第18話「あやめちゃん、とお呼びなさい。」
「……はぁ、はぁ……っ、もう、無理……! 足、棒よ棒……!」
土煙が舞う旧校舎裏。冷たい冬の風が吹き抜ける中、瀬能みくるは地面に膝をつき、両手をついて荒い息を吐き出していた。
その目の前には、白銀の気配をまとった神代あやめ。肩に木刀をひょいと担ぎ、額に汗ひとつ浮かべず、涼しげな顔で見下ろしてくる。
「どうしたの、みくる。息が上がっているわよ。智也の『いいなずけ』を自称するなら、この程度の基本の足捌き、ついてきてもらわないと困るのだけれど」
「……あんたねぇ! 前世が武士かなんだか知らないけど、手加減って言葉を辞書で引いてきなさいよ!」
前世の真実を知ったあの夜から、みくるは頑として譲らなかった。あやめの元へ自ら乗り込み、「あたしにも戦い方を叩き込みなさい」と木刀を突きつけたのだ。
世界の命運を握る巫女でもなければ、巨大コンツェルンを動かす令嬢でもない。ただ同じ屋根の下で朝飯を作り、帰りを待つ「同居人」にすぎない自分。だからこそ、智也の背中を守る戦いから、自分だけが安全圏に取り残されることなど、プライドが絶対に許さなかった。
「ふふ。手加減なら、これでも十分にしたつもりよ。……それにね、みくる」
あやめは木刀をすっと下ろすと、悪戯っぽく唇の端を持ち上げた。
「いまの私は、刀を振るうだけの男じゃないわ。……ちゃんと、あやめ『ちゃん』とお呼びなさい」
「だっ……! 誰が呼ぶか、そんな恥ずかしい呼び方!」
みくるが耳まで真っ赤にして怒鳴りつける。
その顔を見て、あやめはくすりと喉を鳴らして微笑んだ。かつて宿命の闇に怯え、独りで呪いを抱え込んでいた頃の張り詰めた刃のような気配はない。そこにあるのは、憎まれ口を叩き合える同年代の友人に向けた、年相応の柔らかな表情だった。
◇◆◇
「はいはい、そこまで。二人とも泥だらけよ」
パタパタと小気味よい足音とともに、保冷バッグを提げたこのみが歩み寄ってきた。
「はい、スポーツドリンクと冷たいタオル。それから――」
「わたくしからは、本庄のバイオ研究チームが総力を挙げて開発した特製の疲労回復ゼリーを差し入れいたしますわ! 一本で一頭の競走馬が丸一日走り続けられる計算ですの!」
「結さん、それ人間が飲んで大丈夫なやつ……?」
智也が苦笑いを浮かべながらツッコミを入れる。その後ろからは、救急箱を抱えた紗季がちょこんと顔を出し、みくるの擦りむいた膝にそっと絆創膏を差し出した。
「みくるちゃん、昨夜も『智也の寝顔を守る』とか言って、ほとんど一睡もしていなかったでしょう? 無理はいけないわ」
「ちょ、このみ! なんでそれを智也の前でバラすのよ!?」
顔を真っ赤にして喚くみくると、肩をすくめるこのみ。
少し離れたフェンス脇で、竹刀を手にした幸人が汗を拭いながら、智也の肩を小突いた。
「……へへっ。賑やかでいいじゃねぇか、智也」
「ゆっくん……」
「俺もさ、あやめさんにしごかれて、ようやく自分の立ち位置が分かってきたところだ。異能も光もねぇけどよ……泥臭く地面に食らいつく役なら、俺が一番向いてる」
前世の戦場では、朔とゆきは常に二人きりだった。誰にも理解されず、冷たい闇の中で互いだけを頼りに削り合っていた。
けれど、いま智也の周りにあるのは、騒がしくて、あたたかくて、不完全な少年少女たちの確かな熱気だ。
――だが、その平穏を切り裂くように。
あやめの背筋が、凍りついたようにピンと伸びた。
「……っ!」
大気が、鋭い針の先で突かれたようにチリチリと痺れる。
旧校舎の屋根を吹き抜けていた冬の風が、ピタリと止んだ。
「……来たわ。神代の、手先が」
正門の向こう、立ち込める薄墨色の霧を割って、一足の足音がアスファルトを規則正しく叩いた。
現れたのは、智也たちと同年代に見える小柄な少年。
だが、その両目には光が宿っていない。光彩が白濁し、感情の起伏を一切感じさせない無機質な双眸。耳元には青白く脈動する通信インプラントが埋め込まれ、首筋にはバーコードのような認識番号が刻まれていた。
少年の背後隙間なく並ぶのは、漆黒の装甲――神代グループが裏社会で密かに量産を進めていた、対異能者用強化外骨格を纏った機械化部隊。
「――ターゲット、視認。神代あやめ、および結城智也」
少年の喉から発せられたのは、抑揚の完全に削ぎ落とされた合成音声のような音だった。
「本家総帥令に基づき、直ちに神代あやめの身柄を確保。ならびに、結城智也の保有する魂の回収プロトコルを開始する。……個体識別コード、神代レン・モデル02」
「……レン!?」
あやめの息が喉の奥で詰まり、握りしめた木刀の切っ先が小刻みに震えた。
「モデル02……? まさか本家は、四百年前に封印したあの怨念の遺伝子情報を……科学でクローン化したというの……!?」
呪術と先端科学の融合。異能を神事ではなく兵器として再定義した神代の狂気が、無表情な少年の姿を借りて牙を剥いていた。
「全機、排除コードを実行」
レン・モデル02の冷え切った宣告とともに、強化外骨格兵のバーニアが一斉に唸りを上げ、旧校舎裏の空間へ殺到する。
「下がって、みんな! 私の後ろに――!」
あやめが身を挺して前に出ようとした瞬間、その肩を、泥まみれの手が強く押し留めた。
「……何言ってんのよ、馬鹿!」
みくるだった。
息を乱し、膝を震わせながらも、彼女は手にした木刀の切っ先をレン・モデル02の鼻先へと真っ直ぐに向け直していた。
「あたしが何のためにあんたに頭下げて稽古つけてもらったと思ってんの!? あんたが四百年背負ってきた重荷、今度はあたしが半分背負ってやるって言ったでしょ……!」
みくるの叫びが、凍てついた空気を真っ向から叩き割る。
「行くわよ――あやめちゃん!!」
初めて呼ばれたその名に、あやめは大きく目を見張り――そして、今世で一番の、不敵で誇り高い笑みを浮かべた。
「……ええ! 見せてやりましょう、私たちの『今』を!」
少女たちの意地と、冷酷な科学の狂気が正面衝突する。放課後の校舎裏は、新たな戦乱の坩堝へと叩き落とされた。
(第18話「あやめちゃん、とお呼びなさい。」おわり / 第19話へ続く)




