算し、息を切らせて追いついた一行が、ベンチの周囲を取り囲む。


「紗季、それに触っちゃ駄目だ! 離れるんだ!」


「……お兄ちゃん……っ」


振り返った紗季の頬を、大粒の涙がつたい落ちた。鈴に触れかけた指先が、わななく。


「……怖かったの。ずっと、ずっと怖かった……! 前世とか、宿命とか、何百億円の取引とか……私には何ひとつ見えない、手の届かない遠い世界にお兄ちゃんが連れていかれちゃう気がして……私だけ、置いてけぼりにされるのが嫌だったの……!」


押し殺してきた劣等感と孤独が、悲痛な叫びとなって吐き出される。紫の鈴を握り潰してでも智也を繋ぎ止めようとした、その瞬間。


白い衣擦れの音を立てて、あやめが静かに歩み出た。


「……紗季。あなたは、何ひとつ部外者なんかじゃないわ」


「……あやめ、さん……?」


「四百年前。私たちが魂を入れ替え、火の海となった社を逃げ延びる時……崩れかけた土塀の片隅に、一輪だけ小さく咲いていた野花があったのよ」


あやめの切れ長の瞳が、慈しむように細められる。


「どんな猛火が吹き荒れても、ただそこに根を張り、静かに寄り添うように咲いていた。……智也がいま、どんなに傷ついて泥だらけになっても、迷わず帰ってこられる温かい場所があなたの隣なのはね。あなたがその花の優しさを、誰よりも純粋に受け継いで咲いているからよ」


あやめの細い両手が、紗季の冷え切った指先をそっと包み込んだ。


白銀の柔らかな熱が伝わった刹那、レンの紫の鈴は甲高い亀裂の音を立て、サラサラと黒い灰となって指の隙間からこぼれ落ちた。


「……チッ。興を削ぐ真似を。精神の綻びを突く程度では、揺るがんか」


レンは忌々しげに舌打ちし、輪郭を墨のように滲ませながら歪んだ空間の裂け目へと後退していく。


「せいぜい寄り添い合っているがいい。絆の糸が太くなればなるほど、それを引き千切られた時の絶望は深くなる」


残光だけを残し、レンの気配は完全に掻き消えた。


◇◆◇


傾いた夕日が、帰り道の影を長くアスファルトに伸ばしていた。


紗季は智也の左腕にしっかりと両腕を絡ませ、顔をうずめるようにして歩いていた。


「……お兄ちゃん。……本当に、ごめんなさい」


「いいよ、紗季。俺の方こそ、お前の不安に気付いてやれなくて悪かった」


智也がぎこちなく頭を撫でると、紗季は腕をぎゅっと抱き締め直し、ゆっくりと顔を上げた。


赤く腫らした目元には、しかし、迷いのない強情な光が宿っていた。


「……でも、私、もう決めました。都合のいい『妹』のポジションに逃げるのは、今日でおしまいです」


「え……?」


「私も、他の人たちと同じ『いいなずけ』の土俵に立ちます。遠慮なんて一切なしで、お兄ちゃんを本気で奪いに行きますから。……絶対に、覚悟していてくださいね」


上目遣いで智也を射抜く、一切の妥協を排した真っ直ぐな宣言。


その直後、二人の背後を歩いていたみくると結が、揃って足を止めて絶叫した。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ紗季ちゃん!? 家族枠の免除特権を捨てて本気参戦って、それ一番厄介じゃないのよーっ!?」


「まあ! わたくしも負けてはいられませんわ! 本庄グループの総力を挙げて、智也さまの隣の特等席は防衛してみせますことよ!」


「……ふふ。私の予測演算にも、少し面白い変数が増えたみたいね」


騒然となる夕暮れの通学路。


五人全員が正面からぶつかり合う、混じり気のない五つ巴の陣容。智也は胃のあたりを軽く押さえながらも、そのやかましい熱量に小さく口元を緩めた。


――けれど、遠くそびえる山影の頂きで、世界を塗り潰すための終末の秒針は、確実にその歩みを進めていた。


(第20話「偽りの恋文。紗季の瞳に映る影。」おわり / 第21話へ続く)

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